たまにはぼそっと

ふと思いついたことをボソッと書いてみます。

瑞龍寺山頂遺跡 から象鼻山山頂を結ぶと

2018-08-04 09:13:29 | 神社
地図を見ていて、ふと気が付いた。

瑞龍寺山頂遺跡
に書いた、金神社から彦坐王の墓とされている所のラインの延長が象鼻山山頂となるのじゃ?

描いてみました


これをどう解釈するのか?


詳しく調べると、「象鼻山山頂から瑞龍寺山頂を結ぶライン」と

「象鼻山山頂から彦坐王の墓とされている所を結ぶライン」は少しずれます。


こちらが、「象鼻山山頂から瑞龍寺山頂を結ぶライン」





「象鼻山山頂から彦坐王の墓とされている所を結ぶライン」は、こんな感じ




「象鼻山山頂から瑞龍寺山頂を結ぶライン」では、金神社橿森神社(かしもりじんじゃ)の真上を通ります・

一方、「象鼻山山頂から彦坐王の墓とされている所を結ぶライン」は、50mほどずれますね

これを、誤差と考えるのか、それとも、彦坐王の墓は、単なる偶然でこの場所にあるのか?

悩みます・・・答えは出ませんね。

そもそも、橿森神社、金神社、伊奈波神社は垂仁天皇に関係があり、象鼻山山頂遺跡と瑞龍寺山頂遺跡は

大和朝廷とは無関係のはず・・・どう解釈すりゃいいのでしょうか?謎!

まったく、おいらの手には負えません・・・



毎日暑いですね。今日も38度くらいまで行きそう・・・どうしてこんな異常高温が続くのでしょう。

少し前、娘の結婚式でした。エアコンがかかっていても場所によっては熱いところがあり大変でした。

でも、いい結婚式でした。。。


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像鼻山古墳群

2018-07-16 08:09:12 | 神社

象鼻山古墳群(ぞうびざんこふんぐん)

ウィキペディアより引用します

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岐阜県養老町の南宮山の東南端に位置する象鼻山(別庄山)の山頂にある古墳群。

弥生時代後期から古墳時代後期(2世紀中頃から6世紀)に築造された約70基の古墳からなる。

墳形様式は前方後方墳・円墳・方墳。

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地図です



名神高速道路の養老サービスエリアのすぐ近くですね。



入口の近くに、車数台が駐車できます。


動物が逃げないためのゲートのようです。


途中にも古墳がたくさんあります









頂上にある第一古墳、前方後方墳です。





そこから北を眺めると



金生山が見えます(この画像ではわかりませんね・・・)

やや東を見ると



金華山が見えます。(これも、はっきりとは見えませんねぇ・・・)

肉眼ではよく見えますよ。当然、瑞龍寺山頂遺跡も見えます。

古墳の場所は以下です




・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・引用します

1987年の東海古墳文化研究会の分布・測量調査と,1989年の養老町教育委員会・三重大学の
分布確認調査によって,これらは少なくとも前方後方墳2基,方墳17基,円墳40基,形状不明
のもの3基の計62基からなることが判明している(東海古墳文化研究会1988,養老町教育委員
会1990)。その年代の詳細は分からないが,3世紀後半~6世紀に及ぶものと推定されている
(養老町教育委員会1990)

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ウィキペディアでは2世紀中頃からとありますけど、こちらの方が信憑性が高いかと思います。


1号墳についての詳しい資料は、以下の所が参考になります

養老町教育委員会
富山大学人文学部考古学研究室





瑞龍寺山頂遺跡が、2~3世紀とされていますけど、彦坐王が岐阜にやってきたのは

250年ごろと思われますので、単純に考えると金華山に居た瑞龍寺山頂遺跡に関係する

人たちが大和朝廷である彦坐王にそこを追われてこちらに来たと推測していいのじゃないかなぁ。

年代がぴたりと合います。

その人たちを、狗奴国(くなこく)の人とする説もあります。

邪馬台国と対立していた倭人の国のことです

邪馬台国=大和朝廷とすると、やはり彦坐王が武力で金華山付近を制圧したとみるのが

正しいのかもしれません

そうとうの武力であったのでしょう

余談ですけど、伊奈波神社には、總神社(供奉軍兵五百余名)と言うものが祀られているそうです。

これは何を指すのか? 妄想すると、彦坐王の妻である川上麻須郎女(かわかみますのいらつめ)

といっしょに岐阜までやってきた兵の数?かも。

そう考えると、大和朝廷の兵士はもっと多いかもしれないので、

軍隊の人数は数千人と言うことになりますね。以上、妄想でした。。。

おまけです

帰り道、鉄塔がありましたんで、真下から









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記録更新中~♪

2018-07-05 11:48:53 | Weblog

トラックです




タイの洞窟の少年たち、全員無事でよかった!

