たまにはぼそっと

ふと思いついたことをボソッと書いてみます。

人は楽器ケースの中に入ってはいけないそうです

2020-01-16 07:16:24 | Weblog
人は楽器ケースの中に入ってはいけないのはなぜか?

最初、このタイトルを見て、思わず笑ってしまったけど、記事を読んでいくうちに

これはただ事ではないなと・・・

簡単に言えば、次の通りです

気密性があり、防音性もあるので非常に危険とのこと。

詳しくは、こちらに紹介されています。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

伊勢津彦が去った後の伊勢 その3

2020-01-04 05:31:00 | 神社
もう一度、地図をみてみましょう



少し妄想をしてみます

伊勢津彦の居た頃、丹生水銀鉱から掘り出された辰砂は、櫛田川を下り、飯野高宮神山神社から、

祓川を下り、現在の斎宮の場所で大きな船に積み替えられ伊勢湾に出て、

それぞれの彦坐王ファミリーのところに運ばれたと思うのです

またまた5m海面を上げてみます



ところが、伊勢津彦が去った後、曙立王命がやってきて、陸路で辰砂を運ぼうとして佐奈神社

を作ったけれど、事がうまく運ばなかった。

伊勢津彦=狭穂彦(彦坐王の子)と一緒に伊勢にやって来た伊福部氏は、取れた辰砂を宮川まで

運び、川沿いの辰砂の加工をしていた森添遺跡の場所(後の久具都比賣神社)を経由して

さらに、宮川を下り海に出たところから、大型船に積み替えて彦坐王ファミリーのところに運んだ

その港が、外宮ではないでしょうか。これも5m海面を上げた地図です



外宮は、海に面しています。そして、そこから船で内宮に行くこともできます。

実際、内宮の摂社である津長神社は、鎮座地の古い地名を「津長原」と言い、

五十鈴川を遡上してきた船の船着き場があったそうです。



倭姫命もここで上陸したと伝えられています



コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

外宮と倭姫御陵のレイライン

2020-01-03 08:13:41 | レイライン
倭姫の御陵

地図です

倭姫宮の近くにあります。

直接行くことが出来る道があるようですけど、関係者以外は立ち入り禁止です。

少し遠回りをして到着


坂を登ります


ここから先は立ち入り禁止です。





参考までに、海面を5m上げてみます



少し乱暴ですけど、当時の海岸線はこのような状態に近いと思われます。

海面の高さが変わったのではなく、(現在とほとんど変わらないそうです)

川から流れてきた土砂が堆積して陸地が出来たと解釈します。



これで気が付くことは、外宮から東に御陵があるのです。

いろいろ調べてみると、外宮にある御食殿から見た春分の日の出の位置に御陵があるのです


矢印が御食殿です


春分、秋分の日は4年周期で日にちが移動するそうです。

詳しくはこちらを参考にしてください

そして、日の出の位置も少し移動するので、探ってみると2021年の3月20日が一番近いです



これで、御食殿から見た春分の日の(秋分かもしれません)日の出の位置に倭姫の御陵があると

解釈してもいいのではないでしょうか。



御食殿が出来た時代は、倭姫の時代より200年ほど後になるようですので、直接関係はないですけど

その御食殿のある場所に、倭姫に関係する何かがあったのではないでしょうか。


一般には、外宮は約1500年の歴史と言われますけど、

倭姫の時代にはすでに何かの形で存在していたことになります。

内宮と外宮の原型は、ほぼ同時代に出来たと言うことでしょう。

西暦300年~330年のころでしょうか。



御食殿には近づくことが出来ません。



この先立ち入り禁止です

御食殿については、こちら参考になります


神宮徴古館に御食殿の実物大の模型が展示してあります。

ざんねんながら、撮影禁止なので画像はないですけど、

一本の木を削って作った階段が印象的でした














コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

あけましておめでとうございます

2020-01-01 06:28:28 | Weblog


今年は、絵を描いていません

あしからず

この画像は、犬山の大縣神社にあったネズミの彫刻です。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする