たまにはぼそっと

ふと思いついたことをボソッと書いてみます。

愛知県春日井市の砂鉄

2022-03-06 16:23:46 | 歴史
郷土誌かすがい 第46号「春日井の黄金伝説  小木曾正明」

に、愛知県春日井市の製鉄に関する場所や、砂鉄の産出する所が書いてあります。

そこに出て来る場所などをgoogle地図で調べてみました。


こちら地図です

分かりやすいように、そして、少し付け加えたい所もあるので、地図に書き込んでみます。


郷土誌かすがい 第46号「春日井の黄金伝説  小木曾正明」より、少し引用させていただきます

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
高座山の麓の五社大明神社には、此の近隣では余り見られない天目一箇神が祭られているからです。この神は周知の如く金属・製鉄神として良く知られた神で、此の地に天目一箇神が祭られる以上何かの特殊な事情がなければならないからです。
この天目一箇神については前から心に引っ掛かっていたのですが、昨年夏旧高蔵寺町在住の日比野実氏からお手紙を頂き、白山神社の裏手丘陵にかつて「かねば」と呼ばれる豊富な砂鉄を含む場所があった事を教えられ、理解の糸口を掴んだ様な気がしました。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

五社大明神社の創建は、サタヒコの時代よりかなり後のようです。

祭神が、大碓尊(おうすのみこと)と言う事もそれを表していると思います。

大碓尊=サタヒコですので。

白山神社には以前訪問したことがありますけど、かなり前なので画像がありません。

記憶も同じくあいまいなので、出かけてみました。

今日の所は時間がありませんので、次の機会に詳しく書いてみたいとます。


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猿田彦その 32 居多神社と糸魚川の間

2022-01-28 08:05:58 | 歴史
居多神社は、関川。

その西にあるのが、名立川。ここには、江野神社があります。

もとは、鳥ケ首岬の崖上、竹の内という地に鎮座していたそうです。

正確な場所はわかりませんけど、このあたりでしょう



御祭神
建御名方命 事代主命 大己貴命 素佐能男命 稻田比賣命 

そして、屋主忍男武雄心命 影姫命 武内宿禰命。こちらは後から祭られたと思います。


関川と名立川の間の細い川は開発しなかったかもしれません。

そして、その次は 能生川(のうがわ)。ここが、権現岳からの川です。

次が、早川。 奴奈川神社(田伏)があり、五社神社も3か所あります。

さらに、佐多神社もあります。



さすがに、姫川の河口付近にはサタヒコ達の関係する場所はありませんけど、

支流の、小滝川には、小滝 諏訪神社があります。


サタヒコ達は、関川、名立川、能生川、早川 と次々に田んぼを作っていったのではないだろうか?

1年に1か所とすると、4年かかったことになります。

越にはわりと長い間滞在していたかもしれません。

前にも書きましたけど、翡翠の加工する場所が糸魚川から居多(こた)神社のある、関川に

移動したのは、食料つまり「米」が関係するかもしれません。


権現岳からの川である、能生川には、「柵口」(ませぐち)と言う地名があります。

ウィキペディアより引用
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「柵」と言う字は、しがらみと読めば、水流の向きを変えたり水流を抑えるために川の中に設けたものを指す
稲作が伝来し水田耕作が始まると灌漑が広まり、利水目的で河川からの取水用にしがらみが造られるようになった。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