でも、出られないとか・・・

プロのダイバーでも難易度高いとのこと。

どうするのでしょう?

池の水全部抜くにまかせるとかいう話もあるけど←おいっ!

雨季でそれも無理のようです。

早く救助できるといいですよね。

とりあえずは、全員無事でよかった。
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瑞龍寺山頂遺跡 ずいりょうじさんちょういせき

2018-06-24 15:51:04 | 神社

岐阜城のある金華山の南西に標高158mの瑞龍寺山があり、その山頂部に古墳の跡があります

地図です



金華山ドライブウエーの最終地点に車を止めると、展望台です



そこから見た瑞龍寺山




そこから、徒歩で5分で山頂に到着です。


中央に並ぶ岩の右側が第 1埋葬地で左側が第 2 埋葬地、前方後方墳とされ、時期は 100 年前後とのこと

邪馬台国と対立していた狗奴国(くなこく)の王の墓ではないかとも言われます。

狗奴国について調べても、諸説ありすぎて訳が分かりません。

これも、ぼちぼち調べていこうかな・・・



周りに樹が無ければ眺めは良いのでしょう

ドライブウエーの途中に見晴らしのいいところがあります。そこからの景色です


養老山脈の南端がわかります



東を見渡すと



このあたりを調べていて、非常に面白いことを発見しました。

ご紹介しましょう

まず、左下矢印ですが、金神社から直線を引きます


もう一方の場所は、彦坐王の墓とされている所です(実際は違います・・・断言!)
そのことについては後で。




全体を見ると



おまけ


きれいに並びます

彦坐王の墓とされている所から、冬至の日の入りを調べると


岩戸神社があります



ここは、おそらく物部の関係する神社と思われます。



もしかすると伊福部氏が建てたのかもしれません。



ですから、彦坐王の墓とされている所は、物部、もしくは、伊福部氏(これイコールかも)

の、関係する人物の墓と思います。


おまけです

旧伊奈波神社からの冬至の日の出の先にあるのが、


琴塚古墳です。被葬者は景行天皇の后、五十琴姫命と伝えられます。





















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倭姫命その12、ふたたび、おばあちゃんの居た所

2018-06-18 06:50:11 | 神社


その4で、おばあちゃんが居た所を推理しましたけど、どうも違うような・・・

調べていくと、方県津神社にある古墳は、5世紀のものとか・・・

これが本当なら、おばあちゃんの古墳じゃないね。

しかも、神社は以前別の場所にあったと。

とすると、古墳はおばあちゃんこと、川上摩須郎女命と久美浜(京都府京丹後市)から一緒に来た

伊福部氏のものかもしれません。

ならば、何処がおばあちゃんの住んでいたところなのか?

方県津神社の由緒を見てみましょう

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由緒

日子坐王一族はこの地方に深い関係をもち農耕、治山、治水に貢献された。日子坐王の皇子丹波道主命は、崇神天皇の朝命を奉じて、丹波(山陰地方)に赴かれ四道将軍の御一人で、別名彦多都彦命(伊奈波神社)という。その奥方が当式内社方県津神社御祭神丹波之河上摩須郎女命、その御子日葉酢比売命又その御子五十瓊敷入彦命は(伊奈波神社)妃淳熨斗媛命(金神社)、その御子市隼雄命(橿森神社)及び擁烈根命(県神社)である、岐阜市内の総神社の親神様に当る。
全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年

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彦坐王(日子坐王)=丹波道主命  と思いますので、彦多都彦命(伊奈波神社)との意味は

伊奈波神社の最初の主は彦坐王と言うことになります。現在の主祭神は、孫の五十瓊敷入彦命に

なっています。

このことについては、すでに水石亭主さんがいろいろ検討されておられますので、詳しくは

そちら参考にしていただければよろしいかと思います。


とすると、倭姫命のおじいちゃんとおばあちゃんが住んでいたところは、伊奈波神社付近でしょうか?

