丹後半島のレイライン その8 比沼麻奈為神社で、発見したレイラインをよく考えてみます。
こちらにも書いてますね
丹後半島のレイライン その9 途中ヶ丘遺跡、扇谷遺跡
比沼麻奈為神社からの夏至の日の出のラインです。
途中ヶ丘遺跡を通ります
当初、どう解釈して良いか分かりませんでした。
倭姫との関係は、途中ヶ丘遺跡にはありません。ですから、それ以外の関係です。
比沼麻奈為神社の境内社に、稲荷神社と佐田神社があり、稲荷神社は倉稲魂命を祀り、
佐田神社は猿田彦命を祀っています。
『日本書紀』ではウカノミタマを倉稲魂命と表記し、伊勢神宮でも御倉神として祀られています。
保食神(うけもちのかみ)です。
途中ヶ丘遺跡の事を考えてみましょうか。
このあたりです。
すぐ北には、鱒留川が流れています。
これを、遡ると 船岡神社、藤社神社、乙女神社があります。
天女に関係する場所ですね。
サタヒコの祖父つまり、母、川上摩須郎女の親の名の「摩須」は鱒留川の「ます」と言う説があります。
偶然ではないでしょう。たしかこのあたりは砂鉄が出るのじゃなかったのかな?資料を探しているのですけど見つからない・・・
まあそういうことにしておいて・・・
PS このような情報があります。「磯砂山はまさに砂鉄の山であり、京都の大学の調査報告によると、山頂の風化花崗岩を分析した結果、十五%の砂鉄が確認された」
その砂鉄を利用して製鉄を行っていた場所が扇谷遺跡であり途中ヶ丘遺跡でしょう。
ここからは、おいらの妄想です。。。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
その、途中ヶ丘遺跡に川上摩須は当初、住んでいた。ところが、玖賀耳之御笠(クガミミノミカサ)に追われ、久美浜まで逃げた。
製鉄が行われず、鉄製品が奈良まで流通しなくなり、彦坐王が派遣される。
その後、彦坐王が、玖賀耳之御笠を殺してその勢力を無くした。
彦坐王の活躍以降、竹野川及び、鱒留川流域は、もとの勢力、つまり川上摩須の手に戻ったということになります。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
どうでしょうか?当たらずとも遠からずと思います。。。
その後に、竹野神社が出来たと考えるのが適当でしょう。
サタヒコがいつごろこの地に来たのかはまだ特定できていませんけど、
途中ヶ丘遺跡を通るライン上に比沼麻奈為神社を建てたということは確実でしょう。
正確なレイラインを測量して、その場所に神社を建てるという作業をするのは、
サタヒコの他に見当たらないのでそう判断します。
比沼麻奈為神社から1.2km離れたところに、「月の輪田」という田んぼがあります。
このあたりです。
こちら参考にさせて頂きました。
豊受大神(とようけのおおかみ)が天照大御神(あまてらすおおかみ)のために稲作を始めたとされる場所とのことです。
比沼麻奈為神社の境内社には、稲荷神社と佐田神社があります。
当然ですけど、佐田神社は猿田彦命(さたひこ)を祀っています。
この地に、サタヒコがいたということでいいでしょう。
稲荷神社に祀られている倉稲魂命 (うかのみたまのみこと)とは、誰でしょう?
古事記では、須佐之男命と神大市比売との間に生まれた子。
日本書紀では、伊弉諾尊と伊弉冉尊の間の子。
女性の神様のようですね。
単純に考えて、サタヒコが祀られているのだから、こちらは、彼の妻ではないのか?
