たまにはぼそっと

ふと思いついたことをボソッと書いてみます。

猿投神社について考える

2021-01-30 08:35:15 | 美濃、尾張、三河の神社とレイライン
最初のころ、おいらは、朝廷別王(=猿田彦=すくなひこな)は、猿投神社に住んでいたと思っていました。   違いますね。



「創祀は社伝によれば仲哀天皇元年勅願により現在の地に祀る」こう書いてありますね。

勅願によるということは、仲哀天皇が命じたということ。おそらく、神功皇后の意見でしょう。

仲哀天皇の妻である、神功皇后については、 神坂神社の祭神で、少し触れています。



それにしても、朝廷別王のころとは、だいぶ年月が開いています。神功皇后の曽祖父が

朝廷別王の時代です。


天皇にしても、崇神ー垂仁ー景行ー成務ー仲哀となります。

朝廷別王は、垂仁天皇と同じ世代です。

なぜ、こんなに時間がたってからの創祀なのか?謎です。

もう一つ謎なのは、氷上姉子神社に書いてありますけど、氷上姉子神社の本宮からのレイラインがこの猿投神社を通るということです。


(この、日の出日の入りマップには、ほんとお世話になっています。。。)

氷上姉子神社の時代を考えると、東谷山の尾張戸神社は、

第13代成務天皇5年に宮簀媛命の勧請によって創建されたと言われます

成務天皇は、実在しないかもしれないという説もありますが、それでもあえて年代を推測すると、

325年ごろと思います。

そして、尾張戸神社を建てたのが、朝廷別王でなく宮簀媛命と言うことは、この時には朝廷別王は

もうこの世にはいないということでしょう。320年で彼は55才ぐらい。

没年はそのころと思います。

宮簀媛命とは誰かと言うことを考えると、朝廷別王の娘としか考えられません。

「玉姫」と言う娘が、建稲種命(たけいなだねのみこと)に嫁いでいます。

でも、この年代を考えるとかみ合わないのです。またまた誰かが物語を創作しているようです。

そのことについては、ここでは触れません。あしからず。


さらに、尾張戸神社の創建された325年頃とは、朝鳥名神のレイラインを測量した頃とほとんど同じ年代でしょう。

ということは、この氷上姉子神社の本宮から猿投神社のレイラインは、同じ技術者集団の仕事かもしれません。

この集団は、朝廷別王といつも一緒に行動していたように思います。


その測量技術が代々受け継がれて、その後の猿投神社創祀の時に場所を確定したとは

考えにくいのです。


どちらかは、分かりませんけど、おいらは、朝鳥名神のレイラインを測量した技術者たちが

場所を特定して、現在の猿投神社の場所になんだかの形あるものがあったと考えます。



ですから、案内板には「創祀」としてあり、「創建」と言う言葉を使っていないのかもしれません。



でもなんで、仲哀天皇のころの創祀なのだろう?やはりわからない。

神坂神社の祭神でも書いていますけど、

神功皇后の曽祖父の「山代之大筒木真若王」と言う人物は朝廷別王=(=猿田彦=すくなひこな)

かもしれない。この場所に、猿投神社を建てたということで、可能性が高くなりました。


その山代之大筒木真若王の、奥さんは丹波能阿治佐波毘売(たにはのあじさはびめ)です。

これは誰だろうか?




妄想すると・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・天宇受売命(アメノウズメ)?



妄想を終わります。。。




















コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

猿投神社付近の道

2021-01-28 14:05:04 | 神社
以前、氷上姉御神社の北にある天白川をさかのぼると猿投神社に行けると書きました。

ところが、猿投神社付近に行くと、川が無くなったり、違う川沿いに進まなければなりません。

それを確かめようと思い出かけました。

とりあえず、氷上姉御神社の地図です


この、北にある川が天白川。

今回は、日進市から天白川に沿った道を通りました。

出発地点です


赤い線が今回通った道路です。左端が出発地点です。

真ん中あたりの黒い〇付近が川の無い所です。距離は、1kmぐらい。

google地図で見てみましょうか。


おそらく、それほど問題なく移動できると思います。

田籾川の最上流の標高は120mほど、伊保川との合流地点は82m、籠川との合流地点は62mと、

標高差が割とあるので、川の流れは当時とそれほど変らないと思われます。


その後も、道に迷うこともなくあっさりと猿投神社に到着しました。

途中、古墳があったので立ち寄りました。

藤山1号墳


登っていくと


6世紀後半なので、猿田彦の時代とは300年ほど差があります。


うっかりして、石室を見ることを忘れてしまいました。

入室可能のようです。次回ですね。


猿田彦は何処に住んでいたのでしょう?

