あんなこと こんなこと 京からの独り言

「京のほけん屋」が
“至高の薀蓄”を 京都からお届けします。

自然治癒力

2010年09月27日 | うんちく・小ネタ

少し年齢を重ねると、自然治癒力が低下してしまいます。
少しのすり傷なら子供の頃はすぐに治ったのに、この頃は・・・と、悩める方もいらっしゃることでしょう。

そこで、自然治癒力研究の第一人者である、帯津三敬病院名誉院長帯津良一先生の論文を精読しました。自然治癒力を高めるには「気」「心」「食」の養生が大事であるという内容でした。

        78                                        細胞がすり傷を修復する創傷治療のメカニズム自体はよくわかっているのですが、「何が」それを命令しているのか、つまり自然治癒力はどこから来るのかが未解明。ここらが西洋医学の限界と見切った帯津先生は、科学的検証が不十分な代替療法にも足を踏み入れ、自然治癒力に迫ったのだそうです。

      B3155_2 
 
代替療法には、中国医学、指圧、アロマセラピー、気功、スピリチュアル、断食療法、丸山ワクチン等、あらゆるジャンルの治療法が含まれています。

その結果が、前述の「養生三原則」。気功やヨガで「気」を高め、生き生きとした「心」を持ち、「食」によって自然界のエネルギーを取り込むことなのだそうです。

まずは「食」でしょう。

  3133_2 

                                                                 食事本来の目的は大地の気を体内に取り入れることで、それには気を多く含む旬の食材、特に大地から直接エネルギーを貰っている植物性の食材がいいらしいとありました。
とはいうものの、ガチガチの節制は逆効果。肉を食べる悦びも体には必要で、「たまには豪勢にスキヤキを食べて踏み外しなさい」と帯津先生は助言してくれていました。

 44_3 
ということで、書を閉じ、旬の食材と心と体の自然治癒力向上を目指して食材を買いに出ようかと思っています。

(初物は東を向いて食べろといいます。今年初の食材は、東を向いて食べましょう)


芭蕉隠密説

2010年09月13日 | うんちく・小ネタ

1

今何時? 混乱していた江戸の時刻
奥の細道で知られる松尾芭蕉には、「芭蕉隠密説」というものがあります。
そもそも、どうして諸国を巡ったのだろう。ひょっとして奥の細道は、隠密として諸国の内情を探った芭蕉の隠れ蓑では・・・といったもの。
いつの世にも、何処の国にも「陰謀説好き」はいるものです。

Oi_2

さて、この芭蕉隠密説の根拠の一つとしては、芭蕉の超人的(?)健脚ぶりがあげられます。奥の細道の全行程は 600里、2400km以上。日数は 150日ですから、平均一日に16km。途中で一カ所に滞在していた時間を考慮すれば、移動する日には普通に20~30kmを歩いたことになります。

奥の細道は、芭蕉が45歳(数え年では46歳)の時にはじめた旅です。芭蕉は50歳で亡くなっていますから、奥の細道の旅はその最晩年に行ったといえます。その最晩年の旅がこれですから。現代の私たちからするとこれだけでも驚異的。そんな旅の中でも時としてさらに驚きの記録が残る箇所があります。

24_2 

その一つが栃木県の鹿沼~日光を歩いた記録。
元禄二年三月二十九日(現在の暦で云えば1689/05/18)の記録によれば、その日芭蕉は鹿沼を「辰の上刻」に出発して日光には「午の刻」に到着しています。鹿沼~日光の距離は約 7里(28km)。辰の刻とか午の刻という表現は一日を十二等分し、十二支に割り振った辰刻法(しんこくほう)という時刻の表現方法です。
この辰刻法は本来は暦の計算などに使われる定時法で、現在も

  正午 (「午の正刻」の意味)

などにその名前を残しています。この辰刻法の一辰刻は現在の 2時間に当たります。芭蕉隠密説を唱える方々は

  辰の上刻( 8時頃)・・・鹿沼発
  午の刻 (12時頃)・・・日光着(この間28km以上)

