あんなこと こんなこと 京からの独り言

「京のほけん屋」が
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はまぐり

2010年03月29日 | うんちく・小ネタ

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                                                            【蛤】 (はまぐり)
蛤は、「浜栗」の意。春の季語。
春は蛤の食べ頃の時期。

このほか、蛤のような二枚貝は離してしまうと、もとの同じ貝同士でないと絶対にピッタリと合わないと言うことから、女性の貞節を象徴するものとされ、蛤の潮汁や焼き蛤は雛祭りには欠かせない目出度い献立となりました。

さて、今回は「四季のことば ポケット辞典」という本の三月のページを開いた時に目に飛び込んできた「蛤」を採り上げてみました。
 
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件の本の解説は季語としての「蛤」の部分はよかったのですが、その前段に書かれた記述に多少問題あり。それは次の説明。

「潮の干満の差が大きい春は、貝の収穫期にあたります。」

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「春の大潮」という言葉は、気象関係の本でも見かけることがあり、春は潮の干満が大きいと思われがちですが、日本のような中緯度の地域にある場所では、実はそうはなりません。
潮の干満の大きさという点で考えると、夏至や冬至の時期の方が大きくなるはずで、実際にもまたそうなるのです。

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「春の大潮」という場合の春が五月末辺りを指すのだというのならわからないでもないのですが、五月末を春の代表と捉えるのはかなり無理がある気がしますので、潮汐について考えるとき「春の大潮は干満の差が大きい」という表現は誤解を生むだけのようです。

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潮汐が起こる原理を考えれば、日本付近では夏至や冬至の方が干満差が大きくなることはすぐに気が付くはずなのに、気象についての解説本にもまだ「春の大潮は干満差が大きい」という記述が有るのは、春が潮干狩りのシーズンであることから、「干満差が大きなはず」と誤った思いこみをしてしまっているのかもしれません。思いこみは危険ですね。

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歴史に残された星の話 ・・・ 

2010年03月22日 | うんちく・小ネタ

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明月記の客星

天喜二年四月中旬以後、丑時、客星觜・参の度に出づ。東方に見(あら)わる。天関星に孛(はい)す。大きさ歳星の如し。

藤原定家が治承4年(1180年)~嘉禎元年(1235年)の間の出来事を記述した日記で現在は国宝に指定されている『明月記』に見える記述です。

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「天喜二年」はAD1054年。
「四月中旬以後」と有りますが、現在の暦(グレゴリウス暦)で考えると、6 月初め頃と言うことになります。

「觜・参の度」とは、中国生まれの星座「觜」「参」の有る場所という意味。「大きさ歳星の如し」とは、明るさが歳星(木星)ほどだったと言うことです。かなり明るかったわけです。

明月記が書かれたのがAD1180年~ですから、AD1054年のこの星の記録が有るのはおかしな事なのですが、これは天文寮の記録などを読んで引用したもののようです。

 1_3                               国宝『明月記』   

                                                                ◇「客星」とは
客星とは、今の天文学の言葉で「新星」のこと。新星はnova(ノバ)と呼ばれます。これはラテン語の nova stella(新しい星の意)から。

新星は新しく星が生まれたというものではなくて、それまで暗くて見えなかった星が何らかの理由で急激に明るくなって、その存在に気づかれた星です。
通常の新星は、星の明るさで言うと10等級(1万倍くらい)ほど明るくなり、その状態が数ヶ月続くもので、我々の銀河の中でも年に数個が発見されます。

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ところが明月記の客星は、普通の客星(新星)と違って約 2年の期間観測されています。ちょっと特別な新星で、超新星(Supernova) と呼ばれる星でした。何が「超」かというと、一番目立つのがその明るさ。一つの星でありながら、数百億~数千億個の星で成り立つ銀河全体の明るさをも超えるほどになることです。

このAD1054年に現れた「客星」はその明るさの最盛期には昼でも見えたと中国の記録に残っているほど明るくなりました。

                                                                ◇「客星」その後
AD1056年には見えなくなってしまったこの客星ですが、この客星が有った場所に星雲が有ることがわかったのは18世紀に入ってから。
その星雲には独特のフィラメント構造が見つかり、その見かけの連想から、「かに星雲(Crab Nebula)」と呼ばれるようになりました。

後に、フランスの有名な彗星探索者であったシャルル・メシエが彗星と紛らわしい見かけの天体を記録したノートの最初にこの星雲を記載しました。このメシエのノートは現在明るい星雲や星団が「M○○星雲」のように呼ばれるようになるメシエカタログです。

メシエカタログの最初に書かれていたことでかに星雲は「M1」呼ばれ、星好きの間では知られる存在となりました。
家庭にあるような小さな望遠鏡でもよく見える天体です(おうし座にありますので、今はよく見える時期です)。