東之宮でしょうか?

それとも、広沢川沿いに広沢神社(広沢天神)と言う所がありますけど、そこだろうか?

広沢神社(広沢天神)の祭神は、少名彦神もしくは、泣沢女神と言われます。

朝廷別王=佐田彦=少名彦(すくなひこな)と考えますので、ここに住んでいた可能性も

充分あります。

以前、猿投山を歩き回ったときにこの前を通りましたけど、あまりに疲れていたので

訪問をパスしてしまいました。

今度は、じっくりと訪問しようかな。



広沢川をさかのぼると、西宮付近に行くことが出来ます






猿投神社の位置です


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

瞑想

2021-01-26 07:49:33 | Weblog
興味深い記事に出くわしたので、それについて少し書いてみます。

簡単に、まとめると次のようになります

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

心臓の発する磁場の強さは脳が発する磁場の5000倍もあり,1~2m離れた場所でも計測が可能だそうです。


特に心にポジティブな感情を思い浮かべているときは、心拍のリズムが非常に規則正しくなり、

脳波の一種であるα波のリズムも心臓と同じように、規則正しいものになるそうです。

そして心臓と脳波が規則正しくシンクロし始めると、呼吸のリズム、血圧、皮膚の電気信号のリズム

などもシンクロし始める。

こうした状態になると、身体が最も効率よく働き始め、精神的、身体的な様々な恩恵を受ける

免疫力、認識力が向上し、思考がクリアになり、感情が安定。幸福度が向上する。

このような状態は、睡眠中や深いリラクゼーションの中で達成されることが多い。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
以上、大まかにまとめるとこんな内容です。

「心臓とα波が規則正しくシンクロする」と言うことはおいらよくわかりません・・・

周波数が違うのじゃないでしょうか。

でも、瞑想するということはこのような状態に近づくという事じゃないかな?

その道の専門家ではないので、偉そうなことは書けませんけど・・・

自分自身、メンタルがあまりいい状態ではないので、禅を行うと何とかならないかと

数年前から毎日やってます。

ようやく最近、きっかけがつかめ始めたかなと思うときがあります。

違うかもしれないですけど、まあ、それについては自分自身しかわからないので

良しとしましょうか。

でも、煩悩を消すことってなかなかできませんねぇ。。。









コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

日本海側の航路はどうなっていたのでしょうか?

2021-01-15 10:55:54 | 神社
大国主が、出雲に行ったのはいつ頃だろう?

伊勢津彦(=サホヒコ=大国主)が、伊勢から追い出されたのが、281年頃。

ホムチワケが、出雲に行くのが、296年頃。この時、大国主は、46歳ぐらい、猿田彦は、31歳ぐらい。

砥鹿神社に1年、諏訪に1年、越に1年、そして尾張に帰って1年、再び越に行って1年。

何も資料が無いのでとりあえずこんな感じで、全部で5年ぐらい準備にかかったとすると

285年頃に越を出発したと考えるのが適当かと。

このころの日本海側の人の動きはどうだったのでしょう?

