たまにはぼそっと

ふと思いついたことをボソッと書いてみます。

白山神社の目的地 8 大神神社

2023-04-24 05:13:02 | 白山神社
歯定神社に居る時、白人男女の二人連れが歩いてきたので、話をすると、

この場所が何処か分からないようでした。

地図と携帯のナビでいろいろと説明しておきました。

何処から来たのかと尋ねると、フランスとのこと。もう少しいろいろ話をしたかったのですけど

急いでいるようなので、短い時間でしか話が出来ませんでしたけど(避けられていたのかもしれませんが・・・)、大神神社は有名ですよと伝えておきました。


と言うことで、大神神社についても少し書きましょうか。

ホントのことを言うと、ここに行くまではあまり興味がなかったんです。

なぜならば、あまりに崇神天皇の話が出て来るので、てっきりこの大神神社に居たのは

崇神天皇と思っていたのです。

ですから、彦坐王はここから追い出されたのかと思っていました。ですが、大違い。

お恥ずかしい話ですけど、祭神を確かめていませんでした。

本殿に行き、祭神を見て驚き・・・

主祭神は、大物主大神(おおものぬしのおおかみ)

配祀(はいし)神
      大己貴神 (おおなむちのかみ)
      少彦名神 (すくなひこなのかみ)

これから想像すると、

大物主大神=彦坐王
大己貴神=大国主=伊勢津彦=サホヒコ
少彦名神=帝別命=猿田彦=サタヒコ

こうなります。

彦坐王が住んでいた場所であり、サホヒコにとってはおそらくここが生まれ故郷になると思います。

彦坐王は、すでに亡くなっていますので、サホヒコとサタヒコが、この地に彼を祀ったと解釈します。

すると時代は、ホムチワケが出雲に行った294年頃よりも後でしょう。






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白山神社の目的地 7 歯定神社

2023-04-17 10:46:40 | 白山神社

祭神 大己貴神(おおなむちのかみ)・少彦名神(すくなひこなのかみ)

大己貴神は、サホヒコです。 少彦名神はもちろんサタヒコです。


 拝殿前に、注連縄(しめなわ)をまいた歯の形をした石が3個据えられている。
両脇にある石がそうです。

拝殿、

本殿を写すのを忘れました・・・


御旅所坐神社

祭神は、日本大国魂大神、八千戈大神、御年大神

御年大神は、サタヒコの事です。

日本大国魂大神、八千戈大神は、同じ人物でサホヒコのことと思います。

サホヒコもこの地に来たのでしょうか?

もしそうなら、わりと早い時期の訪問になります。

294年に近い年代ならば、サタヒコの母親は若く見積もっても40代後半です。

ということは、亡くなってそれほど時間が経過していないかもしれません。

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白山神社の目的地 6 中山大塚古墳

2023-04-17 08:25:52 | 白山神社
ようやく訪問することが出来ました。






ですけど、やはり道が狭くて車を止める場所がなかなかありません。

なんとか、駐車できる場所を探して徒歩で行きました。


周りを少し歩きます


到着です



「中山大塚古墳」は古墳時代初期の前方後円墳で、墳丘長130m。


いろいろと調べていましたが、このような、pdfがありました。以下よりダウンロードできます

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「大和における前期古墳の竪穴式石室」 奈良教育大学学術リポジトリNEAR
伊達 宗泰 発行年 1994-10-01
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

少し引用させてもらいます。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
最近全国的に資料を網羅して出版された「前方後円墳集成」は、全国的に統一化を図り共通した視点のマニュアルを作成し十期の編年基準を設けている。

そのl期としてあげている条件は「円筒埴輪はまだみられず、都月式すなわち特殊器台形埴輪や特殊壷形埴輪をともなう場合がある。

倣製鏡はなく、中国鏡のみが副葬されるバチ形の前方部をもつ」として、模式的な古墳に箸墓古墳・中山大塚古墳をあげている。

そして桜井茶臼山古墳を二期に、メスリ山古墳を三期に考えている。
これは墳形・埴輪・副葬品の組合せなどを総合して考え、最近急速に進んだ円筒埴輪の研究成果も多く勘案されて設定されている。


