暘州通信

日本の山車

江戸の札差と小野朝右衛門

2012年03月01日 | 日本の山車
江戸の札差と小野朝右衛門

みち藤 様

 当ブログにご訪問、ならびにコメントありがとうございます。

 すでに申し上げましたように、私は大和屋吉右衛門につきましてはまったく知識が無いのですが、ちょっと別のお話になりますが、まったく関連が無いというわけではないので、少しお話しておきましょう。
 じつは、江戸幕府の御用米は四〇〇万石くらい、このころの加賀藩の実碌は一〇〇万石を軽く越えていたようですから、日本全国を統治する幕府の統治力、経済力は、加賀一国を支配する加賀藩にはるかに見劣りしていました。しかも幕府の疲弊ぶりは世に伝わるとおりだと思います。江戸時代の中期から後半期にかけては、石高ではなく、実質的に貨幣をどこまで融通できるか、その経済力にかかっていたといえます。
 幕府の経済はいきおい金融にかかってくるわけですが、このころに台頭した札差は本来の扶持米受給の代理業から、旗本、御家人はては大名にまで資金を融通する金融業者として財力を蓄えていたのはご存知だと思います。
 そのころ大阪の堂島では米相場が立ち、決定した対価で江戸の蔵前に米に代わる代金が納入されました。この米相場を業とする業者の多くは、天満(てんま)に屋敷を構えていました。意外と思われるでしょうが、その中でも隠然たる実力を握っていたのが飛騨高山の旦那衆でした。
 もうおわかりでしょうが、高山の絢爛たる屋臺はその財力が惜しげもなく投入されたのです。
 高山の屋臺は農民搾取の権化のように説く方がいますが、農民を搾取したくらいのお金では飛騨高山の屋臺は建造できません。まったく誤りです。
 さらに、徳川幕府の経済を陰で掌握していたのが前に述べた、飛騨高山の旦那衆たちなのです。幕府の要人たちはそのことをよく知っていました。蔵前の札差の取締方に【小野朝右衛門(おのちょうえもん)】という方がありました。幕末期には札差業を営む株保有者の監督をしていたようですが、小野氏は、在任中に妻女を亡くされるご不幸に逢われましたが、不思議なご縁で常陸國の鹿島神宮の息女である磯(いそ)を後妻に迎え、天領の郡代(代官)として、新妻を伴い飛騨高山に赴任しました。この磯女は剣豪で名高い塚原卜傳の血筋です。そして生まれた一子が、のちに江戸城を無血で開城する大任を果すことになった【山岡鐡舟】です。
 小野朝右衛門と磯女は飛騨高山で生涯を終え、市内の宗猷寺(そうゆうじ)に葬られています。
 鐡舟が小野姓の名乗らないのは山岡家と養子縁組をしたからです。高橋泥舟は鐡舟の妻の兄、つまり義兄に当たります。勝海舟の三人を合わせて【江戸時代の三舟】といわれますね。
 鐡舟の許にはいろんな人が出入りしていますが、新撰組が組織される建議をした、庄内(山形県)の清河八郎とは昵懇でしたし、藤本鉄石にはおおきな感化を受けています。変わったところでは、三遊亭圓朝がお気に入りでした。
 横にそれましたが、江戸の山車が優美で華やかであった陰には、札差、柳橋、吉原、深川が大きく関わっています。ぜひ、青梅の江戸山車の考証をお進めいただきたいものです。

◆03748 宗吾御逮夜祭

2012年03月01日 | 日本の山車
◆03748 宗吾御逮夜祭
□名称 鳴鐘山東勝寺宗吾霊堂
□所在地 千葉県成田市宗吾
□祭神
サクラソウゴ 佐倉宗吾
□祭は九月上旬。
□山車
屋臺
・宗吾地区
□汎論
 宗吾御逮夜祭は、藩の過酷な課税を死をも省みず、わが身をなげうって危難を救ったサクラソウゴロウ(佐倉宗五郎)に感謝し威徳を偲び、その霊を慰める祭である。【御逮夜(おたいや)】とは死去当日の前夜のことをいう。

