京の4月
2月15日は、日本三大随筆の一つとされる『徒然草』の作者として知られ、鎌倉・南北朝時代の歌人・随筆家の吉田兼好の命日である「兼好忌」。
本名は卜部兼好(うらべかねよし)で、後の時代に吉田家と称するようになり、江戸時代以降に吉田兼好と通称されるようになったそうです。
南北朝時代を舞台にした軍記物語『太平記』で、兼好は足利幕府の執事・高師直(こうのもろなお)が塩冶判官の妻へ宛てた恋文を代筆したことが描かれています。
判官の妻はその手紙を開けずに庭に捨ててしまったので、師直は怒って兼好の屋敷への出入りを禁じてしまったとか・・・。まぁ、八つ当たりっていうことですね。
この話の真偽はともかく、江戸時代の人形浄瑠璃および歌舞伎の演目『仮名手本忠臣蔵』の芝居にも、この逸話が引用されます。
『仮名手本忠臣蔵』は、江戸元禄時代にあった赤穂事件(赤穂浪士の討ち入り)を、『太平記』の背景や登場人物に置き換えて上演されたもの。
忠臣蔵本来の仇役・吉良上野介が、『太平記』で悪人イメージの強い高師直に置き換えられてます。
でも、内容以上に、タイトルの“仮名手本”って何だろうって思いませんか?
『仮名手本忠臣蔵』の“仮名手本”は、江戸時代の寺子屋で使う文字の読み書きのお手本のこと。
「いろは47文字」と「赤穂藩浪人47人」が同数であること、忠臣の「手本」の意味、そして「いろは歌」を7文字の行に分けると、末尾が「とがなくてしす=咎無くて死す(濁音と清音は調整)」になるなど、機知と技巧により、赤穂浪士のイメージが込められた言葉だったのです。
あれっ・・。吉田兼好の話はどこにいっちゃった?
またあらためて、ということで、本日はここでお開きとさせていただきます。
コタツからミカンが消えて久しい時代となりました。
かごに盛られた山吹の玉はお茶の間の主役であり、団らんのランドマークでもあったのです。
ミカンが消えたあの日から、昭和に大きな話題となった「家庭崩壊」のシナリオがはじまっていたのかも知れません。
なつかしき我が実家のコタツにも、ミカンは鎮座していました。貴重なエネルギー源は指先を黄色く染め、家族を一つにしたものです。
そして、ミカンのあとは、コタツ板をひっくり返し、緑のフェルト面を出して麻雀牌か花札を登場させる家庭が多かったとか。
個人的には、黒光りする札をめくって飛び込んでくる花札の48枚の絵札はミカンと同じくらい眩しく、いまでも脳裏にその極彩色が焼き付いています。
しかし、ひとつ解せない札がありました。横尾忠則を彷彿させる、ひときわ華やかな「桐に鳳凰(12月札)」。
桐がなぜ12月なんだろう。
桐には鳳凰の止まる木(フェニックスツリー)という二つ名があるくらいですから、組み合わせには問題ありません。
しかし、桐の花は夏の季語で桐の葉は秋の季語。
この理由には諸説あるようですが、最後の札だから「これっきり」で桐にした説を支持したいですね。
「ピンからキリ」のキリです。
けれど、どうせならわかりやすく、12月の札を「コタツにミカン」としてはどうでしょうか。
季語的にもぴったりですし、1年締めくくりの札としてもふさわしいのでは。
団らんとミカンの復活を願って、そんな絵札を思い描いてみました。