さらに中山大塚古墳、箸墓古墳においても特殊器台型の埴輪片出土が報告されている。
箸墓古墳出土のものは都月型に属するものであり、中山大塚古墳のは官山型に属するものと考えられている
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
おいらには、埴輪についての知識が無いので、そのことについては今後の課題にします。

倣製鏡については、おそらく三角縁神獣鏡の事を言っているのだと思われます。

倣製鏡とは、中国の鏡を模倣して作られた鏡のことです。

まあ、三角縁神獣鏡は彦坐王が作らせて、地方で配布したものと解釈していますので、ここから出るわけがないでしょう。

時代については以下のように書かれています
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
中山大塚古墳-箸墓古墳-茶臼山古墳-メスリ山古墳 -天神山古墳
といった順序で、これらの古墳は庄内式期の末葉から布留式古段階の築造と考えたい。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

おいらの考えでは、中山大塚古墳は彦坐王の妻の古墳で、

箸墓古墳は、倭姫(彼らの孫になります)の古墳と思いますので時代は合います。



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白山神社の目的地 5 お母さん(川上摩須郎女)の古墳

2023-04-16 09:07:01 | 白山神社
白山神社の目的地は、まるまる山付近ということでいいのではないでしょうか。

サタヒコ、サホヒコ、彼らを取り巻くレイラインの測量技術者、その他のお供の人々。

彼らが、日本海より白山を越えて長良川を下り、まるまる山付近に潜んで、美濃に居る

サタヒコの母親たちに連絡を取り、弥勒寺跡の塔のある付近で再会を果たした。

その、400年以上後に泰澄がそのルートを再現した。

そのことについて今までいろいろと書いてきました。間違いもあるとは思いますけど

本筋はあっていると思います。

さて、サタヒコの母親である、川上摩須郎女(かわかみますのいらつめ)の墓は、

最初は、美濃にある、方県津神社の古墳と思います。


ですが、その後、御霊(遺骨)は奈良に移動したと考えます。

サタヒコの姉である比婆須比売命(ヒバスヒメ)の住む近くの場所に移動しているようです

サタヒコがおこなった事に違いないでしょう。

中山大塚古墳がそうであろうと思います。


ヒバスヒメは、306年頃に亡くなっているとする説があります。

そうすると、294年頃にホムチワケが出雲に向かっていますので、その間に美濃から奈良に

移動しているのでしょう。









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白山神社の目的地 4  まるまる山

2023-04-06 08:01:39 | 白山神社
山王山から数分で到着します。

頂上です。


どの場所からレイラインを測量したのでしょうか?


矢印が弥勒寺跡の塔のある付近です。


この付近からの測量で、間違いはないでしょう。



岐阜方面です。中央に見えるのが長良川です。


東海北陸自動車道が、真下を通ります。


再び山王山に戻ります。

北の景色は? 白山は見えるのでしょうか?


残念ながら、見えませんでした。雲が無ければ見えるのかな?

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白山神社の目的地 3  山王山とまるまる山に行ってきました

2023-04-02 13:38:09 | 白山神社
まるまる山はこのあたりです


その東に位置するのが、山王山です。google地図の方が分かりやすいですね。


駐車場に案内がありました


早速登りましょう


なんと、かぐや姫が出迎えてくれます




このかぐや姫好きです


おじいさんとおばあさん



残念ながら、ここではありません。かぐや姫は、湧田山一号墳( 京都府京丹後市峰山町丹波2)
付近の生まれ?です

というより、丹波能阿治佐波毘売つまり、猿田彦(サタヒコ)の妻、天鈿女命(アメノウズメ)ですね。子を産んだ時に亡くなってしまいます。そのことを、月に帰ったとする物語にしているように思います。



山頂です



手前の山が、まるまる山です。


重竹神社が見えます。

時間が無いので、この続きはまた今度。。。・









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白山神社の目的地 2

2023-03-23 14:33:45 | 白山神社
もう一度、位置を確認しましょうか

まるまる山山頂からの測量です。



冬至の日の入りのラインです




拡大します


現地に行ってきました。ワクワク~♪

この奥に見えるところでしょうか?

