たまにはぼそっと

ふと思いついたことをボソッと書いてみます。

彦坐王の子孫

2019-06-07 06:56:57 | 美濃、尾張、三河の神社とレイライン

次のようになります

彦坐王=丹波道主として書いたものです

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

  「妻」             「子」
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

荏名津比売(苅幡戸弁)    大俣王、小俣王、志夫美宿禰王


沙本之大闇見戸売       沙本毘古王、袁耶本王、沙本毘売命(佐波遅比売)、室毘古王


息長水依比売         丹波比古多々須美知能宇斯王、水穂之真若王、
    
               神大根王(八瓜入日子王)

                水穂五百依比売、御井津比売


袁祁都比売命         大筒木真若王、比古意須王、伊理泥王


丹波之河上之摩須郎女     比婆須比売命・真砥野比売命・弟比売命・朝廷別王

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

大俣王の子には、曙立王(あけたつのみこ)伊勢の品遅部君、佐那造の祖


        菟上王 (うなかみのみこ)比売陀君の祖   がいます。


    曙立王は、伊勢に派遣されており、三重県多気郡多気町の佐那神社に祀られています。




沙本毘古王(さほひこのみこ)は、日下部連・甲斐国造の祖

      垂仁天皇5年に妹の狭穂姫命に天皇暗殺を試みさせるが失敗。

      叛乱を興すものの、追い詰められ兄妹ともに稲城の中で自殺する。

沙本毘売命(さほひめ)垂仁天皇皇后




神大根王(かむおおねのみこ)は三野(美濃)・本巣の国造



妃である袁祁都比売命は、彦坐王の母の意祁都比売命の妹(そのまま解釈して良いのか?)

  子孫に息長帯比売命(神功皇后)がいます。





 比婆須比売命は、垂仁天皇の皇后
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大縣神社奥宮

2019-06-04 06:31:24 | 美濃、尾張、三河の神社とレイライン

本宮山の頂上からはどんな景色が見られるのか、気になったので出かけました。

6年ぶりの訪問です。




三の鳥居まで、大縣神社より15分くらいかかるでしょうか、坂道がややきついです。




その鳥居の東側に、古道らしき道があります。



この道が、東山道から来る道と思われます。



地図には載っていないので、以前、ほかの道をこの道と勘違いして歩き回ったことがあります。

ですから、この道は、まだ探索していません。

今日も時間的に無理のようです。次回ですね。

目指すは、頂上です。



最初に、到着するのがここです。








次は、山姥の祠(やまんばのほこら)・・・・これって何だろう?






最後に、数分で到着です



祠が新しくなっている?







南東に目を向けると




少し大きくして



真ん中やや右の山が東谷山でしょう。

その左が、猿投山ではないでしょうか

なんとその後ろには、三河の本宮山が見えます。

尾張の本宮山から三河の本宮山が見えるのですね!

肉眼で、頂上の鉄塔も確認できます。

風がすごく心地よいです。。。

しばらく景色を見て、のんびりしていました。




犬山の方を見ると


東之宮古墳のある山も近くに見えます


金華山も見えますね



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尾張戸神社からの景色

2019-06-02 05:40:13 | 美濃、尾張、三河の神社とレイライン

 尾張戸神社から見る山はどのように見えるのか?

今まで、何度も出かけているのにあまり気にしたことがない




展望台があるのですけど、西の方しか見られません。

あいにく、もやがかかっていて遠くは視界がよくいありません。

神社の東側は、最近いすやテーブルが出来てしかも良い景色が楽しめます。

こんな感じ


この山は、猿投山ですね。

こんなに近くに見えるんだ。

そりゃぁ、出かけたくなるはずだ!

少し右の方の奥を見ると、


わかりますかね?

肉眼だとよくわかるのですけど、高い山が見えます。

おそらく、三河の本宮山と思われます。

ここから、見えていたんだ!

朝廷別王は、穂国造といわれ東三河一帯を支配したと言われています。

尾張は、自分の子や孫にまかせたのでしょうか?

東三河の開拓は、「大国主命=伊勢津彦」と一緒におこなったのでしょうか?

さらに、豊橋には「高師小僧」という褐鉄鉱の団塊が産出するそうですけど、それを使って製鉄をしたのでしょうか?