現在の伊奈波神社は、斉藤道三が移動させたもので、それ以前は長良川のすぐ近くにありました。

地図です。中心の所がその場所です。




現在は、金華山の登山道の途中にあります。

公園の第3駐車場に車を止め、5分ほど





この上が、旧伊奈波神社です。


10分ほど、登山道を登ります



到着~♪



烏帽子岩です

神籬の場所でしょうか?


倭姫命の母の日葉酢媛命(ひばすひめのみこと)は、このあたりで育ったのでしょうか?








すぐ北には、長良川が見えます



駐車場近くから見た岐阜城です。




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猿投神社

2018-06-05 13:44:43 | 神社

久しぶりの訪問

二の鳥居の横に駐車場があるんで、そこから、見た一の鳥居です


正面を向いて


本殿の左には滝があります



その奥にも


鳥居の正面から






以前、取り上げた養老元年の古地図が、出てきたと言われます。

でも、あれは養老元年(717年)ではなくもっと以前の時代の地形だと思います。

地図に書かれていた場所が、現在の地図ではどこだろうと思い、主なところを落とし込んでみました。




グーグルマップは張り付くかな?



元の地図はこちら


左上にある下福島は、伊久良河宮の近くです

真ん中の島にある、愛知県稲沢市下津新町は、尾張大國霊神社 国府宮の近くです

気になるのが、その左にある赤い丸で囲んだ「中島」と言う地名。

現在では、この場所にはこの名前の地名は見当たりません。

書き間違いでしょうか?

それとも、元伊勢で言われる中島宮は、ひょっとするとここにあったのでは?

そのことについては、後ほど書きたいと思います。



この古地図に書かれている地名は、かなり後のものと思います。

そして、海の高さも現在と変わらないようです。

津島は、海抜2mぐらいなので、ちゃんと書かれています。

この図は、ひょっとすると、猿投神社ができたころの地図ではないでしょうかね?

300年ごろの地形ならこのような感じになると思うのです。

我が家は、このころ海の底ですね・・・

1700年の間でこれだけ地形が変わるのかと思うとすごい驚きです。








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井戸神社のカツラ

2018-05-28 08:10:12 | 巨樹、巨木



久しぶりの巨木です。以前から行きたかったところに行ってきました。



場所は、滋賀県犬上郡多賀町大字向之倉字東反尻63番地 井戸神社




行き止まりに、車を止め少しだけ歩きます




現れました




後ろから






樹の奥にある神社


もっと写真を撮ったのですけど、残ってない・・・なんで?

気を取り直して



根基に水源があります。湧水でしょう。

以前は、この水たまりがコバルトブルーできれいだったと

それが見たくて訪れたのですけど、残念ながらあまりきれいとは言えず・・・

でも、静かで心落ち着くところです

カツラは、ある時期キャラメルのようなにおいがすると言います

いつなのか調べたら、主に落葉した葉から香るので、秋とのこと。

秋になったら、どこかのカツラに逢いに行きましょうか。。。





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倭姫命その11、なぜ伊勢?

