たまにはぼそっと

ふと思いついたことをボソッと書いてみます。

石亀神社

2022-01-31 14:03:53 | レイライン


犬山城から北へ2kmの所にあります。

以前調べたときには、「織田家・尾張徳川家が重宝した鵜沼石の切出場跡に鎮座する石亀神社」

とあったので、かなり新しいと思っていた。

でも場所が気になっていました。


神社のすぐ南の道は「東山道」と思います。

すぐ近くには、古墳がいっぱい。北には、「八木山」があります。

たしか、八木と言うのは「伊福部氏」と関係があったように記憶しています。

検索したけど、何も出てこない・・・

気を取り直して、階段を登っていきましょう




文字通り、石亀です  と書きましたけど、あまりよくわからないですね・・・似てますよ。


本殿でしょうか


その上にも何かあるようです



八木山が見えます



奥宮?

石神様


天照皇大神宮


後はわかりません・・・

ふと、レイラインを調べると





この近くの古い古墳の多くがこの石亀神社からのレイライン上にあります。

でも、ピタリと正確ではありません。少し誤差があります。目視かもしれません。

レイラインの測量集団の計測ではないのでしょう。

とにかく、おいらの読みは正しかった!

気になったのは、しめ縄。稲わらを束ねて紐で縛ってあるだけ・・・

しめ縄の作り方が分からないのでしょうか?

まさか、これが本当のしめ縄の形とは思いませんけど・・

時代の流れでしょうか


















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猿田彦その 32 居多神社と糸魚川の間

2022-01-28 08:05:58 | 歴史
居多神社は、関川。

その西にあるのが、名立川。ここには、江野神社があります。

もとは、鳥ケ首岬の崖上、竹の内という地に鎮座していたそうです。

正確な場所はわかりませんけど、このあたりでしょう



御祭神
建御名方命 事代主命 大己貴命 素佐能男命 稻田比賣命 

そして、屋主忍男武雄心命 影姫命 武内宿禰命。こちらは後から祭られたと思います。


関川と名立川の間の細い川は開発しなかったかもしれません。

そして、その次は 能生川(のうがわ)。ここが、権現岳からの川です。

次が、早川。 奴奈川神社(田伏)があり、五社神社も3か所あります。

さらに、佐多神社もあります。



さすがに、姫川の河口付近にはサタヒコ達の関係する場所はありませんけど、

支流の、小滝川には、小滝 諏訪神社があります。


サタヒコ達は、関川、名立川、能生川、早川 と次々に田んぼを作っていったのではないだろうか?

1年に1か所とすると、4年かかったことになります。

越にはわりと長い間滞在していたかもしれません。

前にも書きましたけど、翡翠の加工する場所が糸魚川から居多(こた)神社のある、関川に

移動したのは、食料つまり「米」が関係するかもしれません。


権現岳からの川である、能生川には、「柵口」(ませぐち)と言う地名があります。

ウィキペディアより引用
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「柵」と言う字は、しがらみと読めば、水流の向きを変えたり水流を抑えるために川の中に設けたものを指す
稲作が伝来し水田耕作が始まると灌漑が広まり、利水目的で河川からの取水用にしがらみが造られるようになった。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

たしか、弥生時代の稲作は、陸稲(おかぼ)だったように記憶しています。

サタヒコ達は、陸稲ではなく水稲を栽培していたのでしょうか。

あまり稲の事は詳しくないので深くは検証できません。

















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猿田彦その 31 奴奈川姫

2022-01-25 07:24:01 | レイライン
小滝 諏訪神社からのレイラインは以前書きました。

以下からご覧いただけます。

小滝川ヒスイ峡のレイライン


これにもう一つ、夏至の日の出のラインがありました。



五社神社を通ります



50mほど誤差があります。神社以外の何かがあったかもしれません。

五社神社は、サタヒコとかかわりが深い神社です。美濃では彼が生まれた所。

尾張では、高座神社の磐座の麓に五社大明神があります。

その他にも、かかわりのある場所には割と多く存在するようです。

なぜここの五社神社に注目したのかと言うと、近くに権現岳という奴奈川姫の旧跡があり

さらに、奴奈川姫の産所も直線で4kmほど離れた所にあります

なんで、奴奈川姫の関係する場所がここにあるのだろう?

糸魚川じゃないのだろうか?