高師とはこのあたりなのでしょう


高師小僧とは、すず鉄と同じようなものなのでまず、間違いなく製鉄を行っていると思われます。



一説には、その褐鉄鉱、もしくは砂鉄を探し求めて、天竜川をさかのぼっていって、

たどり着いたのが諏訪だったという話もあり、非常に興味深いです。



ここからは、妄想です。

彦坐王ファミリーは砂鉄を使って製鉄をしていたとすると、原料は尾張戸神社の北側、

愛知県の春日井市高蔵寺付近から小牧市桃花台にかけての場所で、砂鉄が採れたようです。

砂鉄から出来た鉄は、褐鉄鉱からできたものより硬いそうで、武器に使用した場合

砂鉄から出来たものの方が有利になります。


草薙の剣は、もしかすると砂鉄から出来ているのでしょうか?

彦坐王ファミリーが制作したものならば、熱田神宮にあるというのもうなずけます。



ここまで書いた、「美濃、尾張、三河の神社とレイライン」を読むと、出雲の国譲りの場所が

出雲ではなく、伊勢ではないかとも思えてきます。

あまりにも話が似ていますよね。


それと、伊勢津彦は誰なのか?

彦坐王ファミリーの誰かなのか? 朝廷別王と、三河の本宮山で合流することを考えると

そう考えるのがすんなり来るのです。

次回からは、伊勢津彦は誰なのかを、考えていきたいと思います。


以上、妄想を終わります・・・



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御津に着いた大国主命とは、誰?

2019-05-29 07:05:27 | Weblog

朝廷別王と同じ時代に、伊勢を離れた人物といえば、こちら倭姫命その11、なぜ伊勢?に書いた人物がぴたりとくると思います。

伊勢津彦ですね。

引用します

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『伊勢国風土記』によれば、伊勢津彦神は大和の神武天皇に国土を渡すよう要求された。

「私はこの国を占拠してから長いこと住んでいる。命令には従いかねる」と、

断っていたものの、最終的に天皇に派遣された天日別命に追われ、

強風を起こしながら波に乗って東方へ去って行った

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

おいら、天日別命は、彦坐王もしくはその子と思っていましたけど、どうも違うようですね。

そのことについては、今回は触れません。後ほど考えていきたいと思います。




何気なく、本宮山と伊勢のレイラインを探っていたら、面白いものを発見しました。

砥鹿神社奥宮からのレイラインを見てみます



こんな感じですね



伊勢から見ると、夏至の日の出は本宮山から見えるのでしょうか



さて、どこにヒットするのでしょう



なんと、飯野高宮神山神社ですね

直線距離を測ったら、88km。

その距離で、この精度はすごいですね。どうやって測ったのか?

いつも感心します。

少し誤差がありますけど、砥鹿神社奥社の少し北に石祠がありました。

そこからあらためてレイラインを見ると、かなり飯野高宮神山神社の本殿に近づきます。

その、場所が最初の砥鹿神社の場所かもしれませんね。

ほとんど妄想ですけど。


このレイラインを測量する技術を持った人が、

伊勢から来たのか、朝廷別王とともに来たのかはわかりません。


どちらにしても、伊勢を追い出された、伊勢津彦は、最初から本宮山をめざしていたと思われます。


ということは、その情報が朝廷別王にそれほど時間のかからないうちに伝えられたと

考えていいのではないでしょうか。

以前作った地図を見てみます




以前おいらが調べた、彦坐王ファミリーと、その関係する人たちの拠点です

伊久良河宮が抜けていますね。大垣の北東になります。伊勢への出発地です。


それぞれが、20kmぐらい離れているので、情報の伝達にはそれほど時間がかからないでしょう。

狼煙ならば、伊勢湾をはさんででも見ることができるでしょうし、

船で、伊勢湾を横断していたとも考えられます。


伊勢湾を囲んだ地域を彦坐王ファミリーが、統治していたと考えられます。






御津に着いた大国主命=伊勢津彦 と仮定して話を進めていきたいと思います。



伊勢津彦はその後、信濃国に行ったと言われています。

これは、出雲の国譲りと似てるなと思いますよね。

伊勢津彦=タケミナカタなのでしょうか?