◆00080 成田祇園会

2012年03月01日 | 日本の山車
◆00080 成田祇園会
□寺名 成田山新勝寺
□所在地 千葉県成田市成田
□祭神
□祭は七月上旬。
□山車
山車、屋臺。
・幸町
本座人形は朱雀天皇。平成七年の作、松崎昭玉、福田東久。
二層式屋臺。
昭和四八年の建造。工匠は成田市宗吾の森工務店。
三代目に当たる。
・花崎町
本座人形は八幡太郎源義家。
人形師は三代目、面六。
江戸型山車。昭和五一年の建造。工匠は成田市おなじ花崎町の池田正一。
・田町
本座人形は素盞鳴命。
平成一〇年の作、人形師は福田東久。
二層式屋臺。昭和五三年の建造。
三代目。
先代は江戸型山車だったが、神崎町明神会に譲渡された。
明神会は田町の囃子方を担当している。
・本町
本座人形は藤原秀郷。大正四年の作。
江戸型山車。明治三五年の建造。工匠は三代目村田政親が請負い。東京神田紺谷町の川口氏が建造したと伝わる。
・仲町
本座人形は神武天皇。人形師は初代山本福松。
江戸型山車。
明治三三年の建造。工匠は三代目村田政親。
・土屋
本座人形は鎮西八郎源為朝。
平成一三年の作、人形師は関口敬二。
二層式屋臺。昭和四九年の建造。工匠は成田市宗吾の森工務店。
・囲護台三和会_(囲護台、馬橋、新町)
本座人形は、嵯峨天皇。
人形師は福田東久。
二層式屋臺。昭和六一年の建造。工匠は成田市宗吾の森清。
・成田山交道会
本座人形は日本武尊。
人形師は川本喜八郎(辻村ジュサブロー)。
江戸型山車。
昭和六三年の建造。工匠は五代目宮惣、村田政親政親。
彫刻は富山県井波町の吉田信久。
先代は大正四年の建造。現在は成田観光館に展示されている。
・上町
単層屋臺。江戸時代後期に千葉県内の長洲町が建造した屋臺。工匠は千葉市院内町の宮大工と伝わる。
昭和三〇年代に回収され少し小型になった。
平成一四年に彫刻が付加された。
・東町
単層屋臺。昭和五三年の建造。工匠は花崎町の山車と同じ池田正一、池田政夫。
創建は昭和一〇年と伝わり、寺台に譲渡された。
(順不同)
□汎論
□外部リンク
「日本の山車」を執筆している一人閑(ひとりしずか)と申します。早速ですが、貴方のブログ記事を「外部リンク」として紹介させていただきましたのでお知らせします。もしご迷惑でしたらお申し出ください。削除いたします。
◇日本の山車 ブログ
http://blogs.yahoo.co.jp/ypjcd447/
◇日本の山車 ホームページ
http://hiyou.easy-magic.com/
  
◇八王子の山車
2010/8/13(金) 午後 9:22
八王子日吉町の山車 大正6年、八王子の山車としては最初の四つ棟造り堂宮形式として建造、工匠小沢美之吉、 彫刻佐藤光重による正面唐破風鬼板の彫刻。雄雌の孔雀です
 http://blogs.yahoo.co.jp/daikumorikami/61361718.html

