◆06269 小野照崎神社祭
□社名 小野照崎神社
□所在地 東京都台東区下谷二丁目
□祭神
オノタカムラ 小野篂
スガワラミチザネ 菅原道眞
□祭は五月下旬(三年に一度本祭)。
□山車
山車の形態(呼称)は人形山車。
・元入谷町
本坐人形は小野篂(おのたかむら)。この山車は囃子方がのらず、雌雄の獅子頭が飾られる。
『武江年表巻之五』に「宝暦七年(一七五七)八月一五 下谷坂本小野照崎明神祭礼 出し練物等出す 其の後中絶す」とある。
□汎論
小野照崎神社の創祀は仁寿二年(八五二)年と伝わる古社。当初は上野照崎に鎮座したが寛永年間(一六二四ー一六四三)に、上野に寛永寺が建立されることとなり、幕府の命で現地に遷座された。小野篂の生涯は、延暦二一年(八〇二)ー 仁寿二年(八五三)十二月二二日と伝わる。つまり当初上野に小野照崎神社が創祀されたのは死去の年である。按ずるに、このように山城國(京都)にあった小野篂の死去の年を創祀時とする小野照崎神社はおそらく小野氏の一族であったと思考されるが不明である。
小野篂が東國上野の国司の任を終え、京都にもどるとき上野の高台から突き出た岬状の忍岡(上野照崎)の景色を賞でたと伝わり、このことから上野照崎に神社が創建されることになったと伝わる。当時は上野の裾まで海が入り込んでいたといわれ、現在の忍岡中学付近だという。三蹟と讃えられる小野道風は孫にあたる。社号の中に【照崎】の名称を含めていることも「こだわり」が感じられる。
『延喜式神名帳』に記載がないのも何か不思議である。
『百人一首』の十一番に、
わたの原 八十島かけて 漕ぎ出でぬと
人には告げよ 海人の釣舟
はよく知られる。
小野篂は、閻魔大王の祐筆をつとめ、夜には井戸を通って閻魔庁に出向いたと言う伝説がある。【紫式部】が源氏物語という、淫らな狂言綺語の物語を書いたことからその咎めを受けようとしたとき、小野篂が横からとりなしたと言う話しが伝わる。小野篁と紫式部の墓と伝わる【比翼塚】が、京都市北区紫野西御所田町、堀川北大路交差点南にあるが、なんだか艶めかしいものを覚える。
□社名 小野照崎神社
□所在地 東京都台東区下谷二丁目
□祭神
オノタカムラ 小野篂
スガワラミチザネ 菅原道眞
□祭は五月下旬(三年に一度本祭)。
□山車
山車の形態(呼称)は人形山車。
・元入谷町
本坐人形は小野篂(おのたかむら)。この山車は囃子方がのらず、雌雄の獅子頭が飾られる。
『武江年表巻之五』に「宝暦七年(一七五七)八月一五 下谷坂本小野照崎明神祭礼 出し練物等出す 其の後中絶す」とある。
□汎論
小野照崎神社の創祀は仁寿二年(八五二)年と伝わる古社。当初は上野照崎に鎮座したが寛永年間(一六二四ー一六四三)に、上野に寛永寺が建立されることとなり、幕府の命で現地に遷座された。小野篂の生涯は、延暦二一年(八〇二)ー 仁寿二年(八五三)十二月二二日と伝わる。つまり当初上野に小野照崎神社が創祀されたのは死去の年である。按ずるに、このように山城國(京都)にあった小野篂の死去の年を創祀時とする小野照崎神社はおそらく小野氏の一族であったと思考されるが不明である。
小野篂が東國上野の国司の任を終え、京都にもどるとき上野の高台から突き出た岬状の忍岡(上野照崎)の景色を賞でたと伝わり、このことから上野照崎に神社が創建されることになったと伝わる。当時は上野の裾まで海が入り込んでいたといわれ、現在の忍岡中学付近だという。三蹟と讃えられる小野道風は孫にあたる。社号の中に【照崎】の名称を含めていることも「こだわり」が感じられる。
『延喜式神名帳』に記載がないのも何か不思議である。
『百人一首』の十一番に、
わたの原 八十島かけて 漕ぎ出でぬと
人には告げよ 海人の釣舟
はよく知られる。
小野篂は、閻魔大王の祐筆をつとめ、夜には井戸を通って閻魔庁に出向いたと言う伝説がある。【紫式部】が源氏物語という、淫らな狂言綺語の物語を書いたことからその咎めを受けようとしたとき、小野篂が横からとりなしたと言う話しが伝わる。小野篁と紫式部の墓と伝わる【比翼塚】が、京都市北区紫野西御所田町、堀川北大路交差点南にあるが、なんだか艶めかしいものを覚える。