次のようにも言われています

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タケミナカタは『日本書紀』における国譲り神話、または『出雲国風土記』や

『出雲国造神賀詞』に録されている出雲国の伝承に一切登場しないため、

本来は出雲と無関係な諏訪地方の神話の神であり、それが『古事記』に挿入されたとする説がある。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

さらに

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

本居宣長は『古事記伝』で伊勢津彦神は建御名方神の別名であるとする説をとなえている。

これは天津神に反抗するも勝てず東国へ逃亡する姿が似ていることから来るが、現代では反論が多い。

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タケミナカタは、天竜川をさかのぼって諏訪にたどり着いたという話もあります。

出雲の国譲りの話に伊勢津彦をそのままあてはめると、大国主命=伊勢津彦ですから

タケミナカタは、伊勢津彦の息子ということになります。

年齢的にも、伊勢津彦は、長いこと伊勢に住んでいると言っているので、若くはないでしょう。

全くの推測ですけど、伊勢津彦は砥鹿神社付近に住みとどまったのではないでしょうか。

タケミナカタは、諏訪に行きさらに関東まで勢力を伸ばしているようです。

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先代旧事本紀に書かれている現代語訳です

相武国造(さがむのくにのみやつこ)

成務朝に、武刺国造(むさしのくにのみやつこ)の祖・伊勢都彦命(いせつひこのみこと)の

三世孫の弟武彦命(おとたけひこのみこと)を国造に定められた。


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

一世孫 これは子
二世孫 これは孫
三世孫 これは孫の子

・・・・・・・・・・・・・・・・

崇神、垂仁、景行、成務と続きます。 

朝廷別王、伊勢津彦は、垂仁天皇の時代と思いますので、時代をそのままあてはめると

やはり、伊勢津彦は、砥鹿神社にとどまり、

諏訪に行ったのはその息子と考えるのがぴたりとくる気がします。


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尾張富士

2019-05-21 05:39:29 | Weblog

左の山が尾張富士、右が本宮山です





検索していたら、次のような物語がありました。

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でいたらぼっちが駿河の国「富士の山」の噴火をとめるために

近江(現在の琵琶湖)から土をすくい、被せた。

そのときこぼれた土が尾張富士になった

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そういえば、子供のころにこの話を聞いたことがあるなぁ。

10年ほど前に頂上に行ったことがあります。

久しぶりに、登ってみようと思い出かけました。

下のほうに車を止めたのですけど、一番上の駐車場までくることができたんですね。




尾張冨士大宮浅間神社



鎮座地:愛知県犬山市字冨士山3番地

御祭神:木花開耶姫命、天照大神

創建:太平元年(729)

石上げ祭というのが有名です




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祭りの由来はその昔、尾張冨士のお山が隣の本宮山との「背くらべ」に負けました。

そこで尾張冨士のご祭神は、村人に石を山頂に担ぎ上げ、山を高くすることを命じました。

そして石を積み上げた村人には願いを叶え、幸せになるよう神徳を与えました。

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そこのすぐわきから登山です


この道は、献石の石塔がいっぱいです

王監督の献石



これは誰?兵藤秀子とは誰?

前畑 秀子
日本人女性初の金メダリスト。  あの「前畑頑張れ」で有名な人なんだ。


5分ほどで、中宮に到着





その近くには


大きな鎌です。猿投神社の左鎌や、諏訪の薙鎌を連想します。


何に使うのでしょう?



さらに、登ります





人魚の肉を食し、800年生きたとされる八百比丘尼の手形が残る岩。


女人禁制である中宮奥へと進んだため、神の怒りに触れこの岩から手が離れなくなったそうです

手の形わかるかな?



頂上の奥宮が見えてきました







ここまで持ってきた石が、積み上げられています

そういえば、ポケットに石を入れてきたんだ!

おいらも、石上げに協力します。。。



本宮山は、293m



その、本宮山が隣に見えます




名古屋のビル群も見えます





本殿は富士山の方向を向いているようです




レイラインはというと、

頂上から見て、夏至の日の入りが麓の尾張冨士大宮浅間神社になります



帰り道は、こちらから行きます



すぐに舗装されている道に出ます。




駐車場に到着です
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御津神社

2019-05-16 06:35:40 | 美濃、尾張、三河の神社とレイライン

御津神社(みとじんじゃ)



祭神 大国主命

愛知県豊川市御津町広石祓田70




引用します
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 創建は不明。『延喜式』では三河二六座の一つの「式内社」、