しかも、この近くで大国主が生まれたことになっている・・・おかしいでしょう

大国主が出雲から来たこと自体が間違っていますよね。

越から、出雲に行くと考えるのが正解と思うのです。


しかも奴奈川姫は逃げ回って挙句の果てに自殺したことのように言われてる・・・

全部「嘘」と思います。

もしかすると、奴奈川姫は架空の人物かもしれない。

モデルになった女性はいるかもしれません。でも、伝説に言われるように、大国主と

仲が悪かったわけではないと思うのです。

タケミナカタもこの地で生まれたわけではありません。

いつものように、誰かが情報を操作しているようです。



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猿田彦その 30 戸隠神社奥社

2022-01-23 17:38:13 | 歴史
彼らの行動力を甘く考えていました。

最初、サホヒコ、サタヒコ達は、居多神社に滞在して、

それから西に向かい糸魚川に行ったのだろうと思いました。

居多神社と糸魚川の間にある川を遡るルートを見たら何か分かるのではないかと考えました。

その結果、どうも、山頂からどの川にも行けるようです。実際にそこに行ってみたわけではないので

確定できませんけど、彼らにしてみればたやすいことだろうと容易に想像が出来ます。

こんな感じです


この時、サタヒコの年齢は、20歳ぐらいでしょう。体力的には問題ありません。

サホヒコは、35歳ぐらいで少々体力不足でしょうか?わかりませんけど・・・

レイラインの測量集団は、年齢はいろいろと思います。

サタヒコが亡くなった後でも、レイラインは出来ていますので、代が変わって測量をしているようです。

もちろん彼らは、測量だけをしているわけではないでしょう。

天体観測により、暦を管理したり、場所の特定つまり「ナビ」もできるでしょう。

サタヒコの良き相談相手と言っても過言ではないと思います。

常に、彼らとサタヒコは行動を共にしているように感じます。

彼らは後に、景行天皇に仕えているようなので、「武内宿禰(たけしうちのすくね)」

の祖先かもしれません。


少し話がそれました。

今まで、どうしても、戸隠神社奥社(戸隠神社九頭龍社)が、そこにある意味を見つけられませんでした。

ところが、このあたりの川を調べるとわかりました。

図に地名を書き込みました


真ん中の丸で囲んだところの、火打山が一番高いようです。標高2,462m。

ここから各方面を見て、地図を作製したのかもしれませんね。

高山まで100kmぐらい。諏訪も同じくらいです。美濃は200km、ちょいと見ることは無理でしょうか。

戸隠神社奥社(戸隠神社九頭龍社)は、伊豆毛神社跡地と鳥居川と、他の細い川でつながっていました。

居多神社からは、関川を遡ると戸隠神社奥社のすぐ近くまで行くことが出来ます。

なぜ、戸隠神社奥社がここにあるのかは分かりません。

神話では、

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
戸隠山は、天照大神が天ノ岩戸にお隠れになったとき、手力雄命(たぢからおのみこと)が力いっぱい投げ飛ばした岩が飛んできてできた
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
このように説明されていますけど、たぶん、嘘です・・・(笑)



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猿田彦その 29  居多(こた)神社

2022-01-21 14:01:36 | レイライン
彌彦神社から、糸魚川まで100kmあまり距離があります。

もしかすると、大きな船を建造してそれで糸魚川まで行ったのかもしれません。

そうだとしても、途中で何か所かは宿泊しなければなりません。

通常は、一日に20kmぐらいの移動距離が適当とされています。

でも、それらしきところが見つかりません。おいらの力不足ですね。

確実と思われる所は、新潟県上越市にある、居多(こた)神社付近と思います




居多(こた)神社

祭神   大国主命、奴奈川姫、建御名方命

社地は慶応2年(1866年)までは現社地北西約1キロメートルにある身輪山(みのわやま)にあったとされています。

何処だか探しましたけど不明でしたが、どうも海岸沿いで浸食により崩れたらしいです。

見当たらないはずですね。

翡翠の加工産地は、この時は糸魚川ですけど、その後この付近に産地が移動したらしいです。

弥生時代から古墳時代の遺跡もあるようです。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
吹上遺跡   弥生時代中期から古墳時代前期

斐太遺跡   弥生時代後期から終末期

釜蓋遺跡   弥生時代の終わりから古墳時代はじめ
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

古墳時代初めのころとは、サタヒコやサホヒコの時代でしょう。

あれこれ調べているうちに、彌彦神社と、上越市の居多神社のちょうど真ん中くらいの位置に

下谷地遺跡というところを見つけました。(新潟県柏崎市吉井にある弥生時代中期の集落跡)


時代的には、サタヒコ達が来た時よりも古い時代ですので直接関係はありませんけど

中継地として、その付近に立ち寄ったかもしれません。

なにより、玉造の加工の後が詳しくわかるようです。

こちら参考にさせていただきました









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猿田彦その 28 彌彦神社

2022-01-20 14:13:35 | 神話
諏訪から日本海へと行くには、川沿いに行ったのですけど、日本海の何処に出たのか?