中門跡とありますけど、「弥勒寺」と言う文字の「寺」の文字のあたりと思います。


左にあるのが、金堂の跡


案内板がありますけど、画像が良くなくて見えにくいですね。ゴメンナサイ。


右にあるのが、「塔」の跡地 です。



どうも、この「塔」の跡地をレイラインが通るようです。

もっとも、まるまる山のどこの場所からの測量なのかは、確定していないので推測でしかありません。

ですけど、今までのサタヒコ達のレイラインの測量方法から推測するとほぼ、間違いないと思います。

サタヒコ達は、この場所になにか「ひもろぎ」のようなものを建て、そこにみんなが集まって

久しぶりの再会を楽しんだ。。。そう想像すると嬉しくなります。

この白山越えのルートを使った交流はその後何回も行われたのでしょう。


対岸の、重竹神社近くの長良川の様子です。


川の中に、大きな岩がたくさんあります。川を横断するのにはもってこいですね。

金華山に居ると思われる、垂仁天皇の兵が来た時の逃げ道だったのでしょうか?

まるまる山は、監視する場所で、その北にある重竹神社にサタヒコ、サホヒコ、レイラインの測量をすることが出来る供の人達が潜んでいた。

そこは、山に隠れて金華山側からは、見つからない。

そのような意味があったのかもしれません。

泰澄は、この場所が白山越えのゴールと言うことを知っていたのかもしれませんね。

さらに、この場所から春日井の白山神社、つまりサタヒコの父親の墓のある場所であり

砂鉄の産出する場所に行ったことも知っているはずです。

そして、円空もそのことを知っていたのではないでしょうか?






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白山神社の目的地

2023-03-20 05:47:09 | 白山神社
最初のころは、まるまる山の北側でつまり、重竹神社付近でサタヒコ達と美濃に居る彼の母親たちが

合流したと考えていました。

ところが、まるまる山からの冬至の日の入りが長良川対岸の弥勒寺跡を通るので、さっそく調べに出かけました。

まるまる山からのレイラインです


拡大します


このようになります」
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白山中居神社に行ってきました

2022-07-23 08:15:10 | 白山神社


白鳥から、油阪峠を通って石徹白川を遡るルートを通ったら、

途中道が狭いし、ガードレールも無い所が多く、対向車が来たらどうしようと言う所がありましたね。


ここには何度も来ています。標高は723mと、意外と高いんです。


巨木が素晴らしいのです。樹齢200年から1000年の巨木が、150本があるとのこと。

少し奥に行くと、浄安杉(目通り幹周囲12.1m)があります。今回は雨が降って来たのでパス。



朝日添川


橋を渡り


泰澄が居た場所でしょうか


磐座があります


本殿です




「船岡」と言う地名が出てきますね。この場所も、昔は、そう呼ばれたのでしょうか?