「古代翡翠道の謎  森浩一 」と言う本の中に、「玉城一枝」と言う方が、古代の翡翠が発掘された場所を

時代別に示した地図を載せていらっしゃいます。

見てみましょうか。



 弥生時代中期に八日市地方遺跡では、新潟県糸魚川産のヒスイを加工した勾玉などの生産が盛んに行われていたそうです。



翡翠だけではなく、南加賀山間部の碧玉産出地から運ばれた原石は、この集落内で管玉などに加工され、列島各地へ運ばれたとのこと。

さらにいろいろ調べると、三内丸山遺跡(
約5900年前~4200年前)の縄文時代の集落跡では、新潟県糸魚川周辺で採れる翡翠が見つかったそうです。


糸魚川周辺の翡翠の装飾品は北海道南部~東北、そして沖縄や薩摩半島の遺跡からも見つかっているそうです。

縄文時代の分布図


かなり古くから、日本列島の周りの海路は出来ていたようです。

陸路は、河川に沿って、移動することが基本のようです。

古墳時代はこんな感じ
















コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

糸魚川からの足どり

2021-01-10 10:59:27 | 神社
大国主神、事代主神、朝廷別王のその後の足どりがわからない。

建御名方神は、糸魚川に行っていたのかどうかもわからない。


諏訪大社の御柱祭りの前年に行われてきた式年薙鎌打神事が、小倉明神で行われていることを考えると行っていたとするのが妥当か。

その後、諏訪にとどまったことは間違いないですけどね。←何をいまさら・・・


レイラインの測量集団は、恵那山を越えて木曽川経由で尾張に帰っているでしょう。

この先は、まったく資料が無いので、いつもの通り妄想をします・・・へへ

朝廷別王は、神坂神社から熱田神宮のレイラインがあるので、おそらく一緒に尾張に向かったと思います。

大国主も一緒だったのではないかと思うのです。

愛知県犬山市にある東之宮古墳には、副葬品のなかにひすい製勾玉3点があります。

これは、その時に持って帰ったものかもしれませんね。

事代主神はどうしたのか?

話は少し飛びますけど、出雲にある「美保神社」の祭神は、三穂津姫命と事代主神です。

三穂津姫命のことを調べてみましょうか。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

ミホツヒメの「ツ」は「の」の意味で、ミホの女神という意味。

高御産巣日神の御子。


『日本書紀』によると、出雲国譲りの後、高御産巣日神が大物主神に、

もし国神を妻とするならば、あなたが心を許していないと思う。

だから私の娘の三穂津姫をあなたの妻とし、八十万神をひきつれて、皇孫のために護り祀れと云った。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

そもそも、国譲りは出雲では行われていないので、(伊勢での出来事でしょう)またまた、日本書紀の嘘だと思います。

どう考えてみても、美穂神社の二つの社は、夫婦と見たほうがしっくりくるでしょう。


さらに考えると・・・

この、「三穂津姫命」と言う人は、越の奴奈川姫(ぬなかわひめ)と大国主の間に出来た

子の「御穂須々美(みほすすみ)命」じゃないのでしょうか。

でも、年代を考えると、少しおかしい・・・



大国主は、越の奴奈川姫に求婚することになっていますけど、ここがすでに嘘じゃないかな?


奴奈川姫にはすでに、「御穂須々美命」という娘がいて、「事代主神」がその娘に求婚して、

二人は一緒になった。

その後、二人は、みんなと一緒に出雲に行き美保神社で暮らした。こう考えると、時間的にも

ピッタリ来ます。




大国主と朝廷別王は、尾張に帰った後、また越に戻ってきます。

尾張、美濃から船を作る技術者を引き連れて。

そして、航海に必要な技術を持つ者も一緒に来たでしょう。

その中に、レイラインの測量技術者がいるかもしれません。

どうして越に戻ってきた?

越で大型船を建造して、出雲を目指して出かけたのでは?

一般に言われていることと、逆ですよね。でも、今までの流れで行くとそうなります。

この時すでに、大国主は奈良を取り囲むように国を作ることを計画していたのかもしれません。



通説通り、大国主が出雲から越にやって来たなら、越にそれなりの神社があるはずですけど見当たらない。

出雲に、美穂神社があり、そこに、三穂津姫命と事代主神が祀られていることも、

越から出雲に行ったと考えるとすんなりいきます。

越から出雲に行く途中の中継地点は何処か?それなりの場所を探してみました。


こちらリンクできるでしょうか?

まだ、分からない湊の場所もたくさんあります。違ってるところもあるでしょう。

湊と湊の間の距離は、この時代20kmくらいだそうです。

大垣から伊勢までの間も、それぐらいの距離でした。

でも、今回はもう少し距離が長いかもしれません。船が大きくなってるせいでしょうか?