『神名帳』には「正三位御津大明神」とある。

伝承によれば、祭神は御舳玉・磯宮楫取・船津各大神等の随従で船津へ着いたとされています。

豊川市教育委員会

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

祭神である大国主命ご本人が、船でここに来られたんですね。

まるで、誰かを、大国主命に仕立てているように思われます。



一の鳥居をくぐると、船の形をした石積みがあります





古代には、海岸線がこの近くまで来ており、神社の東を流れている御津川を遡ってきて

たどり着いたところがこの神社か、あるいはこの船の形をした石積みのあたりが

海岸線だったかもしれません。





階段を上がり、二の鳥居の手前を左に進むと

よくわかりませんね


船津社跡

これは、右側





さらに階段を登ると



広い境内


本殿です



左側には磯宮神社



そして右側は


その奥にも



本宮山がはっきりと見えます



神社入り口付近には楠の巨木があります


樹齢 1,000年

相当大きい巨木です







ここから少し離れたところに御舳玉神社があります。



これで、御舳玉・磯宮・船津の神社がそろいました。




砥鹿神社HPより引用します

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

「但馬続風土記」によれば、

神代大己貴命は国土を開拓し、諸国を巡幸されて 但馬国朝来郡赤淵宮にお移りになって、

更に東方三河国に向かわれたとあり

社伝にはその後命は「本茂山(ほのしげやま)」(本宮山)に留まって、

この山を永く神霊を止め置く所「止所(とが)の地」とされたとある。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

大己貴命=大国主命と言わています

但馬国朝来郡赤淵宮とありますけど、時代が合わないような気がするのですけど。

しかし、「但馬」は、古くは丹波の一部であったようです。

但馬=たんぱと読めますね。

さらには、赤淵宮とされる赤淵神社の近くにある養父神社(やぶじんじゃ)には、

丹波道主命が祭られています。

彦坐王=丹波道主命ということで話を進めます

彦坐王は、丹波の久美浜で 朝廷別王の母である、川上摩須郎女(かわかみますのいらつめ)を

妻にした後、養父神社付近にとどまった時期があるようです。


以上のことから、この御津神社に上陸した祭神である「大国主命」は、

その後、砥鹿神社に移動したと考えてもいいと思います。

そして、朝廷別王は、本宮山山頂からこの「大国主命」を探し

合流しようとしたのではないかと推測します。



もしかすると、この「大国主命」と、朝廷別王は養父神社で、一緒に過ごしていたのではないでしょうか?

どれくらいの年月、その養父神社付近に滞在したかは不明ですが、

朝廷別王はそこで生まれた可能性がありますね。

まだ生まれていなくても、その母である川上摩須郎女とは面識があることになります。



それから、朝廷別王は、この「大国主命」が、伊勢から船で三河の地に来ることを知っていたかのようにも感じます。

いかがでしょうか?

次回は、この「大国主命」がどういう人なのか、検討してみたいと思います。
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砥鹿神社(奧宮)、岩戸神社 奥の院

2019-05-08 06:47:57 | 美濃、尾張、三河の神社とレイライン

本宮山の山頂に到着です





駐車場のすぐ奥に鳥居が見えます。



ここから、少し下ると岩戸神社 奥の院です。

地図に載っていませんね。

グーグル地図見てみましょうか。画像のみですけど。





国見岩です




そこからさらに階段を下ると




ここが、岩戸神社のようです。

この隙間の奥のようです。入れないこともないけど・・・やめました・・・

決しておいらは、太ってはいません・・・念のため。。。

特別、社があるわけではありません。



景色がよくわからないので、本宮山の山頂へ向かいます。



駐車場から、それほど時間がかかりません。

景色は


素晴らしいですね

渥美半島も確認できます

実は、この景色を確かめたかったんです。

なぜかというと、朝廷別王はおそらく緊急で誰かを迎えに、ここに来たのではないかと思うのです。

その誰かとは?



砥鹿神社 奥宮の祭神である大己貴命(別称大国主命)を信仰の対象とする人物であろうと推測します。

その人物については、まだ、情報収集に現地を訪問していないので後程検討していきたいと思います。

山頂の景色を見ながら、おにぎりを食べようと・・・あれ?