と考え、この鹿沼~日光の記述から、芭蕉の健脚は常人の能力を遙かに超えたもの、きっと特殊な訓練をした隠密(忍者かな?)に違いないと考えるわけです。休み無しとしても平均時速 7km。とても徒歩とはいえません。ずっと小走りで通さないとまず無理ですね。やはり芭蕉は隠密か。

A46_2 

                                                            ◇暦の時刻、日常の時刻
この芭蕉の異常なほどの健脚ぶりは、暦を作る場合や天文の観測などに使われる定時法(一辰刻二時間)と、日常の生活で使われた時刻を混同して説明した結果、生まれたものと考えられます。

今でこそ、時刻と時刻の間隔が一定であるという「定時法」はあたりまえのことですが、この定時法があたりまえになるためには時計の発達が欠かせません。誰もが一定の時を刻む時計の時刻を知ることが出来る時代になる以前には、定時法は日常生活には使われなかったのです。

では、日常の生活ではどんな時刻が使われていたかというと、日の出や日没(昼と夜と云っても良いでしょう)といった誰にでも分かる自然なサイクルを基準にした時刻でした。時代劇などでよく聞く「明け六ッ(あけむつ)」「暮れ六ッ(くれむつ)」と云われる瞬間を基準にした時刻がそれです。

B457_2 

明け六ッは日の出のおよそ35分程前、暮れ六ッは日没のおよそ35分後で、この明け六ッから暮れ六ッの間が「昼」とされ、それ以外が「夜」と考えられました。そして、この昼と夜をそれぞれに六等分した時刻が日常に使われる時刻でした。

時計など滅多にお目にかかれない時代に、この時刻を知らせる道具として使われたのが江戸で云えば「時鐘(じしょう)」。この時鐘は、現在の夜中の零時(正子)に 9回打たれそれから、8,7,6,5,4 回とそれぞれの時刻ごとに打たれ、 4回の次はまた 9回(正午)に戻って8,7,6,5,4 回で次に正子の 9回に戻って一日となります。
明け六ッ、暮れ六ッはこの時鐘が 6回打たれるので「六ッ」と呼ばれます。

さて、この時鐘の表す時刻は昼と夜の長さが基準となりますので、季節によってこの基準が変わってしまいます(定時でないので、「不定時法」と呼ばれます)。どれくらい違うかというと、夏至の時期と冬至の時期の昼夜の長さと一刻の長さを示せば

 夏至の頃 昼:15時間40分(2時間37分)

        夜: 8時間20分(1時間23分)                                                       

 冬至の頃 昼:11時間00分(1時間50分) 

        夜:13時間00分(2時間10分)

このくらい(京都での概略値)。
同じ一刻でも夏至の頃の昼の一刻は2時間37分、夜の一刻は1時間23分。同じ昼の一刻でも夏至の頃は2時間37分で冬至の頃は1時間50分と50分近い差が生じてしまいます。
このあたりに、謎解きのヒントがあります。

E99_2

◇二つの時刻の比較
まずは単純(?)な辰刻法から。
辰刻法の時刻を現在の時刻で表してみましょう。

 子刻(23~ 1時) 丑刻( 1~ 3時) 寅刻( 3~ 5時)
 卯刻( 5~ 7時) 辰刻( 7~ 9時) 巳刻( 9~11時)
 午刻(11~13時) 未刻(13~15時) 申刻(15~17時)
 酉刻(17~19時) 戌刻(19~21時) 亥刻(21~23時)

一辰刻 2時間ずつ。                                                定時法に慣れた私たちには分かりやすい時刻です。
では、私たちからするとちょっと不慣れな不定時法の時鐘の時刻はというと

 夏至の頃(京都)
 暁九ツ(00:00~ 1:23(子)) 暁八ツ( 1:23~ 2:46(丑))
 暁七ツ( 2:46~ 4:09(寅)) 明六ッ( 4:09~ 6:46(卯))
 朝五ツ( 6:46~ 9:23(辰)) 朝四ッ( 9:23~12:00(巳))
 昼九ツ(12:00~14:37(午)) 昼八ッ(14:37~17:14(未))
 昼七ツ(17:14~19:51(申)) 暮六ッ(19:51~21:14(酉))
 夜五ツ(21:14~22:37(戌)) 夜四ッ(22:37~24:00(亥))