以上、妄想を終わります。。。










コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

少彦名命(すくなひこなのみこと)

2021-01-10 09:43:06 | 神社
『古事記』では神産巣日神(かみむすびのかみ)の子とされ、

『日本書紀』では高皇産霊神(たかみむすびのかみ)の子とされています。

何か理由があるのでしょうか。

おいらが思うには、古事記が正しくて、日本書紀が何かを隠そうとしてる。そう見えます。


その他としては、

少名彦命と天日鷲命の両者は同一神とされている。 阿波国を開拓。


説明としては、
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

宇宙に突如として現れた神様、アメノミナカヌシ。

それに続く様にタカミムスビ、カミムスビが現れる。

これを造化三神と呼ぶ。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
少彦名を、朝廷別王として考えると、神産巣日神(かみむすびのかみ)は、彦坐王。

高皇産霊神(たかみむすびのかみ)は、崇神天皇。

そして、天之御中主神(アメノミナカヌシノカミ)は、開化天皇となりますけど、どうしよう?(笑)


別の話では、

カミムスビ神が「私の手指の間から漏れこぼれ落ちた子です」といい、

わが子のスクナヒコナ命にオオクニヌシ命と義兄弟になって一緒に国づくりをするように

命じたといいます。

これが実話なら、伊勢津彦(=大国主=さほひこ)が、伊勢を追い出されて砥鹿神社に着いたとき

まだ、彦坐王は存命で五社大名神社で、再会したかもしれません。

でもね、カミムスビ神が「私の手指の間から漏れこぼれ落ちた子です」と言うあたり、茶目っ気を

感じませんか?




さらに、別の話では、少彦名は、海の向こうの常世の国からガガイモの実の船でやって来た小人神。

御伽草子の一寸法師などのルーツとも言われています。

明るくユーモラスでいたずら者、豊かな知識と技術をもつ知恵者。

前に、朝廷別王は、おちゃめな性格と書きましたけど、やはりそのようですね。




最後には、淡島で粟(あわ)の茎にのぼり、その弾力を利用してはじき飛ばされるようにして常世の国に渡ったという説。

あるいは熊野の御崎(みさき)から海を渡り、常世の国に帰った説などあります。

この話が、少彦名の茶目っ気から生まれた物語ならば、彼の死後、景行天皇が、その物語に付き合ったのかもしれません。

景行28年、御崎の「静之窟」内に少彦名命を勧請したそうです。

景行天皇は、倭姫の兄、ということは、彼にとって朝廷別王は、叔父になります。



御崎の「静之窟」の場所は、潮御崎神社のすぐ近くです






夏至の日の出が、磐座から見えるようです

本州の最南端ですね。まだ行ったことがありません。行きたいなぁ。




以下参考にさせてもらいました

高塚の森

こちらも

さらに

少彦名命の祀られている神社です

宿那彦神像石神社   石川県七尾市黒崎町ユ59
加夫刀比古神社    鳳珠郡穴水町甲ハ80 
少彦名社       羽咋郡志賀町深谷ハ13甲
笠間神社       白山市笠間町1-1
大湊神社       福井県坂井市三国町安島23-15-11
眞子神社       鳥取県西伯郡大山町東坪143

なぜこんなに少ないのだ!と言う意見も出て来るようですが、少彦名=朝廷別王=サタヒコ=猿田彦

と考えれば、すごく多い!と感じるのではないでしょうか。
        
       ↑
( ps  少彦名命の祀られている神社は、もっとたくさんありました。 )
 



その他興味深いところは
古麻志比古神社     珠洲市若山町経念12-32         彦坐王
長瀬神社        鳥取県東伯郡湯梨浜町     天鈿女命アマノウズメノミコト

もう一つ、彼の茶目っ気から連想するのが、田県神社のご神体。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

本牟智和気命(ほむちわけのみこと)