お茶はあるけど、おにぎりが無い!  車に忘れてきたようです・・・




さて、空腹ではありますが、砥鹿神社 奥宮に行ってみましょうか。

本宮山の頂上から降りてきて、そのまままっすぐに進むと5分ぐらいで到着です。




すばらしい杉の巨木です。



樹齢 1,000年と説明されていますけど、合体木でなければ、それ以上の樹齢と思います。

山の頂上という、水の供給が充分でないところなのに、この大きさには驚きです。


いよいよ本殿


その前には、階段があり、そちらから登ってこられる人もおられます。

どこから来られたのだろうと思いたずねると、どうも、麓から山登りしてこられたようです。

調べたら、往復で8.7km、4時間かかるようです。

おいらは、行きません!・・・笑










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石座神社

2019-05-07 07:02:06 | 美濃、尾張、三河の神社とレイライン


朝廷別王 (みかどわけのみこ)は、東三河一帯を支配したとされます。

ということは、猿投神社から三河の本宮山へ向かったのではないでしょうか。

前にも書きましたけど、「本宮山」という名前は犬山市にある大縣神社の「本宮山」と

同じ名前であることから

朝廷別王が、三河に来たことはかなり確率が高いと思います。

でも、その足跡がなかなかわからないのです。

今までのようにそれらしき神社が見当たらないのです。

どのようなルートを通ったか推測してみます。


猿投神社の南東に御船町と言う所があります。

もしかすると、そこで船を作って矢作川を下ったのかもしれません。



そして、岡崎から乙川を上り夏山川、男川(川の名前が代わっていきます)とさらに上り、

くらがり渓谷にたどり着きます。

その、くらがり渓谷を登りきったところが、本宮山山頂です。

そこには、砥鹿神社(奧宮)と、岩戸神社 奥の院があります。

当時、三河に行く道はまだなかったと考えます。

ですから、川沿いに進んだと考えるのが正解なのじゃないかな。

その川沿いにも、いろいろな遺跡があり、当時でも人が暮らしていたようです。


朝廷別王が率いる部隊は、そのような場所を通らなければいけないので、現地の人との摩擦を避け

川を遡っていったのでしょう。

どれくらいの時間をかけたのだろう?

ゆっくりならば、足跡として神社が作られると思いますけど、その痕跡が見当たらないのです。

単においらが探せないだけかもしれませんけど・・・

その中で、唯一それらしき神社がありました。

石座神社(いわくらじんじゃ)です。(愛知県岡崎市石原町宮ノ入3)




主祭神は火明之命








巨木も魅力的です







さらに、奥にも社があります。



階段を登ります




神紋なのでしょうか?十六菊かな?











矢作川からここまではおよそ25km。

頑張れば、一日で、移動できる距離です。

途中、中継基地らしき神社もありますけど、決定的な理由が見当たらないのでパスしました。


朝廷別王が率いる部隊は、ここの磐座神社を中継基地にして

本宮山に向かったと考えて良いのではないでしょうか。

何かある理由があって、急いでいるようにも感じられます。

レイラインについてですけど、現時点では、三河で見つけることができません。

おいらの能力不足かもしれませんけど・・・

それとも、レイラインを測量できる技術者が同伴していないか、時間がなかったということが

考えられます。



おいらは、この先、くらがり渓谷を歩いて登る元気も気力もありません・・・

本宮山には、本宮山スカイラインというすばらしい道があるので、

そちらから頂上に向かいたいと思います。

山登りは、こうでなくっちゃね!
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氷上姉子神社

2019-04-12 07:43:26 | 美濃、尾張、三河の神社とレイライン





祭神 宮簀媛命(みやずひめのみこと)

熱田神宮の創祀以前に草薙剣(三種の神器の1つ)が奉斎されたところと言われます



宮簀媛命とは誰なのか?これがわからないんです。

日本武尊の妃で、建稲種命の妹といわれます。

とりあえず、ウィキペディアをリンクしておきます



東谷山の尾張戸神社は、第13代成務天皇5年に宮簀媛命の勧請によって創建されたと言われます

ですから、宮簀媛命は、彦坐王の後裔であることは間違いないのでしょう。

それと、兄の建稲種命の妻である玉姫は、おそらく朝廷別王の娘もしくは、孫と考えます。




元宮は、現在の神社の南側道路を挟んで反対側にあります


このあたりです


ほんの、数分で到着です





さて、レイラインです



元宮から夏至の日の出の方向






猿投神社です。


これも驚きましたね

これをどう考えるのか?わかりません・・・








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猿投神社 西の宮

2019-04-11 06:40:13 | 美濃、尾張、三河の神社とレイライン



東の宮を出てから、直接、西の宮に行く道があるようなので、そこを通ろうとしたのですけど

なぜか、通り過ぎました・・・

おいらの前をきれいな女性が歩いていたので、見とれてしまったのかも・・・



結局、東の宮入り口まで来てしまったので、そこから西の宮を目指します。

登山コースについては、こちらの方の書かれたものが非常にわかりやすいので、参考になります





到着



こちらは、人がほとんどいない!

