備忘録として

タイトルのまま

ボタニックガーデン

2016-11-10 23:34:56 | 東南アジア

先週末、ボロブドールに続きボタニックガーデンを訪れ世界遺産のはしごをした。昨年2015年に登録されたシンガポール初の世界文化遺産である。土曜日にもかかわらず小雨だった所為か入場者は少なく、のんびりと快適に園内を探索できた。入園は無料で、遺産登録で保護される貴重なHeritage Tree1本1本、熱帯特有の樹々と草花、それと疑似熱帯雨林に触れることができる。種類が豊富だとされるオーキッド園は別区画になっていて有料である。下は園内の様子と野外コンサートホール。

オーキッドとブランコをする少女像のある池

15m以上の蛇のように伸びた根を持つ木と園内のカフェーで食べたチキンサテーとBacon Cheese BurgerとFried Potate。

Heritage Tree(カポックまたはシルクコットンという名の遺産樹)、オーキッド園前の時計台とマダツボミ

園内博物館の掲示板(下)にボタニックガーデンに貢献した人々が紹介されていた。掲示板中央の1929~1945 E.J.H. Cornerは、ケンブリッジ大学出身の植物学者で、日本占領時(1942年2月)の副園長である。ボタニックガーデンでネットサーフィンしているうちに、彼が日本統治時代のことを回想した本を出していることを知った。

本のタイトルは『The Marquis—A Tale of Syonan-to』(侯爵ー昭南島の物語)で、石井美樹子の『思い出の昭南博物館-占領下シンガポールと徳川侯』(中公文庫)という日本語訳がある。シンガポール日本人会図書館で見つけた訳本を借りだして読んだ。訳者の石井は本に出てくる日本人科学者に直接会うなどし、Cornerによる原本の執筆に深く関わっていた。

コーナーは、1942年2月のシンガポール陥落後すぐに東北大学地質学教授と名乗る高橋舘秀三と出会う。実は高橋舘教授の自己紹介の半分はウソで、彼は教授ではなく講師にすぎなかった。「じつにダイナミックな人間であった。ときには圧倒的でさえあった。公の場での駆け引きがうまく、私的には歯に衣を着せずにものを言い、ときには慈愛深く、ときには冷酷で、詩人であると同時に実際的な人間であった。」とコーナーがいう田中館教授は、”大学の同窓”の山下奉文将軍と交渉し、植物園と博物館の管理を任される。山下は陸軍大学校出身なので大学の同窓というのもうそ。上の掲示板に名前のある著者のコーナー、ホルタム(Eric Holttum), ミスター・カン(Kwan Koriba)に、上の写真の右端に立つ水産局長バート(William Birtwhistle)を加えた4人は、掠奪から植物園と博物館を守ることと研究を続けるために田中館教授のもとで働くことになる。1942年当時、広さ32ha、100年近くの歴史を持つ植物園内は、熱帯から亜熱帯にかけて3000種もの樹木で埋まっていた。彼らの主な仕事は、マレー半島全域の植物を採取し、分類、研究することであった。世界中から種々の植物を移植し、有用な植物は園内の試験場で品種改良を行うことも重要な仕事であった。植物園は単なる散歩道や遊園地などではなく、シンガポールの産業の主要な拠点となっていた。世界一の植物園として、世界の植物学者で知らないものはなかった。「高橋舘教授がいなければシンガポールの博物館と植物園と図書館はあとかたもなく滅び去っていただろう。」とコーナーは回想する。教授は早い段階から日本は戦争に敗れると思っていたという。教授は昭和18年7月に帰国し、代わりに侯爵の徳川義親が総長に、博物館長に羽根田弥太博士、植物園長に郡場教授が就任し、高橋舘教授の仕事を引き継いだ。「私たちは田中館教授の意志を受け継ぎ、希望の灯をたかだかと掲げ続けたのである。」 コーナーは田中館が教授ではなかったことを知りながら、本ではずっと彼を教授という尊称で呼んでいるので、田中館の人柄に心酔していたことがわかる。

コーナーは博物館の仕事を続ける中、日本軍による非人道的な蛮行を見聞する。フォートカニングの丘のふもとに今もあるYMCAに置かれた憲兵隊司令部では華僑を捉えては拷問を行っていた。集められた大勢の華僑はトラックに乗せられどこかに連れて行かれ帰ってくることはなかった。戦後、チャンギの海岸で日本軍の虐殺による無数の人骨が発見されたことで、彼の証言は裏付けられた。戦争末期の1944年には日本の占領に陰りがでてきて、食糧事情や衛生状態が悪く病気や飢餓でなくなった人々の死体が博物館の横に放置され悪臭を放った。そのころの日本軍にはモラルハザードが発生し、日中でも街中で地元民を殺人虐待凌辱する地獄のような光景が繰り広げられたという。コーナーは日本人科学者との日々を好意的に書いているが、華人大量虐殺と終戦間際の蛮行は日本の占領時代の汚点だと非難する。「世界大戦は人間性を踏みにじった。もし自分が日本人科学者に出会えなかったら、人間を信頼する力を失っていただろう」と述懐する。

1945年にシンガポールは解放される。コーナーは、「戦争の勝利が日本人科学者の姿勢を左右しなかったように、敗戦によっても、学問への奉仕者としての姿勢を変えなかった。」とし、1946年コーナーは植物園を守った日本人科学者についての記事をタイムズ紙に送ったが、「日本人がシンガポールで人類の文化に貢献したなどとは、とても信じられない、嘘っぱちだ」ということで記事は掲載されなかった。戦争中のシンガポールにおける日本人科学者のことが世に出るのは、1981年まで待たなければならなかったのである。

コーナーたち以外の英国人は皆チャンギ捕虜収容所に入れられたため、同胞からは戦争協力者だとみられた。シンガポールのNational Library Databaseで見つけた1982年The Strait Timesの下の記事(部分)は、コーナーの出版本についてのものである。Wartime Controversy(戦争時の論争)という記事には、コーナーが日本人科学者たちと植物園で研究を続けたのは自国を裏切り、日本軍に協力したことになるのではないかという疑問をコーナー自身が自分に問い続けたと書く。掲示板の植物園に貢献した人々の中に、日本人科学者の名前はない。日本占領下で日本人科学者がボタニックガーデンに関わったということは黙殺されている。善行が抹消されるほどの蛮行があり、戦後70年経った今もそれはシンガポールで許されてはいないのである。

 訳本のシンガポール地図 (今はないカトン飛行場は位置が間違っていたので赤で訂正した)


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