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                                                          ◇「客星」さらにその後
二十世紀に入るとこのかに星雲からは、強い電波やX線が放射されていることがわかるようになりました。
さらに、この電波やX線の基であると考えられる星が 1秒間に30回も明滅を繰り返す不思議な星であることもわかりました。

やがてこの明滅が、この星の自転による変化だとわかりました。なんと、1秒間に30回も回転しているのです。規則的に光の脈動を繰り返す星としてやがてこの星は「かにパルサー」(「パルサー」はパルス状の光を発する星)と呼ばれるようになりました。

現在は、このかにパルサーがブラックホールの一歩手前の状態である「中性子星」という超高密度天体であることがわかっています。どれくらい高密度かと言うと、

  1立方センチでその重さが10万トン!!

角砂糖一個分ほどの大きさで重さが10万トン。とんでもない星です。

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                                                             ◇かに星雲の今後
かに星雲は6300光年も離れた処にあるため小さく見えますが、実際はすごく大きい。直径にして約10光年ほどの天体です。                                            1054年の大爆発で吹き飛ばされたガスが猛スピードで広がった結果、この大きさに。
現在もなお、秒速1500kmという速度でガスは広がり続けています。
                                                                          今の季節ならかに星雲は夜は眺めやすい場所に有りますから望遠鏡をお持ちの方は、星図片手に平安時代の人々が目撃した「客星」の後の姿を探して、人間の世界の時間の流れと星の世界の時間の流れを体感して見ませんか?

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暑さ寒さも

2010年03月15日 | うんちく・小ネタ

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                                                            ◆暑さ寒さも彼岸まで
春ならば余寒の寒さも薄らぎ春らしくなり、秋ならば残暑もしのぎやすくなる時期であると、昔から言い習わされて来た言葉です。

今年の冬は記録的な暖冬といわれ、寒くならずに終わるかと思えた頃、余寒というにはあまりに厳しい寒さが到来しましが、その厳しい寒さも彼岸に入って緩み始めたようです。
やはり、暑さ寒さも彼岸までなのでしょうか。

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彼岸が春と秋にあり、この言葉も春の彼岸、秋の彼岸を同等に扱った言葉のようですがすが、我々の感じる暑さと寒さには多分に「慣れ」の問題があって、温度計の示す気温とは違っているようです。

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「暑さ寒さも彼岸まで」といえば、暑い時期も寒い時期も彼岸当たりで終わりとなってあとは快適な気温の過ごしやすい季節となるという意味で使っています。ですが、実際の気温の変化を見てみると、春と秋とでは大違い。理科年表のデータから30年分の東京の月平均気温を平均して、

 春の春分と、秋の秋分

の気温を比較すると大分違います。
春の彼岸の時期の平均気温は摂氏 8°に対して秋彼岸の平均気温は23°ほどとその差はおよそ15度ほど。

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15度の気温差といえば大変なものですが、寒い冬を越した春分の彼岸と、暑い夏の後にやってくる秋彼岸とではこんなに違っているのに、イメージの中では、

 彼岸の頃になると寒暑も止んで過ごしやすい時期

と並べて考えられるようになるのです。
ほんと、人間の慣れってすごいですね。

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四知

2010年03月08日 | うんちく・小ネタ

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【四知】 (しち)
『後漢書楊震伝』二人の間だけの秘密でも、天も知り、地も知り、我も知り、相手も知っているから、いつかは他に漏れるものであるということ。 《広辞苑》

不正や悪事はいつかは必ず世間の人に知られるようになるといういましめ。秘密は必ずもれるものであるということ。 《成語林》

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「天知る、地知る、我知る、子知る」
という言葉をどこかで聞いたことが有ると思います。何事もこの言葉にある四者は知っているということから「四知」という言葉が生まれました。
後漢書の楊震伝が出典とされますが、楊震伝の原文だと、

  天知、神知、我知、子知

であって、よく知られた四知とは違っています。元々は話した内容が文字になった物なので異伝もあって、現在のものもそうした異伝の一つなのでしょう。どちらかといえば「天知、地知、我知、子知」のほうが慣れ親しんだ言葉です。

楊震は後漢の官僚で、当時の最高位である三公にまで昇った人物です。後漢は側近政治の悪弊が蔓延り、賄賂が横行した王朝でした。この話も、そうした賄賂に関係した話です。
  
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楊震が地方の太守に任命されて任地に向かう途中に立ち寄った場所で、その県の県令王密が夜、楊震の宿舎に尋ねて来ました。王密は以前楊震の部下だった人物で、その当時目をかけてくれたお礼ですといって、楊震にお金を渡そうとしました。
楊震はこれを断りますが、王密は