◆36678 義民佐倉宗五郎

2012年03月01日 | 日本の山車
◆36678 義民佐倉宗五郎

 一口に徳川三〇〇年といわれ、武家支配の封建社会、鎖国と言う閉鎖的な社会構造にまもられた歴史は、振り返ると当時が平穏かつ平和だったように思えるが、天候不順による凶作と大恐慌、地震による大破壊、それに火事がともない、ひとびとは想像以上に悲惨な暮らしを余儀なくされていた。
 苦しい生活から何とか活路を開いて生き延びようとするひとびとは一揆、打ち毀しと言う手段を持って体制に叛旗を翻し、各地には苦しい暮らしの中から立ち上がった義民のはなしが伝わるが、なかでも義民佐倉宗五郎はその最もよく知られた義民の一人である。
 佐倉宗五郎のはなしは、戦後昭和二〇年代になっても、各地の神社の祭には境内に小屋がかけられ、村の若者たちによって、何日も通し狂言で上演されたものである。
 ときに秋雨の降る寒い夜を徹して、雨漏りのする舞臺の上で、俄か役者は上演し、観客も震えながら観たものだった。だから民衆には史実を越えた知識があった。現在に伝わる佐倉宗五郎のはなしはいくつも異説がある。
 おおまかな筋は、佐倉宗五郎は下総國印旛郡公津村(現、千葉県成田市台方)の佐倉城藩主の領内に慶長一〇年(一六〇五)に名主の家に生まれたとされるが異説がある。姓は木内氏、宗五、惣五、また宗吾ともあるがこれは諡号だと伝わる。当時、藩の年貢の取り立てが年々厳しくなり、さらに租税も高くなるに及んで滞納が多く出たが、このような苛斂誅求の状況に、庶民の暮らしは一層苛酷なものとなった。この状況を見かねて村々の代表者は懇談を重ねうえで、最終判断として、藩や大老の酒井雅楽頭に駕籠訴を行った。酒井雅楽頭はこれを聞き入れ堀田上野介をよんで説諭したが、堀田は聞き入れなかった。一方宗五郎は酒井家に留め置かれたが、酒井は宗五郎の身柄を上野寛永寺の圓珠院に預けた。
 もうこうなっては死は一定で、すでに一死を免れることは出来ないことを知っている圓珠院は、情けで極秘に駕籠屋の井筒屋五郎兵衛をよんで宗五郎と妻子の最後の別れをさせるため宗五郎を佐倉へ帰す。安食宿の旅籠屋、島屋源兵衛方では役人の詮議を危うく逃れると、宗五郎は松崎の土手を急ぐが、沼畔に到るも舟が無かった。お達しが出ていていずれの舟も艫が縄できつくもやってあったのである。しかし、ここに渡守の甚兵衛というものがいて、一目見て惣五郎だと知ると義侠心で鉈をもちだして舟の艫綱を切る。この甚兵衛も大法を犯した廉で、のちに死罪になったのだった。
 だいたいここまでが前半最大の山場で、観客は涙ながらに見終わるとまた翌日を楽しみにしたのだった。
 
 甚兵衛の義侠心により宗五郎は、自宅に戻ることができ、妻子と別れを告げる。宗五郎は江戸の圓珠院に戻るが、承応二年(一六五三)圓珠院はひそかに宗五郎を呼んで、四代将軍、徳川家綱が上野寛永寺に参詣することを告げ、勇躍した宗五郎は将軍に直訴したのだった。
 かくて惣五郎の願いは聞き届けられることとなった。しかし宗五郎夫妻は磔となり、長男も死罪となったのだった。異説がある。
 このあと堀田氏にはさまざまな不運が重なった挙句、堀田氏は改易となったのだった。ひとびとは宗五郎のたたりだと噂しあったという。
 成田山新勝寺には【宗吾霊堂】があって、義民佐倉宗五郎の徳を讃え、祭には山車が曳かれる。