なんで?

途中すれ違ったのは、ひとりだけ。

ここから、急な坂を登ります


到着です

ここにも、本殿の前に四角い場所があります。

でも、ここはレイラインの目的の場所ではありません。

おっと、その前にレイラインを見なければいけませんね。



驚きですね

夏至の日没のラインを白鳥塚古墳を通るように調整します




すると、きちんと深川神社も通ります



そして、計測地は



大碓命(オオウスノミコト)の墓とされる場所の前です



この画像を撮った地点付近だと思います

周りに木がなければ、目視で深川神社が確認できるかもしれません。



大碓命は、第12代景行天皇の息子ということになっていますので、時代が朝廷別王(みかどわけのみこ)

の、二世代後の人です。

ですから、このレイラインを計測した時点では、大碓命の墓はなかったことになります。

大碓命という人物も実在かどうかわかりませんけどね。

でも、猿投神社の主祭神(諸説あり)になっています。





とにかく、この猿投山は謎の多い場所です。

でも、このレイラインは、彦坐王の息子であった朝廷別王が、

この地を開拓したと考えていい証拠ではないでしょうか。




西の宮で、コンビニで買ったおにぎりで、遅い昼食を済ませ、その後、入り口まで戻ります。



残念ながら、お会いできませんでした・・・

同じ道を帰るのも退屈なので、さらに、南に行き猿投山を一周するように進みます。

途中、山神様が祭ってありました



何かあった場所なのでしょうか?


もうだいぶ疲れているので、寄り道は無しで猿投神社を目指します。



いろいろと、滝があるようです



ほとんど、人は居ないです

なぜなんだろうね?

駐車場が無いせいかもしれませんね。

  
到着~♪



この門を通ったのは、初めてです。

参道も長いです。


さすがに疲れました。かなり遠回りをしたので、17kmぐらいは歩いたでしょう。

毎日、5kmぐらいは歩くので苦にはなりませんけど、休日はやはり体を休ませたいです・・・

もう行かないぞ!

でも、ここは、きれいな女性が多いよねぇ・・・



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猿投神社東の宮

2019-04-08 11:11:55 | 美濃、尾張、三河の神社とレイライン

本当は、行きたくないけど、暖かくなってきたのでしょうがなく出かけてみます・・・へへ;



近くの駐車場は、満車だろうなと思ったけどとりあえず行ってみます。

やはり満車。

遠くの駐車場に行ってもかなり車がありました。

午前11時出発!



近くの駐車場にあった案内図

水車があるそうな


途中、車止めるスペースは少しですけどありました。

でも、道が細いのですれ違いが難しいと思います。



歩くこと1時間

東の宮入り口です


なかなか、勾配の急なところが多いですね。

それでも、人が多い!

かなりの高齢の方も登っておられる

それに、女性の方も多い!

年齢も、若い方からお年寄りまでいろいろ。

トレイルランニングと言うのでしょうか?

そうした人も多いです。


到着です


東の宮


祭神はわかりません

隣にも



さて、もう一度地図を見てみましょう




矢印の場所はどこになるのでしょう?



神社の前に四角い場所があります




なんでしょう?

矢印の場所は、このあたりですね



神社側から見ると


木が視界を遮って、大目神社が目視できるかわかりません。

ギリギリ見えるかもしれませんね。

この四角い場所は何でしょう?

以前は、ここに本殿があったのでしょうか?

とにかく、この場所から夏至の日の入りを計測したのでしょう。

相変わらず、すごい精度です。

おそらく、この場所が猿投山での最初に落ち着いたところと思われます。




かなり坂道を登ったので、これで帰ろうかと思いましたけど、頂上まで800mとあります。

しょうがないので・・・行きますか・・・へへ;








さて、せっかくだから、西の宮にも行きましょうか。

つづく・・・です。
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大目神社(おおまじんじゃ)

2019-04-07 10:42:49 | 美濃、尾張、三河の神社とレイライン


さて、深川神社から猿投山にどういうルートで行ったのか?