「夜分のことですので、私がここにやって来たことも、お金を渡したことも、だれにも知られることは有りません」

といってなおも渡そうとしました。それに答えた楊震の言葉がこの四知です。
 
「あなたは誰も知らないと言うが、そんなことはない。天が知っている、地も知っている。なにより私も知っているし、貴方も知っているではないか。何事もこの四者が知らないということはないのだ。」

というのがこの出典となった言葉の意味です。
天地が知っているというのは、当時の中国の信仰に関係する言葉ですし、貴方が知っているというのも賄賂のように渡す側と受ける側といった関係がある場合の言葉でしょうが、「私が知っている」は何事によらず共通する言葉でしょう。

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どんなことでも「誰も知らない」ことはない。
常に「私は知っている」のだから。
                                                                   現在起こる様々な事件に対して、さて真相を知っている四知はどう考えているのだろうと、考えずにはいられないことが・・・あります。

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桃では無かった、桃の節供?

2010年03月01日 | うんちく・小ネタ

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3月3日は上巳(じょうし)の節供です。
本来は、三月初め(上)の巳の日に祝われたことから上巳の節供と呼ばれ、これが本当の名前なのですが、現在は桃の節供とか雛祭りと呼ばれるのが普通で、上巳の節供と言ってもあまりぴんと来ないかもしれません。

今回は、本当の名前より、みなさんに認知されているであろう「桃の節供」という呼び名についてのこぼれ話です。

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                                                              上巳の節供と思われる行事については中国の詩経鄭風に既に

 「三月上巳に蘭を水上に採って不祥を祓除く」

と書かれています。詩経の成立は紀元前9~7世紀とされているので、3000年近く昔にはそれらしい行事が行われていたことになります。もちろん日本での行事はこんな昔の話ではなくて、奈良・平安の頃中国のこの行事が伝わってきたものです。ここで問題は詩経の内容、「三月上巳に蘭を水上に採る」です。

登場したのは「桃」ではなく「蘭」なのです。
もっともこの蘭は我々の考える蘭ではなくて藤袴(ふじばかま)のことだと考えられています。藤袴と言えば秋の七草の藤袴ですが、藤袴は蘭に似た芳香を放つ植物なので、蘭の仲間と考えられたのかもしれません(花は似てもにつかないものですけれど)。

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芳香を放つ草は悪いもの、禍々しいものを祓う霊力があると考えられていたことから、これはそうした不祥を祓う行事だったのでしょう。
また「水上に採る」とは「水辺で採る」の意味です。水辺というのは水による穢れ祓い(禊ぎ)の際にこうした芳香を放つ草をその近くで調達したということでしょうか。

端午の節句と関係の深い菖蒲もまた、芳香を放つ水辺の植物ですが、これも節供が邪を祓う行事であって、その呪術的な道具として芳香を放つ水辺の植物が使われたことを示しています。

そして、身に付いた不祥は自分の身代わりの人形(古くは草人形、後には紙や布で作ったもの)に移して河に流していました。                                            各地に残る「流し雛」の行事はこうした古い上巳の節供の姿を残したものです。

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古い時代の節供には、この「邪を祓う」という行為が主であったので、関係する植物も邪を祓う水辺で調達出来るものが使われたようです。ですから、上巳の節供の始まりの頃まで遡ると今私たちが普通に「桃の節供」と呼ぶような、桃の花との直接の結びつきはなかったようです。

桃の花と上巳の節供が結びつくようになったのは何時かということはよく解らないのですが、どうやらこうした「邪を祓う行事」の意味が薄らぎ、お雛様が河に流されるような簡易なものから、家に飾られるような雛人形に変わってから以降と考えられます。だとすると室町時代の終わり頃でしょうか。

お雛様を家に飾り、様々な装飾を加える中で、香りによって邪を祓うための呪術的な道具としての「草」から、装飾にも用いられる「花」へと変貌したのでしょうね(芳香を放つという点では通じます)。

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桃の花自体は、前出の詩経の時代から佳い娘になぞらえられる花でしたし、鬼や邪気を祓う霊力のある植物であるとも考えられていたものですから、女児の節供にはぴったりの花として上巳の節供と結びついたのではないでしょうか(鬼退治といえば、桃太郎。これも「桃」による鬼追いの話です)。

我々にとっては上巳の節供と言えば桃の節供のことですが、最初から桃の節供として生まれたわけでは無さそうです。

「伝統行事」と一口に言いますが、こうしてよく見てゆくと、始めから今のような姿で生まれたわけではなくて、それぞれの時代時代に様々なことが付け足され、あるいは忘れられながら姿を変えて今の伝統行事になって来たのですね。

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