たまにはぼそっと

ふと思いついたことをボソッと書いてみます。

大和水銀鉱山の辰砂

2018-03-29 08:26:16 | 神社

アマゾンで探したら、あったんで買っちゃいました。。。




拡大すると




本物だろうか?

水銀鉱山は、現在閉鎖していますけど・・・



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倭姫命(やまとひめのみこと)その6,菟田の筱幡(うだのささはた)

2018-03-20 08:27:26 | 神社


日本書紀では、倭姫命の伊勢に至る足跡は以下です

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
離天照大神於豐耜入姬命、託于倭姬命。爰倭姬命、求鎭坐大神之處而詣菟田筱幡筱、此云佐佐、更還之入近江國、東廻美濃、到伊勢國。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・



天照大神を、豊耜入姫命から離し、倭姫命に託(つ)けました。

倭姫命は大神を鎮座する場所を求めて、菟田の筱幡に至りました。筱は佐佐(ササ)と読む。

更に還りて近江国に入りて、東、美濃を廻りて、伊勢国に到る  




と言うことです

さて、ここの菟田の筱幡という場所は、どういう意味があるのか?

場所は、現在の「篠畑神社」のある付近のことを言うようです


篠畑神社(ささはたじんじゃ)

御祭神 天照皇大神
境内社 市杵島姫命 篠畑姫神





なぜ、この場所なのでしょうか?

近くに、大和水銀鉱山(やまとすいぎんこうざん)が、奈良県宇陀郡菟田野町にあります。

見田大沢古墳群のすこし西のあたりです



両方の場所の距離は直線で、約 8.6km。

鉱山を治める人は、吉野首かもしれません。


倭姫命とこの場所をつなぐ特別な理由は見つけることができません。



ですけど、倭姫命よりも数十年以前に、彦坐王はこの場所、もしくは、この付近を通って

(その時代には篠畑神社は存在していないと思います)水銀にかかわる吉野首と接触があったのでは

ないでしょうか。そして、その後、吉野首の技術者を同伴させたかもしれませんね。



一つ気になることは、「菟田の筱幡に至りました。筱は佐佐(ササ)と読む」と、

「ササ」を強調していることです。

このことについては、のちほど。。。
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倭姫命(やまとひめのみこと)その5、 丹生

2018-03-16 06:44:17 | 神社

倭姫命とは、直接の関係はありませんけど、なぜ伊勢なのかと言うことに関係していると思うので

いろいろ調べてみました。



 まず、`丹"とは 赤色 の塗料,若しくは顔料

古代には、朱(硫 化水銀)が 防腐剤 として遺体 の保存 に利用 されてい た

また、不老 不死の薬として,水 銀や辰砂 が使われ ていた




丹生 とは,辰 砂 の別名で、それが採れるところ という意味でもあるそうです

そして、この生産に携わる者たちをも丹生と言ったようです

その人たちの集団が、丹生族とか、丹生部と呼ばれるようになったそうです


辰砂


こちらから少し引用させていただきます
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「古代ヤマトでいう丹とは 硫化水銀(朱)、四塩化鉛(丹)、褐鉄鉱、赤鉄鉱、酸化鉄(赭)をいい、その生産・精錬を主に生業とする部族を丹生族といったのである」
とした。
広い意味では、水銀はもちろん、金・銀・銅・鉄などの採鉱や精錬、土器製作や土木工事をも含む、凡そ土に関わるすべてに丹生部は係わっていたと思われる。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

丹を産する地は、中央構造線に沿う場所にあります。

九州の熊本県から大分県を通り、四国、紀伊半島、伊勢湾を通り長野県に至り

フォッサマグナの下を通り茨城県へとつながります。

このことから、丹生に関わる人たちは、九州から四国を通り淡路を経由して

紀伊半島にたどり着いたとされる説があります。




 さて、古事記、日本書紀からは、古代ヤマトの丹生地方の土着民に

吉野首(ヨシノノオビト)と言う氏族がいて、

その祖先は、古事記、日本書紀のどちらでも「イヒカ」という名の神とされるとあります。


イヒカは神武天皇の東征の途中で登場してます

そして、吉野首が水銀 または丹砂 の採取 をしていたと思われます。

この、吉野首が、九州から来た丹生部と呼ばれる人たちなのかははっきりとはわかりません。

ですが、どちらにしても大和朝廷と争ったという話が無く、割とすんなりと溶け込んだようなのです。


日本書紀のには以下のようにあります

日本書紀』天武十二年


「冬十月乙卯朔己未。三宅吉士。草壁吉士。伯耆造。船史。壹伎史。娑羅羅馬飼造。

菟野馬飼造。   吉野首。 紀酒人直。釆女造。阿直史。

高市縣主。磯城縣主。鏡作造。并十四氏。賜姓曰連。」


姓を賜って連としたようです。ここで、驚いたことには、「鏡作造」の名もあるんですね。

吉野首は、それなりの地位にいたようです。










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倭姫命その4、おばあちゃんが居た所

2018-03-06 13:21:16 | 神社

ようやく、確定申告書類提出しました。ふう。。。


さて、伊勢神宮の場所について調べているのですけど、これがすごく面白い!

まだ、きちんとまとまっていないんで時間がかかりますけど、

とりあえずは倭姫命のおばあちゃんである、方県津神社(かたがたつじんじゃ)の主祭神の

川上摩須郎女命((かわかみますのいらつめ)は、何処に住んでいたのかわからないか調べてみました。

まず、方県津神社の場所はこちら


ここから、東に目を向けると、五社神社があります。

ためしに、五社神社から春分の日没を見てみますと




なんと、古墳の上。両神社の距離は、500m弱。

五社神社の前を通る道を南に行くと長良川に出ますけど、その先は伊奈波神社 旧跡です。




反対方向の北に行くと、以前おいらが古東山道ではないかと思った、

ながら川ふれあいの森四季の森センター」を通り長良川に出る道になります。



どうでしょう?この場所はかなりの確率で、川上摩須郎女命が彦坐王と暮らしていた場所と考えて

いいのではないでしょうか?

と言うことは、倭姫命の母親である日葉酢媛(ヒバスヒメ)は、ここで育ったかも。




少し坂を上ると鳥居があり


すぐに、拝殿



その後ろに





これだけです。


いかにも、古いという感じです。

由緒を調べようとしましたけど、何もわかりません。

岐阜県神社庁のホームページで調べると五社神社がありますけど、別の神社です。

南東に1kmほどの所にありますので何か関係があるかもしれませんね。





話を戻し、五社神社から少し、北に行くと諏訪神社があります



なんで諏訪神社?  場所が場所だけに、意味が分からない・・・




この景色は、守屋神社に、似てるかななどと思ったりします。











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