 冬至の頃(京都)
 暁九ツ(00:00~ 2:10(子)) 暁八ツ( 2:10~ 4:20(丑))
 暁七ツ( 4:20~ 6:30(寅)) 明六ッ( 6:30~ 8:20(卯))
 朝五ツ( 8:20~10:10(辰)) 朝四ッ(10:10~12:00(巳))
 昼九ツ(12:00~13:50(午)) 昼八ッ(13:50~15:40(未))
 昼七ツ(15:40~17:30(申)) 暮六ッ(17:30~19:40(酉))
 夜五ツ(19:40~21:50(戌)) 夜四ッ(21:50~24:00(亥))

夏至の頃と冬至の頃を比べると時間が随分違っていることが分かりますね。
さて、時刻の後の( )に書いた干支ですが、先に書いた定時法の辰刻法との対応のためか、この時鐘の呼び方も九ツを「子刻」、八ツを「丑刻」というふうに呼ぶことがありました。

4_2

                                                              ◇現代人の誤解した解釈
私たちは正確な時計による時刻に慣れているため、季節によって変わる不定時法というものが実感出来ず、それでいて「江戸時代は夜明けを明け六ッといって一日の時刻の起点としていた」というその点だけを強調した不定時もどきの定時法を想像してしまうようです。その不定時もどきとは次のようなもの(必要な箇所だけ抜粋)。

 現代風不定時もどき
 暁九ツ( 0:00~ 2:00(子)) 暁八ツ( 2:00~ 4:00(丑))
 暁七ツ( 4:00~ 6:00(寅)) 明六ッ( 6:00~ 8:00(卯))
 朝五ツ( 8:00~10:00(辰)) 朝四ッ(10:00~12:00(巳))

                             以下略

夜明けの時刻は季節によって変わることを無視して、「夜明け =  6:00」と固定して考えてしまうわけです。現代だと早起きの方でないと夜明けを日常に体験しないためでしょうか。

55

                                                             ◇上・中・下刻
芭蕉の記録にある「上刻」とは、一刻を上・中・下と分けたものです。
幾らのんびりした昔でも一刻は 2時間前後で、単位としては少々長すぎるのでこれを補うために使われるようになったものだと思われ、日常に使われる時鐘法(不定時法)と組み合わせて使われます。三分割といっても

 始め(上)と中央(中)と終わり(下)

のような使い方をするので、下刻は次の時刻の上刻と同じと考えられます。
時鐘法の一刻の細分には他に「半」というのがあり、

  明け六ッ半、朝五ッ半

のように使います。この上中下刻と「半」の関係にも大きく二通りがあり混乱させてくれます。辰の刻を例にとって二つの解釈を示します。

 解釈A(△): 辰の上・中・下刻 = 五ッ ・五ッ半・四ッ
 解釈B(○): 辰の上・中・下刻 = 六ッ半・五ッ ・五ッ半

困りました。一般には、解釈Bが「妥当」とされていたようですが、全部がそうとは言い切れない。記録を残した人がABどちらの解釈をしたのかなど書いてくれていないので、最後は時と場合(人と場合かな)に応じて、その記述を解釈していかないといけない。推測するしかない部分があります。

      29

                                                            ◇芭蕉の旅の記録は?
さて、芭蕉の鹿沼から日光までの旅の記録「辰の上刻発・午の刻着」が「 8時発・12時着」と多くの本で解釈されるのは、

 「現代風の不定時法もどき」+「解釈A式上中下刻解釈」

という組み合わせによるものと考えられます。こうなると芭蕉は28kmを 4時間で歩く必要があります。
では、当時の記述方法でもっとも普通に行われていたと思われる

 「不定時法」+「解釈B式上中下刻解釈」

を行うと、どうなるかと考えると、

 辰の上刻(六ッ半(5:15頃))発・午の刻(12:00頃)着
 ※時刻計算地は東京の経緯度で代用しました。

ということになります。これだと芭蕉一行は 7時間弱の時間をかけて28kmを歩いたことになりますから、平均時速は約 4km。途中の休憩などを考えるとこれでもその健脚ぶりはすごいですが、忍者でなくても可能な速度です。