どこかに神社がないかと探したら、大目神社と言う所がありました。

とりあえず、出かけてみました







祭神は、

天忍穂美美命、天乃菩日命、天津日子根命、活津日子根命、熊乃久須毘命、多岐理姫命

一寸島姫命、多岐都姫命。

アマテラスとスサノオとの間で交わされた誓約で生まれた五男三女神です。

これは、深川神社と同じですね。

ということは、ここも国津神は追いやられ、天津神が崇められるようになったのでしょうか。

8世紀後半のことですので、それまでは、彦坐王ファミリーの後裔が

この地をおさめていたのでしょうね。

天井には


藤四郎神社


藤四郎とは?おいら、焼き物のことはさっぱりです・・・




さて、本殿の裏に行くと、



これって、古墳?



どうもそのようです。

円墳が削られているようです。

大和朝廷が来た時に削られたのでしょうか?

発掘はされていないので、すべて謎です。


レイラインはというと、驚きますよ。


これは、古墳の上を通るように調整しました。


そして


どこだと思います?


猿投神社東之宮からです。


でも、よく見ると東之宮よりすこしずれてますね

といっても、数メートルですけど

誤差の範囲なのでしょうか?

これは、現地に行ってたしかめるほかありませんね・・・

調べると、麓からかなり距離がある。猿投山標高629m・・・往復5時間?

行きたくない・・・










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深川神社

2019-04-04 07:24:35 | 美濃、尾張、三河の神社とレイライン


深川神社



愛知県瀬戸市深川町11番地









こちらは、奥の宮稲荷社



この鳥居の左側が古墳だったかと思います・・・詳しく見るの忘れました・・・





さて、朝廷別王 (みかどわけのみこ)は、五社大明神社あたりから、水野川をさかのぼったと思います。



実際に、水野川に沿って川上に行ってきました。

途中、「道の駅 瀬戸しなの」あたりで分からなくなってしまいましたけど、地図を見るとその東側に深川神社付近へと流れる川があるので

おそらくは、そのような道筋を移動したのでしょう。




深川神社のHPより引用

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

奈良時代、ここ尾張は、時の政権大和朝廷との繋がりを保つため、

宝亀2年(771)に朝廷・藤原氏縁の天津神(あまつかみ=天に住む神々)をこの地に勧請(神仏を分霊して祭ること)、創建した。

これが、延喜式(えんぎしき=延喜5年、藤原時平ほか11名の委員によって編纂された古代法典)に記されている深川天神の始まりである。

このため、この地にあった国津神(くにつかみ=地に住む神々)は追いやられ、天津神が崇められるようになった。 

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この国津神こそが、朝廷別王 (みかどわけのみこ)の関係する人々の後裔と思います。

ちなみに、天津神とは、天照大神などがいる高天原の神のこと。

大和朝廷に乗っ取られてしまったのですね・・・

ということは、彦坐王ファミリーは、大和朝廷ではないということになりますね。

彦坐王のことをいろいろ調べていくと、彼は、伊勢、美濃、尾張で囲む伊勢湾の地域を一つの国にしようとしていた

そんなふうに、感じます。

地理的に見ても、今までここで紹介してきた神社で、山頂にあるところはそれぞれ、

かなりのところが互いに目視できるのではないでしょうか。

もしかすると、狼煙とか、音とかで連絡を取っていたのではないかとも想像します。

それと、彦坐王は、この地において争いを起こしたという話が全く出てきません。

むしろ、婚姻によって関係を作っていくという方法で地域に溶け込んでいるようです。

金生山(岐阜県大垣市)、そして春日井付近で採れる「鉄」を利用することで、

さらに地域に根付いていったと考えられます。

伊勢で採れる朱(辰砂)も、その役目を持っていたのかもしれません。





伊勢湾を囲む彦坐王ファミリーの主な場所の地図です


地図を載せたいのですけど、google地図のマイマップはどうやっても載せられないので、

リンクしておきました。


さて、レイラインです

深川神社から



これを見たときは、「やった」と思いましたね。

白鳥塚古墳直撃!



こんな感じです


この事から、この深川神社は当時、重要な場所だったと推測されます。

もしかすると、朝廷別王は大縣神社を息子に譲り、自分はここに住んでいたのかもしれませんね。

でも、まだここから猿投神社に進んだようです。




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朝廷別王 (みかどわけのみこ)

2019-03-22 07:59:58 | 美濃、尾張、三河の神社とレイライン

父親は、もちろん彦坐王。

母親は、丹波之河上之摩須郞女 (たにはのかわかみのますのいらつめ)

 ちなみに、いらつめとは、若い女子を親しんでいう称のこと

ここでは、丹波之河上之摩須の娘ということでしょう。

丹波から、岐阜まで彦坐王の妻としてはるばるやってきています。

方県津神社に祭られています

その子たちは次の4人です


比婆須比売命 (ひばすひめのみこと)垂仁天皇の皇后

真砥野姫命 (まとぬひめのみこと)

弟比売命 (おとひめのみこと)

朝廷別王 (みかどわけのみこ)




朝廷別王 は、大縣神社の初代と考えます

奥さんは誰だろう?