2018-05-21 07:43:07 | 神社

倭姫命に興味を持ち、いろいろと調べ始めたのですけど、倭姫命以前に伊勢に行くルートを

大和朝廷の誰かが築いて、その後倭姫命が伊勢に渡ったと考える方がしっくりくるのです。

すると、年代は限られます。

崇神天皇と同じ年代、もしくはその後の垂仁天皇の前期の間になるでしょう。

誰だろうと、調べたら、伊勢国造(いせ の くにのみやつこ、いせこくぞう)という

人物がそれらしいかなと。

さらに調べます


伊勢国造は、天日別命と言う人物だそうです。

引用します

・・・・・・・・・・・・・・・・・・

天日別命は、神武東征軍に参加して大和に入り、天皇から『天津の方に国あり。其の
国を平けよ』と命じられた。

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さらに引用


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
夫れ伊勢の國は、天御中主尊の十二世孫、天日別命の平治けし所なり。天日別命は、神倭磐余彦の天皇、彼の西の宮より此の東の州を征ちたまひし時、天皇に随ひて紀伊の國の熊野の村に到りき。時に、金の烏の導きの随に中州に入りて、菟田の下縣に到りき。天皇、大部(おほとも)の日臣命に勅りたまひしく、「逆ふる黨、膽駒の長髄を早く征ち罰めよ」とのりたまひ、且、天日別命に勅りたまひしく、「天津の方に國あり。其の國を平けよ」とのりたまひて、即ち【標(しるし)の剣】を賜ひき。天日別命、勅を奉りて東に入ること數百里なりき。

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こちらに、わかりやすく書かれています


ここにも、菟田の地名がでてきますね。




この天日別命は、すでに伊勢にいた「伊勢津彦命」に国土を渡すよう要求したが、断られたので、

武力で追放したことになっています。


伊勢津彦命とは、丹生鉱山とその近辺で辰砂の採掘をしていたと推測します。

でも、この伊勢津彦命は、他所からやってきた人です。

この、丹生鉱山は縄文時代から採掘が行われていたと言われます。それ以前にも誰かが、おそらく

縄文人が、住んでいたのでしょう。

そこへ、伊勢津彦命がやってきてこの地を治めた。

そこを、さらに大和朝廷が奪ったということでしょうね。

伊勢津彦命は、その後、東(信濃)へ去ったとか、そのほかにもいろいろな説がありますので、

ここでは取り上げません。

一方、大和朝廷が派遣した天日別命ですけど、この人もどんな人物なのか謎なのです。

ウィキペディアより引用します

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天日別命または天日鷲命(両者には同神説と別神説がある)。前者は天御中主尊の12世孫、後者は神皇産霊尊の5世または7世孫という。神武天皇東征の際、伊勢津彦を追って伊勢国を平定し、その娘の弥豆佐々良比売命を娶って彦国見賀岐建与束命(伊勢神宮外宮摂社・度会国御神社の祭神)を生ませたという。
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天御中主尊、神皇産霊尊ともに抽象的な神様なので、天日別命とは架空の人物ではないかとも言われます

おいらも、そう思います。

倭姫命は、後に美濃から伊勢に向かいますが、それに先立ってルートを確保した人物は、やはり

彦坐王ではないかと思うのです。

その10で書いたように、美濃の伊久良河宮あたりに居を構え船を作り、何か所かの中継基地を

作りながら、伊勢に向かったのではないかと考えました。

これは、まるで倭姫命の旅と同じではないかと思ったりします。

参考程度に、古地図です


ただ、ルートは海岸線に沿って、水の確保のために、川を少し登った所の小高いところに基地を作り

まず先に、偵察隊を放ち、先発隊が準備をした後に本隊が移動するというような形を

とったのではないでしょうか。かなりの、大人数で攻めていったと推測します。

そこの中継基地が、後にも利用され、神社になったのではないかと思い、

めぼしい川の少し上流にある古くからの神社を探してみました。

次回からは、そのことについて書きたいと思います。







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倭姫命その10、おじいちゃんと鉄の関係

2018-05-12 08:24:42 | 神社

なかなか、投稿できません・・・仕事いそがしいしね


それと、伊勢までの道のりを確認しています

まだたどり着いていません・・・

仕事が落ち着いたら、休みとって伊勢に行きたいですね。。。



さて、倭姫命のおじいちゃんこと彦坐王と鉄の関係というより、どの時代にどのように

製鉄をしていたのか、なかなか詳しい資料が見当たらないのです。

そもそも、製鉄についてもよくわからない

たまたま、古代製鉄の研究をしておられる方のブログを見つけて、勉強させていただいていましたけど

突如、製鉄鉄関係の記事が削除され、さらに最近、ブログそのものが無くなったようです・・・

おいらのせいではないでしょうけど・・・残念。


まだ製鉄についての知識がほとんどないのですけど、それでもいろいろと推理していきます



まず、古代製鉄は「すず鉄」といわれる、通称「褐鉄鉱」(かってっこう、limonite)という

物からだと言われます。

湿地帯に生える植物(葦や茅,薦等)の根に,褐鉄鉱が付着して、塊になったもので、

それが、茎の中で動くと音がする。

鈴の語源のようです。神社に鈴があるのは、鉄がたくさんとれますようにという意味とか。

葦原中国は豊葦原中国(とよあしはらのなかつくに)とも呼ばれ、すず鉄が豊富にとれる

所と言われますけど、なるほどです。


このすず鉄は、比較的低温で製鉄ができるそうです。

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通説によると、日本においては青銅器と鉄器の伝来が、ほぼ同時であったと言われます。

