たまにはぼそっと

ふと思いついたことをボソッと書いてみます。

像鼻山古墳群

2018-07-16 08:09:12 | 神社
象鼻山古墳群(ぞうびざんこふんぐん)

ウィキペディアより引用します

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
岐阜県養老町の南宮山の東南端に位置する象鼻山(別庄山)の山頂にある古墳群。

弥生時代後期から古墳時代後期(2世紀中頃から6世紀)に築造された約70基の古墳からなる。

墳形様式は前方後方墳・円墳・方墳。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

地図です



名神高速道路の養老サービスエリアのすぐ近くですね。



入口の近くに、車数台が駐車できます。


動物が逃げないためのゲートのようです。


途中にも古墳がたくさんあります









頂上にある第一古墳、前方後方墳です。





そこから北を眺めると



金生山が見えます(この画像ではわかりませんね・・・)

やや東を見ると



金華山が見えます。(これも、はっきりとは見えませんねぇ・・・)

肉眼ではよく見えますよ。当然、瑞龍寺山頂遺跡も見えます。

古墳の場所は以下です




・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・引用します

1987年の東海古墳文化研究会の分布・測量調査と,1989年の養老町教育委員会・三重大学の
分布確認調査によって,これらは少なくとも前方後方墳2基,方墳17基,円墳40基,形状不明
のもの3基の計62基からなることが判明している(東海古墳文化研究会1988,養老町教育委員
会1990)。その年代の詳細は分からないが,3世紀後半~6世紀に及ぶものと推定されている
(養老町教育委員会1990)

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
ウィキペディアでは2世紀中頃からとありますけど、こちらの方が信憑性が高いかと思います。


1号墳についての詳しい資料は、以下の所が参考になります

養老町教育委員会
富山大学人文学部考古学研究室





瑞龍寺山頂遺跡が、2~3世紀とされていますけど、彦坐王が岐阜にやってきたのは

250年ごろと思われますので、単純に考えると金華山に居た瑞龍寺山頂遺跡に関係する

人たちが大和朝廷である彦坐王にそこを追われてこちらに来たと推測していいのじゃないかなぁ。

年代がぴたりと合います。

(PS  これ間違っています。彦坐王は、この人たちと良い関係であったようです。

金華山付近からこちらに移動してきたのは、彦坐王の息子 朝廷別王(=サタヒコ=猿田彦)

が、この地に湊を作ったときにそこを運営するために来たようです。)



その人たちを、狗奴国(くなこく)の人とする説もあります。← (PS これも疑問です)

邪馬台国と対立していた倭人の国のことです

邪馬台国=大和朝廷とすると、やはり彦坐王が武力で金華山付近を制圧したとみるのが

正しいのかもしれません

(PS 大和朝廷は崇神天皇であり、その腹違いの弟である彦坐王は、大和朝廷とは別です。

 狗奴国は、彦坐王のファミリーのことかもしれません。)

(以上、このころの記事は、間違いが多いです。なるべく訂正するようにしています。2021・7、3)


そうとうの武力であったのでしょう

余談ですけど、伊奈波神社には、總神社(供奉軍兵五百余名)と言うものが祀られているそうです。

これは何を指すのか? 妄想すると、彦坐王の妻である川上麻須郎女(かわかみますのいらつめ)

といっしょに岐阜までやってきた兵の数?かも。

そう考えると、大和朝廷の兵士はもっと多いかもしれないので、

軍隊の人数は数千人と言うことになりますね。以上、妄想でした。。。

おまけです

帰り道、鉄塔がありましたんで、真下から









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記録更新中~♪

2018-07-05 11:48:53 | Weblog

トラックです




タイの洞窟の少年たち、全員無事でよかった!

でも、出られないとか・・・

プロのダイバーでも難易度高いとのこと。

どうするのでしょう?

池の水全部抜くにまかせるとかいう話もあるけど←おいっ!

雨季でそれも無理のようです。

早く救助できるといいですよね。

とりあえずは、全員無事でよかった。
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