たまにはぼそっと

ふと思いついたことをボソッと書いてみます。

伊波乃西神社

2015-09-21 06:08:01 | 東山道


ここへは、もう何度か訪れています。

地図です




祭神  日子坐王

摂末社祭神  瓜入日子王 (やつりいりひこのみこ)

現社殿の西北100mに祭神日子坐王命の御陵とされる古墳跡があり、

元はこの古墳の地に神社があったそうです。

明治8年宮内省より御陵墓と認定されたため現地に遷宮されたとのこと。

鳥居のすぐ左側の画像です



本殿



神社から、数十メートル西に行くと、階段があります



ここが、日子坐命御墓といわれるところです


土が流失したそうで、現在は、高さ2.4m、幅1.8mの岩があります





おいらには、磐座(いわくら)のように見えるのですけど


レイラインを調べましたけど、近くを通るところはありましたけど、たぶん、どこも無いようです

古代の人の測量技術はかなり正確だと思います


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喪山

2015-09-13 10:24:29 | レイライン

2箇所の喪山に行ってきました。

まずは、岐阜県不破郡垂井町にある喪山です



2基の円墳か前方後円墳ではないかと言われています

なかなか大きいです

周囲約200m、高さ約40mとのこと

地図です

すぐ南の道(追分の信号のある道)中仙道でした

東山道は、もう少し北よりを通ると思います

喪山のすぐ東から見た金生山です



喪山伝説とは次のような内容だそうです。ウィキペディアより引用します


葦原中国を平定するに当たって、遣わされた天穂日命(あめのほひ)が3年たっても戻って来ないので、次にアメノワカヒコが遣わされた。
しかし、アメノワカヒコは大国主の娘下照姫命と結婚し、葦原中国を得ようと企んで8年たっても高天原に戻らなかった。そこで天照大神と高皇産霊神は雉の鳴女(なきめ)を遣して戻ってこない理由を尋ねさせた。すると、その声を聴いた天探女(あめのさぐめ)が、不吉な鳥だから射殺すようにとアメノワカヒコに勧め、彼は遣わされた時にタカミムスビから与えられた弓矢(天羽々矢と天鹿児弓)で雉を射抜いた。
その矢は高天原まで飛んで行った。その為、タカミムスビは「アメノワカヒコに邪心があるならばこの矢に当たるように」と誓約をして下界に落とすと、矢は寝所で寝ていたアメノワカヒコの胸に刺さり、彼は死んでしまった。
アメノワカヒコの死を嘆くシタテルヒメの泣き声が天まで届くと、アメノワカヒコの父のアマツクニタマは下界に降りて葬儀のため喪屋を建て殯をした。シタテルヒメの兄の味耜高彦根命も弔いに訪れたが、彼がアメノワカヒコに大変よく似ていたため、アメノワカヒコの父と妻が「アメノワカヒコは生きていた」と言って抱きついた。するとアヂスキタカヒコネは「穢らわしい死人と見間違えるな」と怒り、剣を抜いて喪屋を切り倒し、蹴り飛ばしてしまった。喪屋が飛ばされた先は美濃の藍見の喪山だという。


さて、今度は岐阜県美濃市大矢田にある、喪山天神社です

道中、なるべく東山道に沿うようにして進みました。。。

なので、時間がかかり、到着したときは、すでに薄暗くなってきています。





地図です




拝殿の脇に階段があります




そこを、登っていくと



祠の間には





当時からのものでしょうか?

こちらをご覧ください



古道と描いておきましたけど、なかなか雰囲気の良い場所です

ここから、南にいくと塚原遺跡に行きます。

その途中のやや東には、関市池尻の弥勒寺跡があり、塚原遺跡からそこへの道が東山道飛騨支路ではないかと考えています

話を戻します

まず、前回紹介した観音寺山古墳ですが、こちらから場所を推測するとこのあたりと考えます



そして、冬至の日没のラインは



岐阜県不破郡垂井町にある喪山にかかります


そしてそのライン上には


国分寺


それから、居久良河宮付近をとおります
天神神社は、2箇所あるのですね。もともとは同じところのものでしょうか?

調べると、だんだんわからなくなってきます・・・



ただし、秋分の日のラインを見ると、美濃の喪山とは少しずれがあります



祠のある場所からは、100mくらいでしょうか、南を通ります

ただ単に、偶然なのでしょうか?

それにしては、あまりにもピタリと2箇所の喪山が関係しています

古墳以外の場所で、何か重要な場所があったのかもしれませんね。






蹴っ飛ばした場所が、垂井町で、落ちた場所が美濃、そして葦原中国とは文字通り葦が生えているところ


上磯古墳群のあるところは、葦が生えてそうな場所に思えるのですが・・・妄想しています・・・

この付近だけで、神話が完結してしまいます・・・あくまで妄想です。。。











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美濃観音寺山古墳

2015-09-06 14:43:28 | 東山道
美濃観音寺山古墳は、おそらくすでに消滅しているのではないのでしょうか?

場所を探したのですけどなかなかわからず、ようやく探し当てました

こちらに、そのほかのことも詳しく書かれています



ゴルフ場の中なんで、現地には行けません

このあたりだと思います

この付近から撮った画像です



そして、この道290号線が、古東山道飛騨支路(この名称はいまいちですね。この地方の古道とでも言っておきましょうか)じゃないのかなと思うのです

当時の長良川の様子がわからないので、どのあたりで長良川を渡るのか、いろいろと考えていました。

このあたりで、一番古い古墳がこの観音寺山古墳なのでおそらく、

この付近で長良川を渡るのではないのでしょうか。

ただし、ここより下流でも水量に応じて渡る場所はいくつかあると思います。

たとえば、塚原遺跡付近とか

話を戻します


この美濃観音寺古墳は、時代が、弥生時代後半から古墳時代前半とかなり古いようです

200年~250年といったところでしょうか(訂正します、300年前半と推測します)

そこから、北西に行くと、大矢田神社があります









階段を登っていきますけど、なかなか雰囲気の良いところです








ウィキペディアによると、創建は孝霊天皇の時代とのこと

いつごろでしょう?

紀元50年ごろでしょうか?このころの天皇の年齢どころか、

その人物が存在していたかもわからないみたいです。






後でわかったのですけど、大矢田神社の境外摂社に喪山天神社というところがあります

大矢田神社の主祭神は、建速須佐之男命、天若日子命ですが、

その天若日子の廟所(霊を祭った場所)が、喪山天神社とのこと

地図です

ここは、まだ訪問していません

美濃観音寺山古墳から西の場所です

秋分のレイラインを入れてみます



少し外れますけど、なぜ?

もともとは、もう少し広かったかも?

PS うっかりしていました・・・古墳の位置が特定できていませんね・・・←あふぉ

他ごとをやっていたので、特定できたと勘違いしました

ひょっとすると、場所が特定できないかなとあれこれやってます。




伝説があるようです。ウィキペディアを参照

ところが、美濃の喪山は、もう一箇所岐阜県不破郡垂井町にもあるようです。

地図です

おもしろそうですね。

今度は、この2箇所も訪問してみようかと思います。。。










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