たしか、弥生時代の稲作は、陸稲(おかぼ)だったように記憶しています。

サタヒコ達は、陸稲ではなく水稲を栽培していたのでしょうか。

あまり稲の事は詳しくないので深くは検証できません。

















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猿田彦その 30 戸隠神社奥社

2022-01-23 17:38:13 | 歴史
彼らの行動力を甘く考えていました。

最初、サホヒコ、サタヒコ達は、居多神社に滞在して、

それから西に向かい糸魚川に行ったのだろうと思いました。

居多神社と糸魚川の間にある川を遡るルートを見たら何か分かるのではないかと考えました。

その結果、どうも、山頂からどの川にも行けるようです。実際にそこに行ってみたわけではないので

確定できませんけど、彼らにしてみればたやすいことだろうと容易に想像が出来ます。

こんな感じです


この時、サタヒコの年齢は、20歳ぐらいでしょう。体力的には問題ありません。

サホヒコは、35歳ぐらいで少々体力不足でしょうか?わかりませんけど・・・

レイラインの測量集団は、年齢はいろいろと思います。

サタヒコが亡くなった後でも、レイラインは出来ていますので、代が変わって測量をしているようです。

もちろん彼らは、測量だけをしているわけではないでしょう。

天体観測により、暦を管理したり、場所の特定つまり「ナビ」もできるでしょう。

サタヒコの良き相談相手と言っても過言ではないと思います。

常に、彼らとサタヒコは行動を共にしているように感じます。

彼らは後に、景行天皇に仕えているようなので、「武内宿禰(たけしうちのすくね)」

の祖先かもしれません。


少し話がそれました。

今まで、どうしても、戸隠神社奥社(戸隠神社九頭龍社)が、そこにある意味を見つけられませんでした。

ところが、このあたりの川を調べるとわかりました。

図に地名を書き込みました


真ん中の丸で囲んだところの、火打山が一番高いようです。標高2,462m。

ここから各方面を見て、地図を作製したのかもしれませんね。

高山まで100kmぐらい。諏訪も同じくらいです。美濃は200km、ちょいと見ることは無理でしょうか。

戸隠神社奥社(戸隠神社九頭龍社)は、伊豆毛神社跡地と鳥居川と、他の細い川でつながっていました。

居多神社からは、関川を遡ると戸隠神社奥社のすぐ近くまで行くことが出来ます。

なぜ、戸隠神社奥社がここにあるのかは分かりません。

神話では、

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
戸隠山は、天照大神が天ノ岩戸にお隠れになったとき、手力雄命(たぢからおのみこと)が力いっぱい投げ飛ばした岩が飛んできてできた
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
このように説明されていますけど、たぶん、嘘です・・・(笑)



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猿田彦その 27 諏訪から越まで

2022-01-14 13:14:17 | 歴史
 諏訪から越までの道のりは、すでにこちらで書いていますので、参考にしてください
大国主と朝廷別命の日本海までの足跡


川に沿って移動しています。

途中、「伊勢」と名がつく場所もあります

伊勢津彦(=大国主=サホヒコ)の足跡と考えていいでしょう。

こちらの近くも通ります


伊豆毛神社跡地と言う所がありますけど、ここが風間神社の元の地ではないかと思います。

レイラインがあります。それについてはのちほど。



風間神社の御祭神
伊勢津彦命  級長津彦命  級長戸辺命  建御名方命

摂末社に関しては、伊勢社、金刀比羅社、天村雲社、猿田彦社、天神社、三宝荒神社、伊勢社の名が

あるとのこと。

猿田彦(=サタヒコ=朝廷別王)の名前もありますね。






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猿田彦その 17 大宮諏訪神社はなぜその場所なのか

2021-12-27 15:56:13 | 歴史
その16の続きです。

伊勢津彦が伊勢を追われたのが、281年頃と推測します。

そしてすぐに、サタヒコの姉のヒバスヒメは垂仁天皇の妻になります。

倭姫の年齢から考えてみてもそう思います。

とすると、垂仁天皇は美濃に来ていることになります。攻め込まれたということですね。

そのころ、サタヒコと伊勢津彦たちは、この大宮諏訪神社付近に居たのではないかと思うのです。

ここから先は、おいらの妄想になります・・・


まず、美濃が攻め込まれたという連絡が誰かによってもたらされたということは、考えにくい。

でも、彼ら彦坐王ファミリーは、山頂で狼煙を上げることである程度の連絡をしていた可能性があります。

美濃の狼煙がいつもと違うということで、異変が分かったのでしょう。

その時点で、標高の高い場所に移動して基地を作った。その場所が、この「大宮諏訪神社」ではないだろうか?

