たまにはぼそっと

ふと思いついたことをボソッと書いてみます。

白髭神社

2020-10-30 07:00:57 | レイライン


主祭神は、猿田彦命です。




鳥居が湖の中にあります。

反対側を向くと



階段を登ると


さらに、奥には


その奥は



これって、古墳?



そのようです


後ろから


失礼して中を




横には大きな岩があります




ここ白髭神社にもレイラインがあります。

やはり、春日井の五社神社からです。



参考までに、2020年の春分の日の日の入りです。

春分と秋分の日の出、日の入りは、4年周期で位置が変わります

それを考慮して日にちとか年代をあれこれ検討しました。



最初、誤差かなと思いましたけど、湖の中の鳥居の位置と考えると、どんぴしゃりですね。



ちなみに、五社神社は鳥居に向かって左の方向

画像の中心あたりかと思います。




創建 は、垂仁天皇二十五年なので、椿大神宮(垂仁天皇の二十七年秋)よりこちらの方が古いんですね。

何か特別な意味でもあるのでしょうか?




『倭姫命世記』では、倭姫は、垂仁天皇の22年に「飯野ノ高宮」で4年間天照大神をお祀りしたと記されているとのこと。

とすると、当時は、一年に春と秋に一年づつ年を数えるので、二年間「飯野ノ高宮」に滞在したことになります。

西暦に直すと、(半年~1年ほど誤差があるかもしれませんご容赦)

302年から304年まで飯野ノ高宮に滞在。

304年白髭神社創建

305年椿大神宮創建




さて、この白髭神社はなぜこの場所に建てられたのか?

レイラインは宗教的な理由。

実質的な役目は、おそらく日本海へのルートを作ること。

福井県小浜市平野に白髭神社古墳という所があります。



琵琶湖からここに行くには適当な川が無いかなと探したら、2つのルートが候補にあがりました。

一つは、琵琶湖から国道303号線を通り、途中で国道27号になり日本海に出ます。青い線です

二つ目は、安曇川を遡り、途中で、麻生川に入り木地山峠に出ます。そして、遠敷川を下り

北川に入り、太平洋に出るというルート。赤い線です。

若狹彦神社の近くを通ります。



若狭彦神社


若狭彦神社が出来たのは、もっと時代が後になりますけど、安曇川の河口付近には、

佐田神社と御霊神社があります。どちらも、猿田彦(=朝廷別王、そして、佐太大神も同じ)と関係が深い場所です。

赤色と青色のルートは、どちらが先に出来たかは分かりませんけど、ほとんど同じ時代に出来ていると思われます。




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椿大神社

2020-10-13 06:53:47 | 神社




主祭神は、猿田彦大神

画像はありませんけど、参道の雰囲気がなかなか良いです。





奥の宮があります。そちらが最初でしょう。





駐車場から神社の方角を見た画像です

たぶん、この山の頂上付近と思います。


小滝川ヒスイ峡のレイラインで書いていますけど、、式年薙鎌打神事で、「猿田彦」が出てくるのです

こちらの、中谷大宮諏訪神社にも出てきます

そして、猿投神社と猿田彦、どちらも猿ですね。

猿田彦=朝廷別王と考えられるかどうか探ってみたくなりました。

出来れば奥の宮まで行ってみたいのですけど、体力的に無理なのであきらめです・・・

でも、レイラインがありました!


愛知県春日井市の五社大明神社が、夏至の日の出の場所です。

五社大明神社は、彦座王が最後に住んでいた場所と推測します。
    ↑
PS 多分間違いです。白山神社(春日井市白山町9丁目2)付近がその場所と思います。


そして、朝廷別王命もそこへ頻繁に行っていたと考えます。

奥さんが居る犬山の大縣神社にはあまり居なかったのだろうか?

だから、大縣神社のことを地元では、「姫の宮」と呼ぶのだろうか?などと

つい余計なことを考えます。

話を戻して、

レイラインを五社大明神社に合わせると、奥の宮より少し位置がずれます。



これだけズレます




地図を拡大すると、

仏岩と言うのがあります。この近くになるのでしょう。もしかして何かがあるのかもしれません。

奥の宮から仏岩まで940mくらい離れていますので、ラインまではもう少し短くなるでしょう。

奥の宮から五社神社までは約64.7km離れています。

誤差があっても、無視できる距離かもしれません。
  ↑
PS このラインは偶然ここを通るようです。存在しませんでした。
しかし、御船磐座からのレイラインがありました。



この場所は、もう一つ意味があるのです。

もう一度地図を見ましょう



野洲川の源流があります。

これをたどって川を下ると、どこに行くのか・・・



御上神社にたどり着きます。これは偶然なのか?