2021-01-09 09:37:06 | レイライン
「本牟智和気命(ほむちわけのみこと)とは、

「さほひこ」の妹の「さほひめ」と垂仁天皇との間に出来た子と言われていますけど、

「さほひめ」は架空の人物ですので、「ほむちわけのみこと」も実在しません。



物語の内容を簡単に言うと、口のきけない「ほむちわけのみこと」は、出雲の祟りで、しゃべることが出来ない。
出雲大社に参詣すると口が利けるようになる。

そのようなことが、垂仁天皇の夢占いにでたそうな。

そこで、「曙立王」と、「菟上王」を出雲に遣わし、大神を拝させると皇子はしゃべれるようになった

と言う話。

「曙立王」と、「菟上王」とは、彦坐王の長男(たぶん)の「大俣王」(オオマタノキミ)の子供です。二人は兄弟。

彦坐王の孫である、朝廷別王とこの二人の年齢は近いと思われます。

詳しくは、こちらの方の説明が分かりやすいと思います
こちら分からないことがあると、よく拝見させてもらってます。


日本書紀
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

二十三年の秋九月の丙寅の朔丁卯に、群卿(まへつきみたち)に詔して曰はく、「誉津別王(ほむつわけのみこ)は、是生年(うまれのとし)既に三十(みそとせ)、八掬髯鬚(やつかひげ)むすまでに、猶泣(いさ)つること児(わかご)の如し。

常に言(まことと)はざること、何由ぞ。

因りて有司(つかさつかさにみことおほ)せて議れ」とのたまふ。

冬十月の乙丑の朔壬申に、天皇、大殿の前に立ちたまへり。

誉津別皇子侍り。時に鳴鵠(くくひ)有りて、大虚(おほぞら)を度(とびわた)る。皇子仰ぎて鵠(くくひ)を観(みそなは)して曰はく、「是何物ぞ」とのたまふ。

天皇、則ち皇子の鵠を見て言(あぎと)ふこと得たりと知しめして喜びたまふ。

左右(もとこひと)に詔して曰はく、「誰か能く是の鳥を捕へて献らむ」とのたまふ。

是に、鳥取造(ととりのみやつこ)の祖(おや)天湯河板挙(あめのゆかはたな)奏(まを)して言(まを)さく、「臣(やつこ)必ず捕へて献らむ」とまをす。

即ち天皇、湯河板挙板挙、此には拕儺(たな)と云ふ。に勅して曰はく、「汝(いまし)是の鳥を献らば、必ず敦く賞(たまひもの)せむ」とのたまふ。時に湯河板挙、遠く鵠の飛びし方を望みて、追ひ尋(つ)ぎて出雲に詣(いた)りて、捕獲(とら)へつ。

或(あるひと)の曰く、「但馬国に得つ」といふ。十一月の甲午の朔乙未に、湯河板挙、鵠を献る。誉津別命、是の鵠を弄びて、遂に言語(ものい)ふことを得つ。

是に由りて、敦く湯河板挙に賞す。則ち姓を賜ひて鳥取造と曰ふ。因りて亦鳥取部(ととりべ)・鳥養部(とりかひべ)・誉津部(ほむつべ)を定む。

(垂仁紀二十三年条)

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

「ほむつわけのみこ」は、30歳に出雲に行ったことになってます。

この当時、人は一年に2度年齢を数えます。ですから15才でしょう。

年表を作ってみました


年代については、少し誤差はあると思います。大まかな流れと思ってください。

人の名前の下に出ている数字は、推定の年齢です。

赤く色を付けたところが、「ほむつわけのみこ」が、15歳の時、出雲に出かけた年としました。


同時に、伊勢津彦が、伊勢から追い出された年から数えて15年目です。

このころの、彦坐王ファミリー(すでに彦坐王は亡くなっています)である

大国主(=サホヒコ=伊勢津彦)の関係する場所は、かなりの広い範囲になっています。

こんな感じ


付け足すと、出雲から翡翠峡のある糸魚川までの日本海はすべて関係しているでしょう。

関東は、諏訪にいるタケミナカタが開拓している最中だろうし、

四国も大国主や佐田彦(=朝廷別王=猿田彦=スクナヒコナ)が、開拓しているかもしれません。

結果として、大国主の関係する勢力は、垂仁天皇の居る、奈良を囲んでいるように見えます。

奈良を攻められたらひとたまりもない・・・垂仁天皇はこのように思ったかもしれません。

口をきけなくなった「ほむつわけのみこ」と言うのは、垂仁天皇本人のことではないんでしょうか?