景行12年とあります。その時サタヒコは、50歳ぐらいです。

誰かに命じて建てさせたかもしれませんね。

雨のため、石徹白の大杉(樹齢  伝承1800年)にも行きませんでした。残念。



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白山神社まとめ

2022-06-28 05:40:35 | 白山神社
驚きの連続でした。

一番最初の白山神社が彦坐王を祀っていることは、船岡山と言う名前が、船岡神社から来ていると考えると疑いのないことと思います。

日本海側の海岸の地形が今とだいぶ違うということに驚きでした。

船で移動するには、およそ20kmごとに港があるはずです。その場所の特定が今までできなかったので

越から出雲までの移動が推測出来ていません。

20kmのスケールを書いてみました。

これである程度、港の場所がわかるかもしれません。



サタヒコ達は、日本海側より白山越えをして、美濃の方面に行った可能性は高いです。

彼らの行動力は、すごいです。以前書いた猿田彦その 30 戸隠神社奥社で、それがよくわかります。

彼らにとって、白山越えはたやすいことでしょう。そして、それが出来たとすると彼が若い頃の事と思うのです。

美濃まで行ったかどうかは不明です。

美濃は、垂仁天皇に侵略されているので、母親には会っていないかもしれない。

あれこれ調べていたら、面白いことが書かれているところに出くわしました。

こちら、嘉利マスターが綴る 白山麓・磐座探訪記の、奥美濃・白鳥神社の秘密②と言う所に、「白山中居神社」からのラインがあるとのこと。

早速調べてみました。


一番下の明健神社は時代が後になります。

白山中居神社は、、景行天皇12年の創祀とのこと。316年頃でしょうか。

白鳥神社は、仲哀天皇の時代とのこと。なんだかわけが分からなくなってきた・・・

現在、彦坐王が眠っているのは、春日井にある「白鳥塚古墳」と思います。

その名前の、「白鳥」が、ここから来ていると思うのですけど、決め手が見つかりません。

今後の課題にしておきましょう。

このラインは、レイラインではないのでサタヒコ達の仕事ではないと思いますけど、

その影響を受けた人たちが、ライン上に神社を建てるということを行ったのではないでしょうか。

祭神については、最初は、「彦坐王」で、泰澄の時代には、イザナギで、イザナミも同じ時期に祀られていたかもしれません。

その後、ククリヒメに代わったようです。理由はわからない・・・


泰澄が、白山登拝を決意し、山頂に到達したのが、養老元年(717)。

すでに書きましたけど、春日井市白山町の白山神社の創建は養老2年(718)。

翌年に、急いで春日井に駆け付けたような印象を受けます。

そうすると、白山に行く前にも春日井に来ていたのかもしれませんね。









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東之宮古墳に行ってきました

2022-06-22 06:30:14 | 白山神社

 愛知県犬山市犬山北白山平6

以前と比べて、すごくよく整備されています。

成田山の西側を通ると、駐車場にたどり着きます。


そこから徒歩で、5分ほど



その西側には神社があります




さらに、

犬山城が見えます

古墳に登ります

「冬至」には、東之宮古墳の中心軸から太陽が昇るとのことです。
この画像の真ん中からですね。








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金山彦

2022-06-21 05:50:31 | 白山神社
少し前にふれたので、調べてみました。

するとなんと、神生みの話に出て来るのですね。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

『古事記』では金山毘古神、『日本書紀』では金山彦神と表記する。金山毘売神(かなやまびめのかみ、金山姫神)と対になるともされる。

神産みにおいて、イザナミが火の神カグツチを産んで火傷をし病み苦しんでいるときに、その嘔吐物(たぐり)から化生した神である。『古事記』では金山毘古神・金山毘売神の二神、『日本書紀』の第三の一書では金山彦神のみが化生している。

岐阜県垂井町の南宮大社(金山彦神のみ)、南宮御旅神社(金山姫神のみ)、島根県安来市の金屋子神社、宮城県石巻市金華山の黄金山神社、京都府京都市の御金神社及び幡枝八幡宮末社の針神社を始め、全国の金山神社で祀られている。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

生まれは、丹波のようですね。

祀られている神社は、南宮大社が最初なのでしょうか?

何度も訪問していますけど、ここには書いてないようです・・・


南宮御旅神社は、金山彦が、遊びに行くところなので、たぶん奥さんが祀られているとのこと。
近くですよ。

訪問して、ここに書いていますけど、今読むと、かなり間違ったこと書いてます・・・
リンクはしないでおきましょう。画像だけUPしましょうか。



奥へ進むと

左が、白髭神社  右が、南宮御旅神社です

さらに

レイラインが、喪山を通る。

当時、その意味が分からなかったのですけど、もしかすると、金山姫神の古墳なのでしょうか?