彦座王の妻の一人である、息長水依比賣(おきながのみずよりひめ)の父親は、天之御影命(天目一箇神)

御上神社の祭神です  こちら参考にしてください

御上神社は、以前は今の場所ではなく少し離れた場所にあったそうです。場所は特定できていません。

と言うことは、現在の御上神社は、猿田彦が建てたものでしょうか?

ならば、御神神社からのレイラインが衆良神社(朝廷別王命の母親の生まれた場所)

を通るということは、やはり、猿田彦=朝廷別王命と考えていいのではないでしょうか。

ではなぜこの場所を目指してきたのか?

伊勢湾から琵琶湖に行くための道の確保でしょう。

養老の象鼻山古墳群付近に住む人はもともと、岐阜金華山付近に住んでいたのですけど

おそらくは、垂仁天皇に追い出され養老に移動したと考えられます。



ですから、倭姫は伊勢に行くとき、危険回避のため、長良川を通らないで、木曽川と大江川を通ったと考えます。



同じ意味で、養老を通らないで琵琶湖に出る道を確保したかったのでしょう。

椿大神社のHPから引用します

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
垂仁天皇の二十七年秋(西暦紀元前三年)、倭姫命の御神託により、この地に「道別大神の社」として社殿が奉斎された日本最古の神社です。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

西暦紀元前三年と言うのは間違いで、305年ごろでしょう。

倭姫命世記によると、垂仁天皇22年に倭姫命が「飯野ノ高宮」で4年間天照大神をお祀り

とあります、これは、302年で、それから4年間と言うことは、

当時、今の1年に2回年を数えるので、304年に飯野ノ高宮での天照大神をお祀りを終えて

内宮に移動されたのでしょう。

飯野ノ高宮から内宮のレイラインはこの時に朝廷別王命により測量されたと言って間違いないでしょう。

ようやく、いろいろなことが結びついてきました。

そうすると、倭姫を犬山の東之宮付近から船で木曽川、大江川を通り

中島宮から伊勢湾を飯野ノ高宮まで送ったのは、朝廷別王命本人でしょうね。

これって、猿田彦の物語と同じじゃぁ?

とすると・・・(妄想中)・・・アメノウズメ《天鈿女命》とは誰?








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大国主と朝廷別命の日本海までの足跡

2020-10-12 13:06:34 | 神社
大国主 (大国主=伊勢津彦=狭穂彦 と推測します)と、朝廷別命(みかどわけのみこと)は、

諏訪からどうやって日本海に行ったのか考えてみました。

当時、道はまだほとんど整備されてなくて、交通は主に川に沿って行われているようです。

川を伝って諏訪から日本海に出られるのか?

まず始めは、諏訪湖にある岡谷湖畔公園近くに流れる川があります。(名前がわからない)