おそらく、かなりの危機感があったのでしょう。

そこで、「曙立王」と、「菟上王」を出雲に遣わした。

二人とも、彦坐王ファミリーの一員なので、話はうまくいったと考えます。

どのような話があったのかは分かりません。

でも、その6年後ぐらいに倭姫が伊勢に行っています。


ここまで書いて、あれ?どこかで聞いた話と似てるなと・・・

天岩戸神話に似ていると思いませんか?

手力男命(たぢからをのみこと)=曙立王とすると、思兼神(おもいかねのかみ)は、=菟上王でしょうか。

佐那神社は、天手力男命と曙立王命を主祭神としています。

このあたりの物語は、天岩戸神話を参考にして書かれたのかもしれませんね。


よくわからないのは、垂仁天皇は、なぜ「ヒバスヒメ」(朝廷別王の姉、倭姫の母)を妻にしたのかと言うこと。

日本人離れしていてすごく美人だったのでしょう。中東の人の血が濃い?

猿田彦の容姿も、

背が高く、天狗のように鼻が 高く、唇は明るく輝き、長い口髭をはやし、

眼は八咫鏡の如く爛々と照り輝き、強い力の持ち主であり、眼力の強い大神

とあります。

骨が語る日本人の歴史 (ちくま新書)と言う本には

「大型 古墳 の 被 葬 者 は 一般 に 高 身長 で、 とき に 一 七 〇 センチ 近く にも 及ぶ 被 葬 者 が い た よう だ。 この 時代 に し ては、 まことに 高 身長。」と書かれています。

DNAが、違うかも。


天日別王(倭彦命かもしれません)が、伊勢津彦を伊勢から追い出してそれほど年月が経たないうちに

垂仁天皇はヒバスヒメを妻にしているのです。武力で脅したのでしょうか?

謎です・・・

垂仁天皇は、倭姫を人質として差し出して、和解しようとしたのかもしれませんね。

でも、猿田彦は彼女を手厚く招いています。

伊勢津彦の居た、飯野神山神社からの冬至の日の出のレイライン上に、内宮の場所を決めたぐらいですからね。

出雲にある佐田神社には北殿に「天照大神」が祀ってあります。

不思議ですね

倭姫は、ひょっとすると、出雲にも行っているかもしれない。











コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

猿田彦はなぜ猿投神社に行ったのか

2021-01-04 06:31:52 | レイライン
まず、彦坐王が最後にいた場所、東谷山、五社大名神付近の古墳を調べてみましょう。

歴史の里 しだみ古墳群にあるしだみ古墳群の古墳
と言う所をみるとよくわかります。

尾張戸神社古墳の近くに、中社古墳(なかやしろこふん)

そして、南社古墳(みなみやしろこふん)
があります。

どちらも、築造時期は、4世紀中頃です。誰が埋葬されているかはわからないようですけど、

彦坐王に近い人でしょう。

ひょっとすると、朝廷別王からみて、母親違いの兄弟かもしれない。

その可能性は十分あると思われます。←PS  多分これ間違っています。

そして、朝廷別王の拠点を、大垣から熱田神宮(まだ神社ではなく湊であったと思います)に移し

近くに山のある場所を住居としようとすると、五社大名神社付近では、都合が悪かったのでは無いでしょうか。

そこで、熱田の近くにある、天白川をさかのぼった場所に目を付けた。

そこが猿投山であり、そのルートはすでに砥鹿神社に行くときに開拓していたと推測します。




猿投神社東之宮の地図です



レイラインを見てみましょうか(このアプリのおかげでたくさんのレイラインを見つけられます)


位置関係です


猿投神社付近から天白川を下ると、氷上姉子神社にたどり着きます。こちらにレイラインも載せてあります。ご覧ください。

氷上姉子神社本宮から見た夏至の日の出が、ピッタリと猿投神社本殿上を通ります。


ちなみに海岸線を5m上げてみます

天白川の位置を間違えてしました。訂正します。ご容赦~♪

朝廷別王が、三河を開拓したのはこの後からではないのでしょうか?