どれくらい時間がかかったのか?調べてみようと思います。

おそらく、案内人が居たのではないでしょうか。


スタート地点の諏訪からは、田川を北上したのだと思います。

そして、奈良井川に出ます。そして、犀川(さいがわ)から、千曲川に出ます。

千曲川が新潟県に入ると信濃川へと名称が変わります。そして、日本海に出ます。

川を下るには、カヌーのような小さな船を使ったのでしょう。

信濃川の長さは全長367km。平常時の流れは概ね人が歩く速さで、

この速さで流れ続けると約5日で河口にたどりつくそうです。時速3kmぐらいですかね。

一方、サタヒコ達が行った、諏訪湖から日本海までの距離はおよそ250km

単純計算で、3.5日。そして、一日に6時間移動すると、14日ぐらいかかるということですね。

意外と時間がかかるんだ

信濃川沿いには、縄文時代の遺跡も見られます。

馬高・三十稲場遺跡や、

笹山遺跡があります。

どちらも、サタヒコ達の通ったころには廃絶しているとのことです。

他の場所に移ったのでしょうか?

とにかく、縄文の時代から信濃川沿いには人が住み,移動するためのルートが出来ていたと考えても

良いのでしょう

ところで、サタヒコ達は日本海の何処に出たのでしょうか?

なかなか決め手が見つかりませんでした。

ふと、いつもの手で海面を5mほど上げてみようかと思いつき見てみました


えっ!湖なのか湾なのか、とにかく今と全然違いますね。

赤色で書いた、彌彦神社があります。

この付近に出たのではないだろうか? 彌彦神社を調べてみましょう

祭神は、伊夜日子大神(いやひこのおおかみ) 御名 天香山命(あめのかごやまのみこと)

神系図もありますね。

おいらの作った系図とは少し違います。おいらの系図を載せましょうか

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
一御子・天香語山命
二御子・天村雲命
三御子・天忍人命
四御子・天戸目命
五御子・建斗米命
六御子・建田背命 = 由碁理(竹野姫の父親),

                    ↓

七御子・建諸隅命 (川上摩須)    丹波竹野媛(姉もしくは妹)ーーーーー開化天皇  
                                  ↓                  

八御子・倭得玉彦命   川上摩須郎女(かわかみますのいらつめ)ーー彦坐王    (兄) 崇神天皇          
                              ↓ 

九御子・若都保命                  サタヒコ=朝廷別王 
      ↓                     ↓ 

   高材比売(たかきひめ)  ーーーーーー     迦邇米雷王
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

まあ、どちらにせよサタヒコと深いかかわりのある神社です。



もう一つ引用します
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
天香山命がこの世からお隠れになると、息子の天五田根命(あめのいたねのみこと)が廟社を築きます。崇神天皇(在位紀元前97~30年)の時代に天香山命の子孫である建諸隅命(たけもろすみのみこと)が社殿を造営。それが彌彦神社の始まりであり、2400年以上もの歴史を有する越後一宮の神社となったのです。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

おいらの系図を見るとわかりますけど、建諸隅命=川上摩須なので、

彼は久我耳三笠に追われていたのでここに神社を建てる余裕などないと思われます。

この神社を建てたのは、サタヒコでしょう。

でもこの時ではなく、後の力をつけた時でしょう






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フンガトンガ・フンガハアパイ火山

2022-01-17 08:09:09 | Weblog
かなり大規模の噴火のようです

噴火したのは、トンガの首都ヌクアロファの北方約65キロにあるフンガトンガ・フンガハアパイ火山。

海底火山とのこと。

すごく範囲が広いとのこと。画像を探しました



フィージー島が見えますね


このあたりが、噴火の場所

大きさを比較するため、画像を切り取り、張り付けてみます。」
こんなところでしょうか

同じ縮尺で北海道を載せます

あれ?少し大きくなってしまってます。

でも、でかい!