そして急いで美濃に向かった。

でも、砥鹿神社経由で行くとかなり遠回りになります。

どうするか?近道を考えますよね。

それが、以前書いた恵那山越えになるのでしょう。

神坂神社は、その時に出来たかもしれないと書いていますけど、違いますね。

そんな余裕はないはずです。おそらく、サタヒコが伊勢から帰ってから出来たと思います。

そうすると、レイラインが熱田神宮を通るということも納得です。



サタヒコ達は木曽川を下り、美濃を目指しますけど、その前に犬山に着きます。

そう、東之宮古墳のある所ですね。すでに、そこの人達とは顔見知りなので、そこで情報を

得たのだと思います。

しかし、そこにたどり着く前には、大和朝廷の武装集団がいるかもしれないと考えるでしょうね。

どうするか?

少し手前で木曽川から上陸して、偵察に行くと考えるのが普通ですね。

その場所が、桃太郎神社付近でしょう。

桃太郎神社より上流に、「栗栖神社」と言う所があります。




その少し西に、瀬ノ上遺跡と言う所があります。この遺跡は少し時代が新しいのですけど

この付近が、栗栖神社の元の場所のようです。

このあたりです


この付近に上陸したのではないでしょうか。

そして、この場所は、後に伊勢に行くときの船を作った所がこのあたりだと思うのです。

そこから東之宮古墳の方を見ると


ちょうど右岸によって隠れます



栗栖神社の祭神は、宇麻志麻知命(うましまじのみこと)

  調べると、
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「物部連(もののべのむらじ)、穂積臣(ほづみのおみ)の祖」とあります。

さらに

「宇麻志麻知命は邇芸速日命が登美毘古の妹・登美夜毘売を娶めとって生まれた神様。」
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

宇麻志麻知命については、調べている最中です。サタヒコとはかなり関係が深い人物と思います。


その後どうなったのでしょうか?美濃には行けないでしょう。

春日井の高蔵神社に向かったかもしれません。そして、そこに残っていた人たちと合流して

再び、大宮諏訪神社に戻り諏訪を目指したのではないでしょうか。












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猿田彦その 16 大宮諏訪神社

2021-12-25 18:12:25 | 歴史
猿田彦シリーズ、停止状態です・・・

なかなか難問です。数年前にはかなりの所を訪問しましたけど、はっきりしたことが分からず。

なので、ここにもあまり多くは書いていません。

と言うよりほとんど書いてないのかな?

今までの流れで、気になるところが「大宮諏訪神社」( 長野県飯田市宮の前4164−1)です。



天竜川から、直線で約4km弱あります。この距離に頭を悩ませていました。

でもすぐ近くを、「野底川」が流れていますので、天竜川から移動することは可能でしょう。

ここの、標高は、約 540mです。野底川を下り天竜川に出たところの標高は、390m。

150mの差があります。

訪問したことはあるのでつたない記憶をたどると、

ここの周りはかなり見晴らしの良い所だったと記憶しています。

神社の由緒によると

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
建御名方神が信濃に入り諏訪を統合する途中、当地に立ち寄られたのでこの地に祀られたとされる。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
これが気になるのです。

まず、タケミナカタが諏訪に行く途中この地によられたということは、おいらの言っている

砥鹿神社から天竜川に向かい、その後,諏訪に行ったことの裏付けになると思います。

出雲から糸魚川経由で諏訪に行くとなると、ここは通らないでしょう。

それと「大宮諏訪神社」と言う呼び名です。

長野県北安曇郡小谷村にも「大宮諏訪神社」があります。

薙鎌打ち神事で、有名のようです。

この「薙鎌」と、猿投神社の「左鎌」とは、関係があると思います。

それと、もう一つ気になる事は、時間の事。

そのころ、彦坐王はもう50歳を越えているくらいの年齢です。

すでに亡くなっていたのかもしれません。だから、崇神天皇は、伊勢に攻め入り

伊勢津彦を追い出したのではないでしょうか?