金屋子は二人の間に出来た子とのこと。

神々のふるさと山陰より引用させてもらいます

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
金屋子神は、高天原から播磨国に天下った後、白鷺に乗って出雲国比田村の桂の木に飛来し、発見した安部正重らに製鉄技術を教えた「鉄作りの祖」とされています。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
金屋子神は、美濃ではなく出雲なんですね。





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菊理比売姫(くくりひめのみこと)

2022-06-20 04:53:35 | 白山神社
最初のころ、白山比咩神社と言うのは、泰澄が勝手に作ったものだと思っていました。

まあ、今までのおいらの推理が正しいかどうかも分かりませんけどね。

ちなみに、九頭竜湖の付近には辰砂が出るところがあるそうです。

それと、かなり古い白山神社もあるようです。サタヒコの時代より少し後のようですけど。

さて、本題に入りましょうか。

菊理比売姫(くくりひめのみこと)を調べましょうか

ウィキペディアより引用します
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
日本神話においては、『古事記』や『日本書紀』正伝には登場せず、『日本書紀』の異伝(第十の一書)に一度だけ出てくるのみである

神産みで伊弉冉尊(いざなみ)に逢いに黄泉を訪問した伊奘諾尊(いざなぎ)は、伊弉冉尊の変わり果てた姿を見て逃げ出した。しかし泉津平坂(黄泉比良坂)で追いつかれ、伊弉冉尊と口論になる。
そこに泉守道者が現れ、伊弉冉尊の言葉を取継いで「一緒に帰ることはできない」と言った。
つづいてあらわれた菊理媛神が何かを言うと、伊奘諾尊はそれ(泉守道者と菊理媛神が申し上げた事)を褒め、帰って行った、とある。
菊理媛神が何を言ったかは書かれておらず、また、出自なども書かれていない

菊理媛を白山の祭神としたのは、大江匡房(1041年-1111年)が扶桑明月集の中で書いたのが最初と言われている
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

白山比咩神社の最初の祭神は、彦坐王ではないでしょうか?

その後、泰澄の時代に伊奘諾尊(いざなぎ)伊弉冉尊(いざなみ)になったと考えます。

ここで言う、伊奘諾尊、伊弉冉尊は、山代之大筒木真若王(サタヒコ)と、

丹波能阿治佐波毘売(アメノウズメ)と思います。

二人に出来た子が、迦邇米雷王(かにめいかずちのみこ) この名前は、「カグツチ」から来ているのではないかな?  逆かもしれない。

個人的には、イザナギ、イザナミは、もっと古い人物と思います。

その名前を、古事記でも使ったのでは無いかと思っています

イザヤと関係があるかもしれないと思っているのですけど・・・

まあ、詳しいことはわからないので、これ以上話を進めることはやめておきます。

サタヒコと、アジサハヒメが暮らしていた場所は、比沼麻奈為神社です。

その場所に、倭姫も暮らしていました。

しかし、アジサハヒメは出産と同時に亡くなってしまいます。

日本神話の神産みは、この時のことを物語っていると思います。

その時に、サタヒコに何か助言できるような、巫女のような人物は誰?

倭姫しかいないでしょう。

泰澄は、倭姫の非常に強い霊力にあこがれたのかもしれませんね。

そして、サタヒコ達が越えたであろう白山に行ったと考えます。



現在の伊勢神宮がこれだけ人々の想いを集められるのも「倭姫」の霊力なのかもしれません。。。





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五社大明神社

2022-06-19 05:16:03 | 白山神社
春日井の白山神社については、神社が出来る以前には、別の何かがあったように思います。

一番可能性が高いのは、五社大明神社の前身です。


祭神を見てみましょうか。

大碓尊(おうすのみこと)素盞嗚尊(すさのおのみこと)菊理比売姫(くくりひめのみこと)
 日本武尊(やまとたけるのみこと)天目一命(あめのまひとつのみこと)



大碓尊とは、大歳神(オオトシノカミ)の事ではないだろうか?両方ともサタヒコの事ですけど。

菊理比売姫については、後に調べます。

日本武尊は、架空の人物と思いますけど、あえて言うなら、景行天皇では?