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猿田彦その 27 諏訪から越まで

2022-01-14 13:14:17 | 歴史
 諏訪から越までの道のりは、すでにこちらで書いていますので、参考にしてください
大国主と朝廷別命の日本海までの足跡


川に沿って移動しています。

途中、「伊勢」と名がつく場所もあります

伊勢津彦(=大国主=サホヒコ)の足跡と考えていいでしょう。

こちらの近くも通ります


伊豆毛神社跡地と言う所がありますけど、ここが風間神社の元の地ではないかと思います。

レイラインがあります。それについてはのちほど。



風間神社の御祭神
伊勢津彦命  級長津彦命  級長戸辺命  建御名方命

摂末社に関しては、伊勢社、金刀比羅社、天村雲社、猿田彦社、天神社、三宝荒神社、伊勢社の名が

あるとのこと。

猿田彦(=サタヒコ=朝廷別王)の名前もありますね。






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猿田彦その 26  洩矢神社のレイライン

2022-01-13 05:44:19 | レイライン
洩矢神社は今,ゲームで人気になっているそうですね。

でも、3年ほど前に訪問した時はまだそのようなことは無く、誰も訪問者が無かったです。

おかげでゆっくり訪問することが出来ました。

以前はこの場所ではなく、もっと川の近くにあったそうです。

レイラインを見てみましょうか。

諏訪大社下社秋宮からの、冬至の日の入りのラインに、現在の洩矢神社があります






ということは、現在の場所に洩矢神社が移動してから秋宮が出来たことになります。

逆もあるかもしれませんね。秋宮が出来てから洩矢神社が移動したかも?

これ以上は、踏み込めませんのでこの件はここまでにしておきましょうか。


下社は上社よりも時代が後に出来たという資料を見たことがあるような気がしますけど

今調べても見当たりません。

もしそうならば、レイラインの測量集団の測量ではないかもしれません。目視だろうか?

ちなみに、標高を見てみると

秋宮が794m、洩矢神社が773m、目視でも誤差はほとんどないのでは?

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猿田彦その 25  洩矢神社、藤島神社

2022-01-12 08:05:12 | レイライン


藤島神社がわかりませんね。  画像を載せておきます


一説によると、タケミナカタは、諏訪に入るときに藤島神社に陣を築き

地元の洩矢神は、洩矢神社にいて戦ったことになっています。

武器が、タケミナカタの方は、藤のつるで、洩矢神は、鉄の輪と言われますけど、

そうではなくて、藤の鎰(かぎ)と、鉄の鎰を手にして引き合った。と言う説もあります。

でもこれ、1249年に出てきた話だそうです。

少し前にも書きましたけど、サタヒコ達が諏訪にやって来た以前の古墳から鉄製品が発見されたという

資料が見つからないのです。おいらの捜し方が悪いのでしょうか?

もう少し調べようかと思っています



信濃国の枕詞「みすずかる」を含む万葉集の歌について、

そこから「すず鉄」に話が関連づけられている説もありますけど、

「みすずかる」の漢字表記は「み篶刈」

『万葉集』の漢字表記は「み薦刈」で、「篶」と「薦」が異なるとのこと。

竹と稲の違いだそうです。こちら参考にさせて頂きました。

すず鉄(褐鉄鉱)についての説も、なんか疑問が出てきました。







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猿田彦その 24  矢彦神社のレイライン

2022-01-10 09:18:26 | レイライン


となりに、小野神社がありますけれど本来は同じ神社だそうです。

ここは、訪問したことがあります。

でも、ここには書いていませんね。画像もどこかに行っちゃいました・・・

レイラインを見てみましょうか




ここにも、御射山社があるのです。最初そこを通るのかと思ったのですけど、違いました。

稗田川をさかのぼって行くと、三輪社と言う所があります。でも、少しずれていますね。

50mほど離れた所を通ります。

その場所に何かがあったのか? それとも、誤差なのか?不明です。

どちらにせよ、御射山社の敷地内だったのでしょう。

御射山社跡(長野県上伊那郡南箕輪村)と同じ名前の場所と言うことで、当然関連があります。

サタヒコ達が行く以前から、諏訪のこの地に住んでいた人の信仰する神様を「ミシャグジ神」

と言うそうです。

御射山(みさやま)の名前は、このミシャグジの「ミシャ」から来ているのではないかと思うのです。

もしそうならば、やはり、先人の人達と良い関係を築こうとする行いなのではないだろうか?





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猿田彦その 23 諏訪大社 前宮 のレイライン

2022-01-09 14:30:42 | レイライン
せっかくレイラインを見つけたので、少し中継地を飛ばします。

この後元に戻るつもりですので、ご容赦。


諏訪大社にはレイラインが無いかもしれないと思っていたので、今回の発見はうれしいですね。

それでは見ていきましょうか

全体はこんな感じです


諏訪大社前宮


何処からかと言うと

阿久遺跡というところです

ちょうど、諏訪大社前宮の古墳のある所を通りますが、レイラインの起点である阿久遺跡(あきゅういせき)