さらに、砂鉄を使った「たたら製鉄」は、6世紀以降に広く全国的に分布するとのこと。

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この通説から製鉄を考えると、訳が分からなくなります。

前にも書きましたけれど、かなり古い時代に「砂鉄」と言う意味の言葉が確認されます。

さらに、古代では小さい規模での製鉄が行われていたようで、その痕跡が確認されないなど

証拠がないので、実際は、かなり早い時期から製鉄がされていたのではないかとも言われます。


さて、おじいちゃんである彦坐王の足跡ですが、近江で息長水依比売を妻としてから、

美濃の伊久良河宮あたりに住んだと思われます

その9でも書いたように、子である神大根王の古墳とされる宗慶大塚古墳から見た、冬至の日の出が

彦坐王の墓であろう尾張戸神社の古墳の位置からなので、可能性は高いと思います。


大きなおせっかいですけど、先に妻となった倭姫命のおばあちゃんである、川上摩須郎女命は、

どうなった?たぶん、ここで一緒に暮らしていたのでしょう。後に、方県津神社に移動したと考えます


順番が、逆じゃないか?なぜ?

おそらく、川上摩須郎女命は、まだ幼かったのではないだろうか・・・

妄想はこれくらいにしておきましょう。。。


鉄の話題からだいぶそれてしまいましたけど、この流れがポイントと考えます。

なぜなら、美濃には金生山という、赤鉄鉱を産出する山があるのです。

しかも、かなり良質とのこと。こちら参考になります


位置関係を見てみます



伊久良河宮は、金生山より東です。しかも揖斐川、根尾川を越えています。

当時の川の位置はわかりませんけどね。

一方、金生山の付近には、昼飯大塚古墳を含め多くの古墳があります。しかし、時代は4世紀後半

からです。彦坐王の時代より100年ぐらい後です。

彦坐王の時代には赤鉄鉱を利用していなかったかもしれません。

ということは、すず鉄から製鉄をしていたのではないでしょうか?

伊久良河宮あたりは、湿地帯に生える植物(葦や茅,薦等)が、多く茂っていたのでしょう。

地図の左の方に、坂田神明宮がありますが、このあたりも湿地帯だったかもしれません。


ただ、赤鉄鉱からの製鉄を全く行っていなかったとは言い切れないのです。

金生山近くに来たことが、そもそも偶然ではないかもしれません。

さらに、彦坐王は 愛知県春日井市まで進んでいます。

その場所も、鉄鉱石や砂鉄が採れるところなのです。

そういう所だからこそ、そこに生える葦などには褐鉄鉱が多いかもしれませんけど・・・

残念ながら、これ以上はおいらには推測できませんね。













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倭姫命(やまとひめのみこと)その9,美濃

2018-04-26 08:17:12 | 神社

さて、倭姫命は、いよいよ美濃にやって来ました。

「更に還りて近江国に入りて、東、美濃を廻りて、伊勢国に到る」

この、「東」と言う言葉が気になるのです。

単純に、近江の東と解釈してよいのか、美濃の東なのかそれ以外の意味があるのか良くわかりません。

倭姫命世紀では、美濃国の伊久良河宮に行ったことになっています。

天神神社のあたりがそこであろうと言われています。






伊久良河宮の少し北東に宗慶大塚古墳があります。

この古墳は、彦坐王と息長水依比売の間にできた子である、神大根王(かむのおおねのみこ)の

墓と言われます。

倭姫命のおばあちゃんの居た所はもう少し東の、方県津神社(かたがたつじんじゃ)付近です。

どちらから倭姫命は旅立ったのでしょうかね?

わかりません。

倭姫命世紀では、伊久良河宮付近で船を3艘もらってそこから伊勢に向かいます。

当時の海面は現在と比べてどう違うのでしょうか?