伊勢津彦も大きな戦いもせず、わりとすんなりと伊勢から追放されているようです。

父親の後ろ盾がなかったことが理由かもしれません。


そしてさらに、サタヒコの姉のヒバスヒメが、垂仁天皇の妻になっています。

これはどう見ても、人質に取られたと思うのです。

なぜか理由を考えました。美人だから・・・たぶんそれもあるでしょう!

それとついでに、「伊勢と奈良の間の交通網の確保のために妻(人質)にした」という意味が大きいかと推測します。














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天の羅摩船(あめのかがみのふね)

2021-12-02 10:27:17 | 歴史
猿田彦その 13 で少し書きました。スクナヒコナが乗っていた船です。

スクナビコナは、大国主の国造りに際し、天乃羅摩船(アメノカガミノフネに乗り、鵝(ヒムシ)の皮の着物を着て波の彼方より来訪し、神産巣日神の命によって義兄弟の関係となって国造りに参加した。
(古事記)

コトバンクには
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
ガガイモの実を割って作った舟。上代神話で少名毘古那神(すくなびこなのかみ)が乗ってきたと伝える。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

まあ、これは神話ですから横に置いておいて。。。

こちらの本では、それについて説明されておられます。

少し長くなりますけど引用します
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「カガミ」は「鏡」を連想させると考えるのが自然ではなかろうか。少なくともピカピカ光るものである。

そこで顔を映す鏡もさることながら、たとえば、コクタンのような黒い堅い木をツルツルに磨き上
げた板などを考える。

おそらくはこのような黒光りする板なら、昔の人はカガミと形容したのでは
ないだろうか。

そのような板を船の中でどこかに飾っておいたりする船、そのようなものは考えら
れないか。

そこで出雲地方の神事の中に「カガミ」と名の付くそのような種類のものは伝えられていないか
を調べてみる。そうしたら果たせるかな、そのものズバリのものがあった。

四月七日の青柴垣の神事に、神掛りする人(当屋)の妻の後ろに飾る飾り板を「カガミ板」と呼んでいることがわかった。

現在では縁を黒漆で塗り、板面は金塗り、その表面には鳥居と松と、太陽と三本足の烏、裏面にも
鳥居と松があるのは同じだが、あとは月と兎とが描かれている。

昔だったらこれはどんな板でどのように作られたか、想像することは特に困難な問題ともいえないであろう。

そこでもう一つ考える。「羅摩」とあれば普通なら「ラマ」と読む。

これをわざわざ「カガミ」と読ませている点にも解決の鍵がひそんでいないか。

「独木舟」と書いて「マルキブネ」と読まされていたことを思い出す人も多いであろう。

Single-wood-boat だから Dug-out-canoe になる。

だから「マルキプネ」と読ませたのである。独をマルなどと読む訳では決してない。

それならば「羅摩船」も「ラマ材で作ったものを船の一部に鏡のように飾っておいた船」あたり
が語源ではないだろうか。

おそらく、ラマ材とはコクタンのように磨けば黒光りするような材質の木材ではないだろうか。

美保の関は黒潮分流が洗う所。

それならば黒潮の源流地の言葉ポリネシア系の言葉でラマとはどんな意味かを調べると、これまた、そのものズバリの言葉であるのに驚く。

ポリネシア語の分派ハワイ語では、
LAMA=Trees of the genus diospyros(ebony family.) Lama wood was used in building
temples, and a piece of it was placed on altars of the godess Laka.

すなわち「コクタンの一種の木であり、寺院の建築などの時に用いラカ女神の祭ダンに置く」とある。

しかもそのラカの神とは
LAKA=A god of canoe makers.

