前回の、伊久良河宮の続きですけど、伊吹山での製鉄を行うための材料は、
金生山周辺の鉄鉱石です。
こちらの
古代の鉄生産についてが、非常に参考になります。
それによると、この地方で採れる鉄鉱石は、鉄の含有量が高く、砒素と銅を高濃度で含むそうです。
そして、この地方の4世紀後半から5世紀初頭にみられる古墳の出土遺物に見られる鉄製品には
砒素と銅を高濃度で含むものがあると言われます。
さらに、バナジュウムとチタンの割合が低いそうです。
それが示す意味は、砂鉄ではなく鉄鉱石からの製鉄であると書いておられます。
このことにより、
昼飯大塚古墳の埋葬者である、おそらくは、「息長宿禰王 (おきながのすくねのみこ)」
の時代には、この金生山の鉄鉱石を使った製鉄を行ったことが裏付けられたと言えるでしょう。
参考にさせて頂いた「古代の鉄生産について] (八賀 晋) に書かれている
「金生山周辺古墳出土鉄製品分析表」に出て来る「遊塚古墳」、そして「中八幡古墳」ですが、
どちらも5世紀ごろの前方後円墳です。
気になったので、レイラインを調べました。
宗慶大塚古墳からの春分の日の日没に中八幡古墳があります。冬至の日没のラインに昼飯大塚古墳が
あるので、この二つの埋葬者は、兄弟と解釈していいと思います。
遊塚古墳はというと
昼飯大塚古墳からの夏至の日没のラインにあります。子になるのでしょう。
ということは、神功皇后の兄弟かもしれない。誰だろう?
分かりやすいように図にしてみました
猿田彦と天宇受売命(アメノウズメ)の子は、神大根王の他にもいるようです。そのことについては
今後、調べていきたいと思います。
さて、この金生山付近で、最初に製鉄を行ったのはサタヒコ(朝廷別王)だろうか?
それとも、息子だろうか?
宗慶大塚古墳がこの場所にあるということは、やはりサタヒコが・・・というより彼が連れて来た
製鉄に関する技術者が鉄鉱石に気が付いて、製鉄が始まった。
そして、その場所に住み着いたと考えるのが適当かと思います。それ以外の理由が見つからない・・・
伊久良河宮を拠点にして付近を捜索した結果、金生山(昼飯大塚古墳の北に位置)にたどり着いたのでしょう。
そこにある白髭神社は、鉄鉱石のある場所を探る最初のころの重要な場所だったのかもしれません。
南宮御旅神社の祭神は、金山姫神。 南宮大社の祭神は、金山彦命。
どちらも製鉄の神様ですね。
その技術者たちが信仰していた神様,もしくは、彼らが神になったのかもしれません。
愛知県犬山市にある「東之宮古墳」から鉄製品 58点(鉄刀、鉄斧、針筒、鉄鏃など)が、副葬品にあります。
これらは何処の鉄を使ったのだろう?
時代的には、サタヒコが持ち込んだものと考えていいでしょう。
金生山の鉄なのか、それとも、それ以外の場所からのものなのか?
分析したデーターがあれば知りたいですね。
時代を検証してみましょうか。
仮に、サタヒコの生まれを、ヒバスヒメより3年後の「265年」とします。
伊勢津彦が、伊勢から追い出されるのが、「281年」 その時、サタヒコは、16歳。
おいら、最初のころは、この時点でサタヒコはすでに妻と一緒に犬山の本宮山に住んでいたと考えてい
ましたけど、そうではなく、父親の彦坐王と一緒に春日井の東谷山付近に住んでいたと考えるのが
適当かと思います。
その後、各地にどれだけの期間滞在したかは分かりません。
仮に、三河に1年、諏訪に1年、越に1年居たとすると、尾張に帰ったのが19歳。
その後、東之宮古墳の埋葬者(尾張大印岐と推定します)の娘(真敷刀婢と推定します)を妻にしたと考えます。「284年ごろ」
その時、尾張大印岐の年齢は仮に、35歳とします。
サタヒコが、倭姫を伊勢に連れて行ったのが「302年」尾張大印岐の年齢は、53歳になります。
もう少し若いかもしれませんけど、どちらにせよ、当時としてはそろそろ寿命と言う年齢です。
サタヒコの状況から推測すると、まだこのころには伊吹山付近で製鉄を大規模で行うには無理があるように思います。
すると、「東之宮古墳」の副葬品である鉄製品は、どこかほかの地から持ってきたと考えるのが適当かと思います。
不思議なのは、白鳥塚古墳、青塚古墳、宗慶大塚古墳からは、鉄製品が出土していないということ。
昼飯大塚古墳からようやく鉄製品が出ているのです。
東之宮古墳と昼飯大塚古墳の間には、およそ、100年(4代ほどの世代)の違いがあります。不思議です。
春日井での製鉄は、この時期行っていたかどうかはわかりません。
彦坐王は、金生山付近の鉄を見逃してその地を通り過ぎているということは、
彼は、製鉄とは無関係かもしれない。