89

今回は、芭蕉の旅を例にとって、江戸時代に使われた様々な時刻とその使用の混乱ぶりを書いてみました。芭蕉隠密(忍者)説は、その混乱した時刻系を更に現代人の常識で考えたため、一層混乱したわけですが、現代人ではなく江戸時代の人達もそれぞれの使い方はかなり混乱していたようです。

こんなに混乱していて大丈夫なのかなと心配になりますが、その程度は許容範囲という生活をおくっていたと云うことでしょうか。
当時の人たちの記録に、現代からあまり細かな文句をつけたら

 余計なお世話だ

と江戸時代の人達に云われそうですね。

         222_2

 *..+"☆。。="....:*..+"☆。。="....:*..+"☆。。="....:*..+"☆。。

                お 知 ら せ

    次週の更新は、その週に2日の祝日がありますので、
    お休みさせて戴きたく、お願い申し上げます。
    一週間のお休みの後、いつものように日曜の深夜
    (27日)に、更新致します。

    何卒、ご容赦のほどをお願い致します。

                                             京のほけん屋

 *..+"☆。。="....:*..+"☆。。="....:*..+"☆。。="....:*..+"☆。。


月食が教えてくれる大地の形

2010年09月06日 | うんちく・小ネタ

16

今回の話はグッと古く、紀元前 6世紀の出来事です。
 
                                                            ◇この世界は球

  「この世界は空間に浮かんだ球である」

紀元前 6世紀のギリシャで、こう言って聴衆を驚かせた人物がいました。
その名はピタゴラス。
ピタゴラスは世界を旅しながら、数学の分野で優れた業績を遺したギリシャの哲学者です。

  1_2    
  

 「三角形の斜辺の二乗は、他の二辺の二乗の和に等しい」

というピタゴラスの定理でおなじみのあの方です。
「世界は宙に浮かぶ平らな円盤である」というのが、当時の他の大多数の哲学者の意見でしたが、ピタゴラスはこれに異を唱えた訳です。

280_3   

◇月食は大地の影
ピタゴラスをはじめとする当時の哲学者の幾人かは、月食が私たちの住む大地(地球)の影であると既に考えていました。
そうした目で月食の時の影の形を観察したピタゴラスは、こう考えました。

もし私たちの住む世界が円盤ならば、月に落ちるその影の形は私たちの世界と月の位置関係によって、その形が大きく変わるはずだと。

B32

お皿を真上から照らせばその影は円ですが、斜めから照らせば楕円形になり真横から照らせば、幅の狭い線になります。自分たちがそのさらの上に乗っていると考えると、月が真上に見えるときの月食の影は円形だが、斜めに見えるときや、月が昇るときや沈むときの月食の影は楕円や直線にならないとおかしいはず。

と、ピタゴラスは考えました。そしてどの角度から照らされても影が円形に見える形は何かと考え、「それは球である」と結論したのです。

       2

                                                                 ◇天体は完全な形のはず
ピタゴラスは天文学者というより数学者です。そしてその数学者であるピタゴラスは、もっとも完璧な幾何学図形は円だが、もっとも完璧な立体は球であると考えました。私たちの住むこの大地も、空に浮かぶ天体である月や太陽も神が作ったもの。神が作ったものが完璧でないはずはない。それならその形もきっと完璧なはず。

88117_3

月も太陽も見かけは円であるが、球を遠くから眺めてもそれは円に見える。
これだけでは天体が円形なのか球形なのかの判別はできない。

しかし月食を観測し、月に落ちる我々の大地の影を観察すると、それは天体が球形でなければ説明のつかないことから、

  この世界は空間に浮かんだ球である

と結論したのでした。

                                                                  部分月食を眺めて、「ああ、私たちの住む世界は球形なんだな」と2500年前のピタゴラスの気分に浸って感じてみてください。

280_5 

                                                                 「神が作った天体の形は完璧なはず」というピタゴラスや彼の後継者達の観念論はやがてヨーロッパに広く普及し、それから2000年あまり後のルネッサンス期の学者達を悩ませることになります。

                               080