すなわち「カヌー作りの神」「船大工の神」ということである。解答は読者諸賢におまかせした

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

もう一つ参考になるところを見つけました。

アロハかわら版と言う所から引用させてもらいます

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
森の女神であるとともにフラの女神でもあるラカのキノ・ラウはラマという柿の仲間です。
(キノ・ラウとは、神が動植物や自然界のもの に姿を変えていることを言います。)

ラマは比較的湿気の多い森に生育します。

小さな実は日本の柿に近い味があり、完熟すると食べることができます。

ラマは、フラのハーラウ(修練所)に設置されるクアフ(祭壇)に置かれます。

ハーラウではこの木を、オーレナ(ターメリック)の根茎などで黄色に染めたカパで包むことが多いようです。

その理由は、ラマが光を表すためだと言われます。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

こちらに画像がありました。

どうでしょう?

「青柴垣の神事」については、おいらは否定的ですけど、

「ラマ」と言う木が船のどこかに使われていたと考えるのが近いかな?



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猿田彦その 15 八坂神社

2021-12-01 14:02:00 | 歴史
三河に居たサホヒコとサタヒコ達は、その後諏訪を目指します。

なぜ諏訪なのかは、分かりませんけど、もしかすると最初から日本海を目指していたのかもしれない

そして、最後には奈良を取り囲むつもりだったのかもしれない。

最終的には、その通りになります。

出雲から先は、サタヒコが開拓したようです。そのことについては、まだ十分調べていないので

この先時間をかけてやりたいと思います。

さて、砥鹿神社からの足どりを見てみましょうか。まず、確実なのが、八坂神社です。



砥鹿神社から、豊川を遡り宇連川、亀淵川、分水嶺を通り、今度は相川を下り、大千瀬川が、天竜川に合流する所に八坂神社があります。

おいらが見つけたレイラインの中では、一番古いものです。







本宮山山頂を通ります。

本宮山から八坂神社までは40kmぐらいあるので、途中3か所ぐらい中継地があると思われます。

候補に挙がるのは、ちょうど分水嶺の場所にある池之神社です。

でも、神社としての歴史はそんなに古くはないです。

砥鹿神社から諏訪までは、2年ぐらいかけてあちこちで向きましたけど、決め手のある場所が

なかなか無いのです。ですからここにはあまり書いてありません。

おそらく、かなり速いスピードで諏訪まで行ったのではないだろうかと思います。






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猿田彦その 14 高師小僧

2021-11-30 05:59:30 | 歴史
サホヒコ、サタヒコ達は、どれくらい御津神社に滞在したか分かりませんけど、その後、砥鹿神社奥宮へ

移動したのでしょう。

豊川河口付近には、高師小僧という褐鉄鉱が産出します

現在は、見つけることが出来ないそうですけど、当時、サタヒコ達はこれを利用して製鉄を行ったのだろうか?

情報が何もないので、お手上げです。彼らは、この地から諏訪に向かいますけど、なぜ諏訪なのか

鉄が関係しているようですけど、それ以上はわからない。


神話はありますけど、それは、後から作られたように思います。

豊川河口付近の地図です。5m海面を上げてあります。

高師とあるところは、高師小僧が採れるところです。

少し南に位置するので彼らは、行かなかったかもしれませんね。

あまり、この地区のことを詳しく調べているわけではありませんので、レイラインはわかりません。

彼らがどれくらいこの地にとどまったのかもわかりませんけど、それほど長くはないと思います。



余談ですけど、愛知県以外から来られた人は、この地域の名前に「豊」が付くところが多いので

混乱すると言われます。豊橋、豊川、豊田とこれってもしかすると、

オトヨ(乎止与命)」の「トヨ」から来ているのでしょうか?