丹波能阿治佐波毘売のこと? 途中ヶ丘遺跡とは当然関係があります。
比沼麻奈為神社の主祭神は五穀豊穣を願う最高神である豊受大神です。
豊受大神=倉稲魂命 と考えてもおかしくはありませんよね。
つまり、アメノウズメと言うことなのかな? それ以外の答えが見つかりません。
意外な答えが出て来たので、驚いています。
そして、「月の輪田」がここにあるということは、
倭姫とサタヒコとアメノウズメが同時期に、この地に住んでいた可能性があります。
倭姫はおそらく一人では来ていないと思いますので、住居は別と考えます。
比沼麻奈為神社の本殿が神明造りなのもその繫がりなのかもしれない。
そうすると、伊勢の外宮の祭神は、アメノウズメ? そうなります。 驚いた。。。
こちらにも書いてますね
丹後半島のレイライン その9 途中ヶ丘遺跡、扇谷遺跡
比沼麻奈為神社からの夏至の日の出のラインです。
途中ヶ丘遺跡を通ります
当初、どう解釈して良いか分かりませんでした。
倭姫との関係は、途中ヶ丘遺跡にはありません。ですから、それ以外の関係です。
比沼麻奈為神社の境内社に、稲荷神社と佐田神社があり、稲荷神社は倉稲魂命を祀り、
佐田神社は猿田彦命を祀っています。
『日本書紀』ではウカノミタマを倉稲魂命と表記し、伊勢神宮でも御倉神として祀られています。
保食神(うけもちのかみ)です。
途中ヶ丘遺跡の事を考えてみましょうか。
このあたりです。
すぐ北には、鱒留川が流れています。
これを、遡ると 船岡神社、藤社神社、乙女神社があります。
天女に関係する場所ですね。
サタヒコの祖父つまり、母、川上摩須郎女の親の名の「摩須」は鱒留川の「ます」と言う説があります。
偶然ではないでしょう。たしかこのあたりは砂鉄が出るのじゃなかったのかな?資料を探しているのですけど見つからない・・・
まあそういうことにしておいて・・・
PS このような情報があります。「磯砂山はまさに砂鉄の山であり、京都の大学の調査報告によると、山頂の風化花崗岩を分析した結果、十五%の砂鉄が確認された」
その砂鉄を利用して製鉄を行っていた場所が扇谷遺跡であり途中ヶ丘遺跡でしょう。
ここからは、おいらの妄想です。。。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
その、途中ヶ丘遺跡に川上摩須は当初、住んでいた。ところが、玖賀耳之御笠(クガミミノミカサ)に追われ、久美浜まで逃げた。
製鉄が行われず、鉄製品が奈良まで流通しなくなり、彦坐王が派遣される。
その後、彦坐王が、玖賀耳之御笠を殺してその勢力を無くした。
彦坐王の活躍以降、竹野川及び、鱒留川流域は、もとの勢力、つまり川上摩須の手に戻ったということになります。
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どうでしょうか?当たらずとも遠からずと思います。。。
その後に、竹野神社が出来たと考えるのが適当でしょう。
サタヒコがいつごろこの地に来たのかはまだ特定できていませんけど、
途中ヶ丘遺跡を通るライン上に比沼麻奈為神社を建てたということは確実でしょう。
正確なレイラインを測量して、その場所に神社を建てるという作業をするのは、
サタヒコの他に見当たらないのでそう判断します。
比沼麻奈為神社から1.2km離れたところに、「月の輪田」という田んぼがあります。
このあたりです。
こちら参考にさせて頂きました。
豊受大神(とようけのおおかみ)が天照大御神(あまてらすおおかみ)のために稲作を始めたとされる場所とのことです。
比沼麻奈為神社の境内社には、稲荷神社と佐田神社があります。
当然ですけど、佐田神社は猿田彦命(さたひこ)を祀っています。
この地に、サタヒコがいたということでいいでしょう。
稲荷神社に祀られている倉稲魂命 (うかのみたまのみこと)とは、誰でしょう?
古事記では、須佐之男命と神大市比売との間に生まれた子。
日本書紀では、伊弉諾尊と伊弉冉尊の間の子。
女性の神様のようですね。
単純に考えて、サタヒコが祀られているのだから、こちらは、彼の妻ではないのか?
丹波能阿治佐波毘売のこと? 途中ヶ丘遺跡とは当然関係があります。
比沼麻奈為神社の主祭神は五穀豊穣を願う最高神である豊受大神です。
豊受大神=倉稲魂命 と考えてもおかしくはありませんよね。
つまり、アメノウズメと言うことなのかな? それ以外の答えが見つかりません。
意外な答えが出て来たので、驚いています。
そして、「月の輪田」がここにあるということは、
倭姫とサタヒコとアメノウズメが同時期に、この地に住んでいた可能性があります。
倭姫はおそらく一人では来ていないと思いますので、住居は別と考えます。
比沼麻奈為神社の本殿が神明造りなのもその繫がりなのかもしれない。
そうすると、伊勢の外宮の祭神は、アメノウズメ? そうなります。 驚いた。。。