注目するのは、天目一命です。

前に、天叢雲剣を作り,ここまで運んだ人物が、春日井の白山神社での儀式に参列しているのではないか

と書いています.

その製鉄に関する人物が天目一命(天目一箇神)です。

「天之御影神」=「天目一箇神」=「日本 得 魂 命」ではないかと思います。

しかし、年齢を考えると彼はすでに他界しているのでは?

調べてみましょうか。

春日井の高蔵神社に行く途中の祠  その10 天目一箇神は誰を見て頂くとわかりますが、彼は、サタヒコの母親の兄弟です。

サタヒコの母親が、彦坐王の妻となったのは、261年頃です。その時16歳とすると、

サタヒコが伊勢に行くのは、302年頃と思いますので、その時にはすでに57歳になっています。

仮に、天目一箇神がサタヒコの母親より10歳若かったとしても、伊勢までの旅はしなかったでしょう。

とすると、天叢雲剣を作り,ここまで運んだ人物と言うのは、天目一箇神の弟子つまり、

製鉄の技術者ではないだろうか?

彼らは、鏡を伊勢に運んだあとは、 滋賀県野洲市三上にある御上神社に落ち着いたと思われます。

ですから、御上神社の祭神は天之御影神=天目一箇神 (日本 得 魂 命)になっています。

このように考えると、すべてがピタリとくるように思います。

春日井の白山神社を、倭姫が彦坐王の御霊を天叢雲剣に移す儀式を行った場所とすると

天叢雲剣は何処にあったのか?

この場所が、五社大明神社の前身ならば、ここに置いてあったとするのが適当でしょう。


さらに、熱田神宮が出来ると、天叢雲剣は、そちらに移動します。

そういえば、 天叢雲剣は、熱田神宮にある本体と、皇居にある形代の2つがあるんでしたね。

丹波から2つ作って持ってきたのかもしれません。

一つは、熱田神宮に、もう一つは鏡と一緒に伊勢に行き、倭姫が祀っていた。

伊勢に持って行ったものが、今、皇居にある天叢雲剣ではないでしょうか。

磐座のある、高蔵神社が、熱田神宮の奥の院と言われるのも以上のような関係からかもしれません。
この場所です。





それと、「金山彦」の名前が出てこないのは、「天目一箇神」の子が「金山彦」ではない可能性があると思うのです。考えすぎかな?

金山彦は、もう少し後の人物かもしれません。

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白山比咩神社の場所

2022-06-16 05:03:25 | 白山神社
船岡山の頂上です


海面を見て見ましょう。分かりやすいように7m海面を上げてみます。

青い点が、白山比咩神社です

驚きましたね。

まるで堤防が出来ているみたいです。湾の中は穏やかな場所でしょう。

港を造るには良い所と思います。

白山の頂上に上るには、手取川を遡れば行けるようです。

泰澄はどのルートを通ったのかは分かりませんけど、南に降りて行けば長良川に出ます。

サタヒコはもしかすると、白山越えをして美濃や尾張に行くつもりだったのでしょうか?

彼らの行動は想像を超えますからね。

地図を見ていて気が付いたのですけど、白山頂上付近から石徹白川を下り、九頭竜湖に出ます。


あれ?九頭竜湖の水は何処に流れ出しているのだろう?

それは置いといて、東に向かい、油阪峠を越えると長良川(水色の線)に出ます。 岐阜県郡上市白鳥町です。

気が付きました?

白山比咩神社→白山→石徹白川→白鳥町   「白」が付きます。



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