オトヨ=サタヒコです。
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猿田彦その 13 御津神社(みとじんじゃ)、御舳玉神社(おへたまじんじゃ)

2021-11-28 15:00:52 | 歴史
御津町商工会のHPより引用します
御津神社より
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
御祭神は伊勢より船にて渡来せられ、船の着いたところを船津といい、お供の神として磯宮かじとり大神、船津大神、お舳玉大神が隋従せられました。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


御舳玉神社より
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
上陸なされた所に船津社がありこれは今の船津橋附近ですが、磯宮社は御津北部保育園の北隣にその旧跡を存じております。この2社は後に移されて御津神社境内になりますが御舳玉神社は茂松村の氏神様として現在地に御鎮座となりました。創立はほぼ御津神社と同じころと思われます。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

これから想像すると、磯宮かじとり大神、船津大神は、サホヒコの息子、

つまり、事代主神、建御名方神となり、お舳玉大神は、サタヒコと考えられます。

サタヒコも同時に船で、来たように書かれていますけど、もしそうならば、合流した場所が話として残っている可能性がありますけど、それは今のところ確認できません。

さらに、そうならば到着した場所はこの御津ではなく、豊川河口付近が適当な場所になると推測します

それから、御舳玉神社の御祭神は住吉大神ですけど、これは、後になってのことで、最初は

「御舳玉大明神」らしいです。そしてこの神社は場所が別です。

「舳玉」とは何だろう?  「舳」「へ」と読むそうです。船の前部のこと。

「玉」は、石の美しく貴いもの。すぐれているものなどですけど、思い当たることは

スクナヒコナ(猿田彦の別名)の乗る船は、「天之羅摩船」(あめのかがみのふね)と言います。

いろいろな説がありますけど、この船には「かがみ」のような艶のある木が使われていたという話があります。

久しぶりの妄想ですけど、この光り輝く木で出来た船に乗ってきた神様と言う意味かもしれません。

何の木だったっけ?  ちょっと待ってくださいよ・・・・探したけど分からない・・・

後ほど・・・

住吉大神は、サタヒコが御津神社についたときには、まだ、生まれていません。

以上の理由から、御舳玉神社は、サタヒコのとどまった場所ではありますが、神社になったのは、

サタヒコが、猿投神社にやって来た頃の晩年と推測します。

本人が、この場所に再びやってきてそこに、この「御舳玉神社」を建てたのかもしれませんね。。。




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猿田彦その 12 サホヒコと合流

2021-11-27 06:09:43 | 歴史
伊勢を追い出され、熱田の港を目指したサホヒコですけど、風に流され三河湾に入っていきます。

そこでたどり着いたところが、御津神社


御津神社から見た三河本宮山


お互い狼煙を上げれば位置が分かりますね。

それから、サタヒコは本宮山を下り、豊川にたどり着きます。

再び、カヌーを作り三河湾に出て、海岸沿いに御津神社にたどり着いたのではないでしょうか。




当時の海岸線予想 海面を5m上げた図です




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猿田彦その 11 本宮山

2021-11-25 05:54:21 | 歴史
本宮山の頂上付近には、国見岩があります。このあたりです。



サタヒコは、ここから、伊勢津彦=サホヒコ=大国主を探したのではないでしょうか。

山頂で、狼煙を上げたのでしょう。


国見岩は「昔、大己貴命がこの岩山に神霊を留め、この岩上から国見をして、“穂の国”を造ったといわれる」場所とのこと。

そこの近くに、岩戸神社があり、そこの祭神は、 大己貴命です。

大己貴命=大国主神ですので、=伊勢津彦=サホヒコ(この関係はおいらしか言ってないかも)。

レイラインを調べるとそうなります













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猿田彦その 10 矢作川から砥鹿神社奥宮

2021-11-24 06:21:16 | 歴史
矢作川を下るには、カヌーのようなものを作りそれで下ったと思います。

その後のルートは、最初,海に出たのかなと思いましたけど、そうでは無く、見晴らしの良い山頂を

選んだのではないかと探したら、「石座神社」(いわくらじんじゃ)が、本宮山の近くにありました。

主祭神は火明之命。これで決まりですね。。。

矢作川から乙川を遡るとここに来ます。

ここで一泊した後に、現在の「くらがり渓谷」から本宮山の山頂を目指したのだと思います。


以前書いた「石座神社」では、「御船町」と言う所で船を作ったのではないかと書いています。

ここには、「御船川」と言う川も流れています。この川を下ったのだろうか?