一番可能性として高いのは、東之宮古墳に祭られている人の娘では?



東之宮古墳についてはこちら

この古墳は、前方後方墳なので、瑞龍寺山頂古墳

と同様、古くからのこの地方をおさめた人と思います。



ウィキペディアを見ると、朝廷別王は以下のように書かれています

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穂国造(ほのくにのみやつこ・ほのこくぞう)は、古墳時代に宝飯郡に置かれ東三河一帯を支配した

ヤマト政権の地方官(国造)である。

ただしその実態に定説はない。この「国」は令制以前の国造国を指し、後の令制国とは異なる。

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父である彦坐王は、東谷山の対岸にある、五社大明神社( 愛知県春日井市高座町1939)

に住んでいたと思います。



訪問したことがあるのですけど、画像が見つからない・・・

この付近、褐鉄鉱が取れるようです。

当時、褐鉄鉱から製鉄したのかそれとも、すず鉄からなのかはわかりませんけど、

製鉄をしていたのは確かと思います。

祭神に天目一箇神(天之御影命)があり、これは、製鉄・鍛冶の神です。

大縣神社にも祭られていました


大縣神社の西にある青塚古墳から見た冬至の日の出は、その五社神社のある高座山頂上付近を通ります。

ただ、これも少し誤差があります。



目視で場所を決めたのでしょうか?それとも、ほかの場所を示しているのでしょうか?

青塚古墳が誰の墓なのかはわかりませんけど、彦坐王と関係があることは確かでしょう。


朝廷別王が、三河の祖ということならば、ここから三河の宝飯郡に行ったことになります。

その先は、三河國一之宮 砥鹿神社(奧宮)ではないでしょうか?

山の名前も、大縣神社のある、「本宮山」と同じなので、朝廷別王が、砥鹿神社まで遠征した

ことは、かなり確立が高いと思います。




おそらく、その途中に滞在した場所には、猿投神社があると思います。




その他にも、いくつかの場所があるようです。

現時点では、まだ、猿投神社の山頂にはまだ行っていません。

寒いからねぇ・・・

まあそのうち、行きたいと・・・かなりきつそう・・・

さて、どうなるのやら。。。

また、それらの場所にもいろいろレイラインがあります。

順次、ご紹介していきます。
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鍋山メンフィルのレイライン

2019-03-21 07:43:13 | レイライン

 以前と、マップが示す位置が変わってしまったので、その頃のレイラインをほとんど消しました。

新たに、レイラインを調べると今度はどんぴしゃりかなと思うので、UPしてみます。

まずは、鍋山メンフィルの地図です





標高は、624m  山の中です。

そして、起点となるところは、なんと白鳥塚古墳です。




そこからそれほど離れていない場所に、高蔵寺第五号墳があります




そして、鍋山メンフィルです


夏至の日の出のラインとは、数十メートル離れますけど、誤差の範囲でしょうか?


大きく見ると




大御霊神社(おおみたまじんじゃ)愛知県稲沢市国府宮2-13

からの、春分の日の日の出は、東谷山の山頂、つまり尾張部神社の古墳を通ります。

これは何を意味するのかというと、尾張部神社古墳は、彦坐王の死後すぐに作られたもので、

白鳥塚古墳は、その後作られたということと考えると、大御霊神社より後に

鍋山メンフィルが出来たということと思います。

大御霊神社は、夏至の日の出が大縣神社(おおあがたじんじゃ)愛知県犬山市宮山3の本殿ですので、

日坐王の子である、朝廷別王のその子である可能性があるので、

つまり彦坐王の孫である時代よりも後の時代と思われます。

彦坐王と、崇神天皇とはそれほど、年齢差がないようなので没年は、290年ごろかと思われます。

ですから、鍋山メンフィルが作られたのは、300年代の中ごろより後と推測されます。



その他、この地方の場所は、レイラインだらけなんです。

それとあわせて、いろいろと探っているところです。

お楽しみに。。。
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