そこをさかのぼっていくと、塩尻峠の北側に源を発する「田川」の近くに行きます。

そこから北上します。

そして、「奈良井川」に合流。

松本市大字島内で梓川に合流する。梓川は、ここから「犀川」に名を変える。

途中「伊勢」と言う名の付く神社があるようです

伊勢宮

これは、伊勢津彦の足跡でしょうね。

そして、 風間神社(主祭神 伊勢津彦命)のある、長野県長野市風間で、「千曲川」と合流。

新潟県に入ると、信濃川と呼ばれるようです。

最後に、新潟県新潟市で、日本海に出ます。



ながいですね~♪

一方、翡翠の道は、越から「姫川」をさかのぼっていきます。

すると、「姫川源流湧水」という所に行きつきます。

そこから近くにある、「鹿島川」を下り、「高瀬川」に合流

そして「犀川」と合流して「梓川」に変わります。

さらに進み、「梓湖」にたどり着きます



ここから、高山に行くルートがわからなかったのですけど、何度も地図を見ていてふと

大黒岳と、恵比須岳が目に入ったのです。

諸説ありますけど、大黒様は大国主そして、

えびすは、大国主命(大黒様)の子である事代主神(ことしろぬしかみ)とされることが多いとのこと。

ひょっとすると、この近くを流れる川を調べると道がつながるかもしれないと思い地図を見ると。



たぶんこのルートでしょう。当時と今では川の流れが違うかもしれません。

でも、平野とは違うので大きくは変わっていないと思います。

小八賀川までは


全体は


大国岳、そして恵比寿岳は





乗鞍スカイラインを通ると行けるのですね。でも、自家用車は乗り入れ禁止と・・・

知らなかった・・・・

ならば、安房峠を通ろうと国道158号線を進むと通行止めと・・・

非常に快適な・・・安房トンネルを通り松本に抜けました。



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日輪神社

2020-10-11 05:11:39 | 神社
日輪神社 (にちりんじんじゃ)



ここは、パワースポットと言われているらしいですね

場所は以前から知っていたので立ち寄りました。

山の頂上に本殿があるのです。山がピラミッド状になっているのでパワースポットなんだろうか?


階段を登っていきます


まだまだ遠い・・・・

はぁはぁと息を切らして登り詰めるとようやく到着


逆光で画像が見にくいですね. ご容赦~♪




創祀未詳と言うことですけど、このあたりの大和朝廷の神社の中心だったようです。

大国主(大国主=伊勢津彦=狭穂彦 と推測します)が、小滝川ヒスイ峡のある越に行った後

その翡翠を運ぶのに、この神社のすぐ北を流れる小八賀川(こはちががわ)に沿って移動したと考えます

松本から、梓川(あずさがわ)を通りこちらに向かったのでしょう。


話が少し脱線しますけど、途中に「伊勢」と名の付く神社があります。

伊勢二ノ宮神社


ここも立ち寄りましたけど、道が狭く車が駐車できなかったので、場所の確認だけで終わってしまいました。

少し離れたところに車を置いて、歩けばよかったなと反省・・・


縄文時代の翡翠の分布と言う図があります。
「古代翡翠道の謎」森浩一 編尾と言う本からスキャンしました

富山県埋蔵文化財センター「特別企画展ひすい」より抜粋とあります



これをみると、関東、そして東北の方が多いですけど、中部、近畿にも翡翠が運ばれているようですね。

北海道にも行ってますね! これは驚きです。。。


場所は特定できませんけど、この日輪神社近くにも翡翠が発見されているようです。

糸魚川から高山を通り、飛騨川経由で美濃や尾張に行くルートが

すでに縄文時代にはできていたと考えることが出来ると思います。

大国主は、そのルートを利用して翡翠を流通させたのでしょう。

まだその当時は大和朝廷はこちらには来ていないようです。

以前に少し触れましたけど、両面宿祢(りょうめんすくな)のころ、つまり仁徳天皇の時代

にようやく飛騨方面に進出してきたようです。

しかも、その目的はこの翡翠ルートの流通する道を封鎖する目的のためのようです。

この日輪神社は、その目的のため、

すぐ北を流れる小八賀川(こはちががわ)に沿った古道がよく見える

見晴らしの良い山の頂上に建てられたのでしょう。

このような神社は、あちこちに見られます。

なぜ、大和政権は古道を封鎖しようとしたのか?

推測でしかありませんけど、4~7世紀の古墳時代に、仏教とともに中国から日本へ、メッキ技術が伝えられました。

仁徳天皇稜の埋蔵品にある甲冑に、メッキが施されているのが最古といわれています。

このメッキをするのに、水銀を使います。

その水銀は、伊勢や、奈良で採れる辰砂から作るので、それが拡散することを防ごうとしたのではないかと思うのです。

ひょっとすると、それまでは、翡翠と辰砂を交換していたのかもしれません。

両面宿儺の「両面」とはそのことなのでしょうか?

少し妄想が過ぎるかな? せっかくだからもう少し・・・


大和政権が、こうした神社を築くためには、今までの川に沿った古道を通るとそこに住んでいる

住民とトラブルがあったり移動が気づかれてしまったりします。

そのため、独自の道を作らなければなりません。

そうして出来た道が、「東山道飛騨史路」と思われます。

調べてみると、見事に川沿いを避けています。

川を避けることが出来ない場合は、対岸を通っています。

下原八幡神社(岐阜県下呂市金山町中津原)や、

東山道沿いにある阿智神社奥宮( 長野県下伊那郡阿智村智里)も、同じ目的で築かれた神社かと思います。


妄想を終わります。。。
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