熱田神宮の近くは、当時海だったと言われています・


尾張名所図会を巡るより引用します

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日本武尊が宮簀媛命(みやずひめのみこと)のいる氷上(ひかみ)まで行った時の古い道(火高地古道)は潮干には歩いて渡ることが出来るが、満潮には渡ることが出来ない。
 呼続とはここから次へと呼び継いだところ故に名が付いた。昔はこのあたりから山崎、笠寺(現在の名古屋市南区)まで入り江になっていたが、新田開発を行い現在のような陸地となった。
 日本武尊の「この夕潮に 渡らへむかも」と詠んだ歌(詳しくは火高地古道を参照)や『方角抄』に「よびつぎの浜には海士の家居あり、塩屋かずかず見えたり」とあるようにここには古い道があった。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

調べてみると、ここから氷上(大高)までの道のようです



ここの標高は、1.6m とあります。

おいらの予想では、当時の海はもっと高かったと思ったのですけど・・・

これは、猿投神社から出てきた古い地図と言われるもの




このようなものもあります


でも、これらは、1300年前の様子ではないようです

偽物とも言われていますけど、そうとは一概に言えないでしょう

そこで、古代の海抜を調べると、以外!

2,000年前は、現在とほぼ同じだそうです。

http://www.kokudo.or.jp/grant/pdf/h25/tanabe.pdf

どういうことなのでしょう?



現在より、海面が1m高い状態を調べると



古地図と照らし合わせて考えると、時間がたつにつれ、川から流れる土砂が堆積したと考えられるのでは

ないでしょうか?

そのことについて、さらに調べることができるといいのですけど、時間がないので

これぐらいにして、次回からは次に進みたいと思います。

海抜についてこれほどややこしいとは思わなかった・・・






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御上神社

2018-04-10 11:05:31 | 神社


少し前に、御上神社に行ってきました




三上山が御神体


祭神は、天之御影神

金工鍛冶の祖神である天目一箇神であるとされています。

孝霊天皇の時代に天之御影命が三上山の山頂に降臨したのがはじまり。




鳥居をくぐると




本殿は国宝



本殿の裏には扉があり、そこを開くと三上山が見えるそうです。

天気が悪くて、あまり長居はしませんでしたけど、ちょうど雨がやんでいました。

ありがたいネ。

帰りには、安土城跡にも寄りましたけど、雨が降っていたので場所の確認のみでした。

何時か訪問したいです。





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倭姫命(やまとひめのみこと)その8,近江国

2018-04-09 11:06:26 | 神社



さて、倭姫命は、菟田の筱幡の次は日本書紀では以下です。


「更に還りて近江国に入りて、東、美濃を廻りて、伊勢国に到る」

近江付近を治めるのは、息長氏です。


倭姫命世紀では、近江の滞在は、坂田宮 (滋賀県米原市宇賀野835-2)となっています。


 
 

