大河ドラマで出てきますね
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>黒田官兵衛が有岡城で捕縛されたため、信長は、官兵衛が村重に加担したと思い込み、官兵衛の嫡男・松寿丸(後の黒田長政)の殺害を秀吉に命じた
竹中半兵衛は「自分にお任せください」と言い、松寿丸を殺したと偽って、密かに自分の居城から近い五明で匿っていました。
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その場所、我が家からそれほど遠くないんで、出かけました
五明神社
地図です
伊富岐神社のすぐ近くです
このイチョウの樹は、松寿丸お手植えのイチョウと言われています。
竹中半兵衛については、わからないことが多いようです
作り話も多いとの指摘もあります
でも、この松寿丸を匿ったというのは真実のようです
黒田官兵衛と、竹中半兵衛は、ほんの1年ぐらいしか付き合いは無いとの話もあります
調べましょう
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永禄10年(1567年)秀吉は「三顧の礼」を持って半兵衛を誘い、半兵衛はこれを受け入れます。
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まあ、この話の信憑性もいろいろありますけど、年代は正しいとします
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永禄十三年(1570年)孝高は、時勢を読み、織田信長への臣従を主君 政職に進言する。岐阜城にて織田信長に拝謁した官兵衛孝高は、忠誠を誓い、そして信長の信任を受けた証として愛刀「圧切」を拝領する。
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死没 天正7年6月13日(1579年7月6日)
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半兵衛は、秀吉の中国地方攻めの折、黒田官兵衛と知り合うそうです
中国攻めはウィキペディアより
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天正5年(1577年)以降、織田信長(織田政権)が主として羽柴秀吉に命じておこなった、毛利輝元の勢力圏である日本の中国地方に対する進攻戦である。中国征伐(ちゅうごくせいばつ)とも称する。戦争は6年におよび、天正10年6月(1582年7月)までつづいた
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あたりですね
1577年より後で知り合い、1579年でお亡くなりになっています
それほど、長い間付き合っていません
なのに、信長の命に背き松寿丸を匿っています
今回、おいらはそのあたりが気になったんで訪問したくなったんですけどね
竹中半兵衛の父が築いた菩提山城は、ここからわりと遠くて、4~5キロくらいあるようです
途中までいきましたけど、さらに1キロの看板にあきらめました・・・
半兵衛の息子で、
関ケ原の戦いにも参戦した
竹中重門が築いた陣屋跡です
関が原は、たしか竹中の領地じゃなかったかな?
竹中重門は、関が原の戦いの後の戦後処理をいろいろとやったそうです