ならば、猿投山の北側を通ったことになります。

調べると、御船町には白鬚草生息地というところがありました。

「白鬚」・・・サタヒコのことです。

白鬚神社の祭神は、猿田彦です。そこから名前が付いたのでしょうか?

ならば、サタヒコが猿投神社に来てからのことになります。彼の晩年ですね。

ですから、御船川は候補から外した方がいいようですね。

気になったので、出かけましたけど、仕事終わってから出かけたので到着した時はすでに

真っ暗・・・案内の看板だけ見て帰りました・・・

白鬚草生息地のすぐ近くには、お舟石と言う大きな岩があるようです。以下、場所です




大目神社より猿投山の北側を東に向かうと、飯野川に出ます。それを下るとやはり矢作川に出ます。

御船川が、矢作川と合流する少し上流で、これも合流します。

今回、この飯野川沿いを車で走ってきました。すでに暗かったので景色は見られませんでしたね。

今の時期、紅葉がきれいなのでしょうけど・・・

とりあえず、このルートも候補の一つとしておきたいですね。

なので、船を作った場所は、候補として、飯野川、籠川(広沢川が籠川になります)

の付近でしょう。そこから矢作川を下ったと思います。
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猿田彦その9 高蔵神社から矢作川

2021-11-22 17:50:20 | 歴史
その7で書いたように、サタヒコは、サホヒコ(伊勢津彦)と合流するために、春日井の高蔵神社

から、三河の本宮山を目指して出かけます。



高蔵神社からは、水野川をさかのぼり、その後、地図には名前がありませんけど、深川神社までの

細い川沿いに進んだと思います。

それから、またしても名前のない川ですけどそれを遡り、大目神社にたどり着きます。

そこからは、赤津川を遡り猿投神社東の宮を通り、今度は広沢川を下ります。

そして、矢作川に出ます。

地図の距離では31kmぐらいですけど、実際はもっとあり40kmぐらいかもしれません。

急いでいたとしても、1日では行けないでしょう。山の頂上で見晴らしの良い「猿投神社東の宮」

付近で一泊したかもしれません。

レイラインもあります


これが何時測量されたものか分かりませんけど、おそらくサタヒコの晩年、つまり

猿投神社に住むようになってからと考えるのが適当かと思います。



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猿田彦その8 美濃から尾張の高蔵神社までの道

2021-11-19 13:59:08 | 歴史
当時の道は、ほとんど川沿いに進みます。

なので、川の流れが、今と同じ流れならばわりと容易く見つけることが出来るのですけど

流れが変わっているところは、頭を悩ませますね。

とりあえず、地図に主な場所を落とし込んでみました。



琴塚古墳は、景行天皇の妻なので時代が少し新しいですけど、そのすぐ近くを川が流れていますので

参考のため載せました。村神神社に近いです。


石亀神社も時代が違いますけど、東山道がその前を通っています。

すぐ近くに、一輪山古墳があります。そちらを載せればよかったですね。


村上神社から、石亀神社までは、境川がありますけど、現在は「新境川」になっていますので

少し流れが今と違うと思います。船山北古墳群と言う所があるので、その近くを通ったのでしょう。

木曽川を渡って、犬山に行きますけど、現在の犬山城付近は、昔は、「渡し」ではなく「渡り」と言って、川の水位が低い時には岩が出ていて、歩いて渡れたそうです。

現在の、ライン大橋のある所です。今でも水位が低いと岩が見えますよ。

大縣神社までは、川がありません。新郷瀬川と言う川は、1934年に造られた人工河川です。

こちら参考にどうぞ。

旧妙見宮奥之院とは、内津神社の奥宮と思います。

入鹿池から東に向け川沿いに行けるようですけど、まだ行ったことがありません・・・

内津神社からは、春日井市 都市緑化植物園まで、川沿いに道があります。

この道は何度か通りました。

以上が、おいらの想像する当時の道です。






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