ここは、以前行ったことがあるので、ここに投降したんじゃないかと思い探しましたけど

わからず・・・投稿しなかったかも・・・



さて、例のごとく彦坐王の行動に当てはめると、場所は坂田宮ではなく、御上神社ではないかと。




息長氏は、野洲郡の出身で、そこから坂田郡から野洲郡付近に広がっていたと考えるのが

適当かと思います。

年代的にも彦坐王が行った場所は御上神社のある野洲の地と思います




もう一度、倭姫命の一般で言われている系図を見てみましょうか。



息長水依比売(おきながのみずよりひめ)が、彦坐王の妻になっています。

そして、その子に丹波道主命がいます。

その妻が、川上摩須郎女(かわかみますのいらつめ)となっています。


息長水依比売について、少し調べてみましょうか。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

父は天之御影神 (アメノミカゲノカミ)。

第九代開化天皇の皇子である彦坐王の妃の一人。

ヒコタタスミチノウシ、ミズホノマワカ、カムノオオネ、ミズホノイオヨリヒメ、ミイツヒメをもうける。



・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

おそらく、この野洲で、息長水依比売を妻にしたんじゃないのかな。

そして、その間にできた子に神大根王(かむのおおねのみこ)がいます

その墓が、宗慶大塚古墳(そうけおおつかこふん)でしょう。



そこから見た、冬至の日の出は、尾張戸神社です。

この神社は、古墳の上に建てられています。その古墳は、

彦坐王の殯(もがり)の場所ではないかと考えます。


墓はその麓にある白鳥塚古墳であろうと、水石亭主さんがおっしゃっておられます。

おいらも、そうだと思います。

このことは、あくまで、おいらの推測ですが、レイラインがぴたりとあたるということは

かなり意味があるでしょう。







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倭姫命(やまとひめのみこと)その7、うだのささはた

2018-04-01 15:08:33 | 神社

うだと言う名は、秦氏の「はた」の読みが、変化したものかもしれないという話があります。

もしそうなると、秦氏はかなり古くから日本に来ていたことになります。


もちろん、日本書紀の書かれた時代には秦氏は日本ですでに活躍していたので、その時の地名を使った

とも考えられますが、まあ、素直に考えましょうか。




「ササ」とは、砂鉄の意味もあると。水石亭主さんのブログに、あったような記憶が・・・

調べたら、ありました。



鳥取県の樂樂福神社(ささふくじんじゃ)のHPより引用します

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

当社は大日本根子彦太瓊尊(第七代孝霊天皇)を主神とし、皇后、后妃、皇子及び其のご一族を奉斎する。

天皇はご幼少の御時「樂樂清有彦命(ささきよありひこのみこと)」と称し、

また「笹福(ささふく)」と号された。

古くは砂鉄生産の守護神として厚く崇敬され日野郡開拓鎮護の総氏神として

日野大社笹福大明神と尊称された。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


砂鉄ってこんな古い時代から製鉄に使われていたのでしょうか?

鉄にまつわる歴史は、諸説ありすぎて混乱します。

実際は、どうなんでしょう?証拠となるものが無いのであいまいのままのようですけど

かなり古くから、砂鉄からの製鉄が行われていたと考えるのが適切かもしれない。


ところで、「うだのささはた」ですけど、「ささ」の次にも、「はた」がある。

なんのこっちゃ? 

「はたさんの住んでいる所の、砂鉄を使うはたさん」とでも解釈すればよいのでしょうか?






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大和水銀鉱山の辰砂

2018-03-29 08:26:16 | 神社

アマゾンで探したら、あったんで買っちゃいました。。。




拡大すると




本物だろうか?

水銀鉱山は、現在閉鎖していますけど・・・



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倭姫命(やまとひめのみこと)その6,菟田の筱幡(うだのささはた)

2018-03-20 08:27:26 | 神社


日本書紀では、倭姫命の伊勢に至る足跡は以下です

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
離天照大神於豐耜入姬命、託于倭姬命。爰倭姬命、求鎭坐大神之處而詣菟田筱幡筱、此云佐佐、更還之入近江國、東廻美濃、到伊勢國。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・



天照大神を、豊耜入姫命から離し、倭姫命に託(つ)けました。

倭姫命は大神を鎮座する場所を求めて、菟田の筱幡に至りました。筱は佐佐(ササ)と読む。

更に還りて近江国に入りて、東、美濃を廻りて、伊勢国に到る  




と言うことです

さて、ここの菟田の筱幡という場所は、どういう意味があるのか?

場所は、現在の「篠畑神社」のある付近のことを言うようです


篠畑神社(ささはたじんじゃ)

御祭神 天照皇大神
境内社 市杵島姫命 篠畑姫神





なぜ、この場所なのでしょうか?

近くに、大和水銀鉱山(やまとすいぎんこうざん)が、奈良県宇陀郡菟田野町にあります。

見田大沢古墳群のすこし西のあたりです



両方の場所の距離は直線で、約 8.6km。

鉱山を治める人は、吉野首かもしれません。


倭姫命とこの場所をつなぐ特別な理由は見つけることができません。



ですけど、倭姫命よりも数十年以前に、彦坐王はこの場所、もしくは、この付近を通って

(その時代には篠畑神社は存在していないと思います)水銀にかかわる吉野首と接触があったのでは

ないでしょうか。そして、その後、吉野首の技術者を同伴させたかもしれませんね。



一つ気になることは、「菟田の筱幡に至りました。筱は佐佐(ササ)と読む」と、

「ササ」を強調していることです。

このことについては、のちほど。。。
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