崇神天皇が、佐奈神社に曙立王(彦坐王の孫)を 伊勢に送った後どうなったかを推測します。
もう一度地図を見てみましょうか。
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丹生水銀鉱山から、南に向かうと、宮川があります。
その川を下ると、久具都比賣神社に行きます。
この神社は何?
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伝承によると一之瀬川を下ってきた倭姫命は久具都比古命に出迎えられ、
久具都比女命がその地を「久求小野」であると述べたことから、倭姫命は「久求社」を定めたという
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「久求社」とは、久具都比賣神社のことでしょう。
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ここはどういう場所かというと、森添遺跡という、約4500年前から人が住んでいたところで
そんなころから、辰砂の加工をしていた場所らしいです。
この遺跡からは、日本各地で造られた土器が出土するとのこと。人の交流が盛んだったようです
ひょっとすると、猿田彦という人は、辰砂を使いあちこち旅をしていた商人かもしれませんね。
度会町ふるさと歴史館と言う所にいろいろ資料が展示してあります。
こちらもどうぞ
こんな感じです
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さて、本題ですが、伊勢津彦が去った後、
天日別命はひょっとするとこの地にたどり着けなかったのではないだろうか。
曙立王も同様かもしれません。
とにかく、辰砂が手に入らなかったと推測します。
次の世代である、倭姫がようやくこの地にたどり着くことが出来て、
はじめて大和政権とこの場所との関係が始まったのではないでしょうか?
倭姫は、そういう重大な任務、つまり、大和政権に辰砂が流通するようにする役目があったのではないでしょうか。
伊勢津彦と一緒にこの地にやって来た伊福部氏は、
おそらくは、実質この地を治めていたと思いますけど、その人質としての意味もあったと考えます。
今までのストーリーが正しいとすると、倭姫もその母である日葉酢媛命(ひばすひめのみこと)
も、彦坐王ファミリーと崇神天皇ファミリーの間でかなり苦労されていると思います。
日葉酢媛命においては、垂仁天皇を上手に操縦して、なおかつ景行天皇を彦坐王ファミリーと
トラブルが無いように育て、
さらに、倭姫の重大な任務をサポートしたということをやってのけていらっしゃる。
非常に聡明な方と思います。