の範囲が割と広いので、必ずしも古墳と関係があるわけではありません。

地図です

この地図の中央の場所は、「立石」 がある場所です

どちらも、まだ訪問していません。

阿久遺跡についてはこちらのPDFが参考になります。こちらも。

それによると、「検出した縄文時代の遺構と遺物は、現段階の所見では中期後葉~後期前葉である。」

とのことです。でも、サタヒコ達が来たのは弥生前期です。と言うことは、その時代でも

この阿久遺跡は、まだ重要な意味を持った場所だったということになります。

そして、そこのレイライン上に諏訪大社前宮があるということは、その地に居た人たちを非常に

大切に扱っていると考えていいのではないでしょうか。

争いを起こして征服したならば、このようなレイラインが生まれるはずはありません。


諏訪大社 本宮はレイラインから少し外れます。つまり、レイラインとは関係が無いと言うこと。


これで時間の流れがきちんとわかりますね。

まず、伊勢津彦(=サホヒコ=大国主)とその子供たち、つまり建御名方神(タケミナカタ)と、

事代主神(コトシロヌシ)そして、サタヒコとレイラインの測量集団は、諏訪大社 本宮に滞在します。

その後、タケミナカタは、八坂刀売神(ヤサカトメ)を妻とします。

ヤサカトメは、諏訪の地を治めていた人の娘でしょう。

その住居が、諏訪大社前宮と考えていいのではないでしょうか。

気になるのは、縄文時代の阿久遺跡から鉄製品が出てこないということ。

平安時代後期の場所からは出てきているようなのですけど。

そのことについては、まだ発掘されてないところがあるようなので、結論は出ませんね。

せっかく地図をつなぎ合わせたんで、載せておきます。





たった今、もう一つレイラインを発見しました。

これについては、次回に書いてみようと思います。

いろいろと、今まで不明だった事実が分かってきました。。。













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猿田彦その 22 諏訪のレイラインを発見!

2022-01-08 14:01:49 | レイライン
今まで、諏訪付近のレイラインをだいぶ探したけれども見つからないのであきらめていました。

南宮神社(春宮) 長野県上伊那郡箕輪町 は訪問したことがあるので、その近くを見ていたら

そういえば、御射山三社御符社、そして秋宮社があったなぁ・・・と。

これらの神社は時代が新しいと思います。

他にそれらしきところはないかと探すと、

「御射山社跡」、「御射山大社趾」と言う所があるのに気が付いた。

地図は、御射山社跡です。名前は出てきません。google地図には載っています。


御射山大社趾  こちらも名前は出てきません。google地図には載っています。


あれ?ひょっとすると、この近くに、おいらの知り合いの農場があったとおもうのですけども・・・

地図で調べたら、まだ温室は残っているようです。でも、だいぶ以前に手を引いたので、

他の人の手に渡ったようですね。

それはさておき、レイラインを見たら。






ピッタリです。

と言うことは、サタヒコ達は、ここに居たことになります。

ここもやはり、天竜川から御射山社跡まで、2kmと距離があります。

そして、その2か所の標高差はおよそ100mあります。

やはり、周りが良く見えるような場所に住居を築いたのだろうか?

でも、ようやく手掛かりが、見つかりました。。。

この他にも、レイライン見つかりましたので、次にご紹介します。
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猿田彦その 21 大御食神社

2022-01-05 18:27:41 | Weblog

訪問したことは無いです。でも本があります。


あれ?画像が横向きですね・・・なんで?


古代文字についていろいろ書いてあります。まだ十分読んでない・・・

古代には字が無かったという説がありますけど、レイラインをすごい精度で計測する人たちが

文字を持ってないなどとは考えられません。

カタカナの形はヘブライ語に似ているという説もあるようです。まあ、それらの事については専門家じゃないので

これくらいにしておきましょうか。


この、大御食神社の創建は景行天皇48年と書かれています。

334年頃と推測します。もうサタヒコはこの世に居ない時代です。

当時、サタヒコ達は、ここを中継地として諏訪に進んだのかどうかはわかりません。

ここも、天竜川から1.9km離れています。これをどう考えていいのか?悩みます・・・







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猿田彦その 20 諏訪神社

2022-01-04 14:13:23 | 神社


方々津神社の近くです。



後で気が付いたのですけど、神紋がここに写ってますね。

諏訪大社は梶ですが、上社は根が4本の「諏訪梶の葉」

下社は5本の「明神梶の葉」と分かれているそうです。

この画像からはそれが分かりませんね。来年覚えていたら気をつけてみよう。


結構きつい


本殿

摂社末社がたくさんあります




サホヒコ=伊勢津彦=大国主は、ここに住んでいたのじゃないかな?

神社は、後から出来たのでしょう。

鏡があるそうですけど、どんなのかは分かりません。


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