◆00164 佐倉合同秋祭

2012年03月01日 | 日本の山車
◆00164 佐倉合同秋祭
□社名 
麻賀多神社
 千葉県佐倉市内鏑木町
八幡神社
 千葉県佐倉市弥靱町
神明神社
 千葉県佐倉市本町
愛宕神社
 千葉県佐倉市田町
□所在地 
千葉県佐倉市
□祭神
□祭は一〇月中旬。
□山車
□汎論
 佐倉市の祭は一〇月中旬に合同祭として齋行される。中心になるのは麻賀多神社で、山車と屋臺(御神酒所)が曳かれる。屋臺を【御神酒所】とよぶ。山車の歴史は江戸時代中期から末期にかけて建造されていて、古い歴史がある。
 仲町の山車は、江戸日本橋室町一丁目が文政九年(一八二六)に建造した山車で、明治一二年に譲り受けたと伝わり、本座には三國志の關羽(関羽)がのる。
 横町の山車も文政年間の建造と伝わり、本座人形は石橋(しゃっきょう)がのる。仲町とおなじ明治一二年に譲り受けたと伝わる。
 上町の山車は、明治一三年に日本橋の某所より譲り受けたと伝わる
。天保一二年(一八四一)の記銘がある。本座人形はヤマトタケルノミコト(日本武尊)。
 二番町の山車は文化八年(一八一一)の建造で、勾欄羽目板に墨書きがある。明治一二年に江戸日本橋が曳いていた山車を譲り受け御神酒所(屋臺)に改造された。本座人形は玉ノ井がのる。
 肴町の山車も明治十二年に江戸末期に江戸日本橋の魚河岸が曳いていたものを譲り受けたと伝わるが、異説があり、江戸牛込の肴町(現新宿区神楽坂五丁目)だとも言われる。山車から御神酒所に改修されている。人形は、江州(滋賀県)竹生島の龍神がのる。飛騨高山の上二ノ町にも、江戸の山車の影響を受けた竹生島の龍神がのるが、人形は龍神ではなく、下一ノ町の大八臺に改修前に載っていた【猩々】である。
 【佐倉新町おはやし館】は、佐倉市の祭の様子などが映像で紹介あされていて、地元の集会所としても利用されているが、ここにも江戸の祭で曳かれた大幕が保存されている。
 佐倉市の山車は、江戸の色彩を濃く残している。維新により江戸幕府が明治政府へと改まったときには、廃仏毀釈により、神社と寺院が分離されこのとき多くの文化遺産が失われたが、江戸の町で曳かれ、千代田城まで曳きいれて将軍の上覧に供した【天下祭】は、絢爛たる江戸文化の華ともいえる【山車】が曳かれたが、明治政府はこれを潔しとせず、江戸の町から次々と山車が姿を消していった。
 東京の周辺にはこの譲り渡された山車のいくつかが現在も曳かれている。仮に東京に残っていて曳かれ続けていたとしても、大正時代の大震災、次いでおきた東京大空襲と、天災、人災により失われてやはり現在に残ることはなかったであろう。
 佐倉の山車を見せていただいていると、山車に伝わる宿命といおうかその歴史、運命には複雑な思いが去来する。いつまでも健在な姿を保って欲しいものである。
 各神社ごとの記述はいずれ稿をあらためる。
□外部リンク
「日本の山車」を執筆している一人閑(ひとりしずか)と申します。早速ですが、貴方のブログ記事を「外部リンク」として紹介させていただきましたのでお知らせします。もしご迷惑でしたらお申し出ください。削除いたします。
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◇肥前白石・八坂神社の山車 思い出の夏まつり
2011/7/13(水) 午後 7:45
... 7/13は商店街を練り歩く八坂神社の山車が有名で、なんども乗った想い出がある。 きょう、その13日がやってきた・・・ ふるさとの思い出が満載の八坂神社の山車が練り歩く・・・なつかしい ... 歴史上の人物を選んで夫婦の人形を飾っており、 今回は司法制度 ...
 http://blogs.yahoo.co.jp/akito1104/51925188.html

◇鵠沼皇大神宮人形山車
2010/8/17(火) 午後 6:56
人形山車という面白そうな祭があったので見に行きました。山車は全部で9基、山車の上には歴史上の人物の大きな人形が立っていました。 山車が行列をして神社へ向かいます 神社の入り口に両側に分かれて集合 山車の上では神楽が奉納されます お囃子 ...
 http://blogs.yahoo.co.jp/lassiejp55/31839991.html

◇平成21年赤坂氷川神社例大祭 源氏人形山車巡行
2009/9/28(月) 午前 1:33
平成21年赤坂氷川神社例大祭 源氏人形山車巡行 平成21年9月19日 赤坂氷川神社 三年に一度の本祭 19日土曜は伝馬町会「頼義」 一ツ木町会「頼朝」の山車が東京赤坂周辺を巡行した。東京のど真 ん中の祭なので画像を見れば分かるように ...
 http://blogs.yahoo.co.jp/ma1_a/51011375.html

◇人形山車とお囃子の競演のお祭り
2008/8/18(月) 午後 2:48
... 鳥居を潜って人形山車が神社の広場に入場してきます。しかし、ブルーのシートを掛けられた山車には少し興が薄れます。  見物客にとっては、祇園祭のように雨対策を施した工夫が望まれるところです。  山車は入場すると一端所定の場所で待機します。 ...
 http://blogs.yahoo.co.jp/weblogrom_an/23918913.html