最近おもしろくなってきたと思います。
特に、昨日は、興味がある場面なので、楽しみましたね。
瀬名姫については、以前調べて岡崎の幽閉先も訪れました。
こちらです。
番組のストーリーでは、織田信長は、武田との内通を理由に嫡男・信康の首を差し出すよう要求する
ということになっていますけど、本当の所は、全く分かっていないとのことなのです。
いろいろな説があり、混乱するほどなのですけど、通説である「徳姫が父信長に十二ヶ条の書状を書き、
酒井忠次に託してそれを届けさせる」というのは、考えにくいですね。
もしそうなら、自分独自のルートを使うでしょう。
十二ヶ条の書状などというのは、なかったんじゃないでしょうか?
そして、信長が信康の首を差し出すよう要求するということも無かったのでは?
番組の中では、信長は家康に「好きにするがよい」と言っていたようですけど、
それは、信長公記の古い版に書かれていたとする話もあります。
ドラマでは、信長の脅しのようになっていますけど、そうではないようです。
そもそも、信長と家康はおいらが思うに、かなり信頼が強かったようです。
桶狭間の合戦での、家康の大高城への兵糧入れや、合戦後の撤退の見事さ、
そして、信長のあまりに緻密な行動は、もしかすると桶狭間の合戦よりかなり以前より、
家康から、信長への情報リークがあったと考えるとスッキリするものがいろいろあります。
家康は、桶狭間に行く途中、
知立から、知多半島の阿久比城にいる、母親にひそかに会いに行ってる
のですけど、ひょっとすると、これも織田と通じていたのでその打ち合わせの意味もあったのかも
しれないと、考えたりもします。まあ、何の裏付けもありませんので、単なる推測ですけどもね。
話を、番組のストーリーに戻すと、瀬名が信康の罪を一身に引き受けようとしますけど、
どうなのでしょう?
この事件、調べるほどにいろいろな説が出てくるので混乱します。
岡崎城から蟄居させられた信康の行先は、大浜城、堀江城、二俣城と移動していますけど
これは、その隙に逃がそうとした家康の思いがあったのではないかという説もあります。
信康が自刃したとき、殉死した家臣がいたとされます。
ならば、それなりに徳のある人物だったのではないでしょうか?
ウィキペディアを見ていたら、いろいろな説の中で、「派閥抗争説」というのがあった。
これは、浜松衆と岡崎衆の対立があり、その結果、信康が岡崎衆に担がれ、
「家康追放」未遂事件があったのではないかというもの。
そして、築山殿もそれに関係していたのではないかとされています。
最後に、信康が幽閉先で服部正成に暗殺された疑いがあるとも書かれています。
いろいろ調べて、この説がいちばん説得力があるかなと思うのです。
岡崎の家臣が、信康と瀬名を巻き込み家康を倒そうとしたことを察知した家康が、
先手を打ったということでしょうか。
そのクーデターの情報を、家康がどのようにして手に入れたのか?
もしかすると、徳姫が察知して信長に知らせ、そこから家康の耳に入ったとなると
ストーリーが出来てしまいますね・・・はい、これは単なるおいらの推測です、あしからず。。。