それと、氷上姉子神社の祭神である、宮簀媛命(みやずひめのみこと)が、

どういう人かよくわからない。






















コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

朝廷別王の名前

2021-01-03 07:38:45 | Weblog
まず、「朝廷別王」(みかどわけのみこと)と言う呼び方は、本人は、知らないかもしれない。

古事記に出てきますけど、その時に初めてついた名前かもしれない。定かではありませんが・・・

さたひこ (佐田彦)以前書きましたけど、「さ」と言う字は神聖なものと言うような意味だそうです。
    さくら、さなえ、など。父親の彦座王が名付けたか、さほひこにあやかったと思われます。
     
      わりと早い時期の名前

さるたひこ  「さたひこ」が変化して「さるたひこ」になったようです。
       小滝川ヒスイ峡
     に行った時すでにさるたひこととよばれていたかもしれません。

       神坂神社の冬至の日没の線上には、名古屋の「熱田神宮」があります。
       ひょっとすると、「あつた」も「さた」から変化した呼び方かもしれない。
       さた → さった →あった → あつた  いかがでしょう?
       ならば、神坂神社のレイラインを測量した時には、
       さたひこ もそこにいたと考えられます。
       ということは、山代之大筒木真若王=さたひこ とも考えられます。


すくなひこな 大国主に対して小さいという意味でつけたとされます。

おおた(大田)大国主が亡くなった後に着けたのでしょうか?

まだ他にも名前が出てきそうですね。

さて、いつものように妄想です

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

古事記、日本書紀では彼の存在をうやむやにしようとする意図を感じます。彦座王も同様。

「さほひこ」などは、死んだことになってます。しかも反乱を起こしたことになっている。

 逆でしょう?


しかも、彼の移動の順番も逆でしょう? 大垣→伊勢→砥鹿神社→(ここまでは隠されている)

それから、諏訪→越(小滝川ヒスイ峡)→出雲と、この順番納得できませんかね?

出雲に行く途中、眞名井神社(籠神社奥宮)にも滞在したかもしれません。さたひこだけかもしれませんけど。
(さたひこの母親の出身地の関係)




コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

五社大名神社、青塚古墳、

2021-01-02 19:03:10 | レイライン
初詣に行ってきました。

青塚古墳の横を通り、大縣神社の前を横切り、尾張戸神社(おわりべじんじゃ)に行き


大麻購入~♪

その足で、今度は方県津神社(岐阜)まで行きました。ここ数年のパターンです。

ここでも大麻を買うつもりでしたけど今年は誰もおられません。コロナの影響でしょう。



さて、思いつくことがあり、青塚古墳のレイラインをもういちど見ようと思います。



年末に行った時の画像


大きいです


地図です


ここから、冬至の日の出のレイラインの先は

五社大明神社より北なのです。(地図の字が違ってますね。名→明ですね)

山頂付近で道に交わるところを矢印で指しています。



五社大明神社の地図です


五社大明神社のホームページを調べたら、以下のようです

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
この場所になったのは、明応2年(1493年)再建の棟札があり、

大永8年(1528年) 今の地に遷宮されたと伝えられるも、いずれの地からか不詳である。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・




矢印の地点は、自衛隊の基地の中にあるようで行くことが出来ません。

googleの地図で見てみましたけど、参考になるような画像は無いです。

しかし、これは、青塚古墳からのレイラインです。おろそかには出来ませんね。

この矢印の地点は、尾張戸神社古墳から見ると、ほぼ真北に当たります。

ふと思いついたのですけど、琵琶湖にある白髭神社は、

この付近から見る春分の日の、日の入りのレイラインの可能性があるんでしたのですね。

ならば、矢印から見るレイラインは

こんな感じ

これが正解かもしれませんね。。。

年末に、五社明神社にも、訪問しました。









入り口の鳥居付近から見た「尾張部神社古墳」の方向の画像です。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする