江戸の札差と小野朝右衛門
みち藤 様
当ブログにご訪問、ならびにコメントありがとうございます。
すでに申し上げましたように、私は大和屋吉右衛門につきましてはまったく知識が無いのですが、ちょっと別のお話になりますが、まったく関連が無いというわけではないので、少しお話しておきましょう。
じつは、江戸幕府の御用米は四〇〇万石くらい、このころの加賀藩の実碌は一〇〇万石を軽く越えていたようですから、日本全国を統治する幕府の統治力、経済力は、加賀一国を支配する加賀藩にはるかに見劣りしていました。しかも幕府の疲弊ぶりは世に伝わるとおりだと思います。江戸時代の中期から後半期にかけては、石高ではなく、実質的に貨幣をどこまで融通できるか、その経済力にかかっていたといえます。
幕府の経済はいきおい金融にかかってくるわけですが、このころに台頭した札差は本来の扶持米受給の代理業から、旗本、御家人はては大名にまで資金を融通する金融業者として財力を蓄えていたのはご存知だと思います。
そのころ大阪の堂島では米相場が立ち、決定した対価で江戸の蔵前に米に代わる代金が納入されました。この米相場を業とする業者の多くは、天満(てんま)に屋敷を構えていました。意外と思われるでしょうが、その中でも隠然たる実力を握っていたのが飛騨高山の旦那衆でした。
もうおわかりでしょうが、高山の絢爛たる屋臺はその財力が惜しげもなく投入されたのです。
高山の屋臺は農民搾取の権化のように説く方がいますが、農民を搾取したくらいのお金では飛騨高山の屋臺は建造できません。まったく誤りです。
さらに、徳川幕府の経済を陰で掌握していたのが前に述べた、飛騨高山の旦那衆たちなのです。幕府の要人たちはそのことをよく知っていました。蔵前の札差の取締方に【小野朝右衛門(おのちょうえもん)】という方がありました。幕末期には札差業を営む株保有者の監督をしていたようですが、小野氏は、在任中に妻女を亡くされるご不幸に逢われましたが、不思議なご縁で常陸國の鹿島神宮の息女である磯(いそ)を後妻に迎え、天領の郡代(代官)として、新妻を伴い飛騨高山に赴任しました。この磯女は剣豪で名高い塚原卜傳の血筋です。そして生まれた一子が、のちに江戸城を無血で開城する大任を果すことになった【山岡鐡舟】です。
小野朝右衛門と磯女は飛騨高山で生涯を終え、市内の宗猷寺(そうゆうじ)に葬られています。
鐡舟が小野姓の名乗らないのは山岡家と養子縁組をしたからです。高橋泥舟は鐡舟の妻の兄、つまり義兄に当たります。勝海舟の三人を合わせて【江戸時代の三舟】といわれますね。
鐡舟の許にはいろんな人が出入りしていますが、新撰組が組織される建議をした、庄内(山形県)の清河八郎とは昵懇でしたし、藤本鉄石にはおおきな感化を受けています。変わったところでは、三遊亭圓朝がお気に入りでした。
横にそれましたが、江戸の山車が優美で華やかであった陰には、札差、柳橋、吉原、深川が大きく関わっています。ぜひ、青梅の江戸山車の考証をお進めいただきたいものです。
みち藤 様
当ブログにご訪問、ならびにコメントありがとうございます。
すでに申し上げましたように、私は大和屋吉右衛門につきましてはまったく知識が無いのですが、ちょっと別のお話になりますが、まったく関連が無いというわけではないので、少しお話しておきましょう。
じつは、江戸幕府の御用米は四〇〇万石くらい、このころの加賀藩の実碌は一〇〇万石を軽く越えていたようですから、日本全国を統治する幕府の統治力、経済力は、加賀一国を支配する加賀藩にはるかに見劣りしていました。しかも幕府の疲弊ぶりは世に伝わるとおりだと思います。江戸時代の中期から後半期にかけては、石高ではなく、実質的に貨幣をどこまで融通できるか、その経済力にかかっていたといえます。
幕府の経済はいきおい金融にかかってくるわけですが、このころに台頭した札差は本来の扶持米受給の代理業から、旗本、御家人はては大名にまで資金を融通する金融業者として財力を蓄えていたのはご存知だと思います。
そのころ大阪の堂島では米相場が立ち、決定した対価で江戸の蔵前に米に代わる代金が納入されました。この米相場を業とする業者の多くは、天満(てんま)に屋敷を構えていました。意外と思われるでしょうが、その中でも隠然たる実力を握っていたのが飛騨高山の旦那衆でした。
もうおわかりでしょうが、高山の絢爛たる屋臺はその財力が惜しげもなく投入されたのです。
高山の屋臺は農民搾取の権化のように説く方がいますが、農民を搾取したくらいのお金では飛騨高山の屋臺は建造できません。まったく誤りです。
さらに、徳川幕府の経済を陰で掌握していたのが前に述べた、飛騨高山の旦那衆たちなのです。幕府の要人たちはそのことをよく知っていました。蔵前の札差の取締方に【小野朝右衛門(おのちょうえもん)】という方がありました。幕末期には札差業を営む株保有者の監督をしていたようですが、小野氏は、在任中に妻女を亡くされるご不幸に逢われましたが、不思議なご縁で常陸國の鹿島神宮の息女である磯(いそ)を後妻に迎え、天領の郡代(代官)として、新妻を伴い飛騨高山に赴任しました。この磯女は剣豪で名高い塚原卜傳の血筋です。そして生まれた一子が、のちに江戸城を無血で開城する大任を果すことになった【山岡鐡舟】です。
小野朝右衛門と磯女は飛騨高山で生涯を終え、市内の宗猷寺(そうゆうじ)に葬られています。
鐡舟が小野姓の名乗らないのは山岡家と養子縁組をしたからです。高橋泥舟は鐡舟の妻の兄、つまり義兄に当たります。勝海舟の三人を合わせて【江戸時代の三舟】といわれますね。
鐡舟の許にはいろんな人が出入りしていますが、新撰組が組織される建議をした、庄内(山形県)の清河八郎とは昵懇でしたし、藤本鉄石にはおおきな感化を受けています。変わったところでは、三遊亭圓朝がお気に入りでした。
横にそれましたが、江戸の山車が優美で華やかであった陰には、札差、柳橋、吉原、深川が大きく関わっています。ぜひ、青梅の江戸山車の考証をお進めいただきたいものです。