あんなこと こんなこと 京からの独り言

「京のほけん屋」が
“至高の薀蓄”を 京都からお届けします。

謎の上野の西郷さん

2010年12月20日 | うんちく・小ネタ

  1_2                                   東京上野の山の上にある西郷さんの銅像は、ラフな着物に兵児帯をしめて、賢そうな犬を連れています。
つい「のんびり散歩でもするのだろうか」と思うかもしれませんが、とんでもない。
実は、ウサギを捕まえに行くところ・・なのです。

そもそも西郷さんの腰のところには、刀と一緒にヒモのようなものがはさまれています。   これは、ウサギを獲る罠に使うためのものなのです。

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横にいる犬も、ウサギ狩りを得意とする薩摩犬で、名前を「ツン」といいます。
明らかに散歩では・・ありません。

更に困ったことに、西郷隆盛は、間違いなく本人だという写真がありません。
写真を撮られるのが大嫌いだったからなのです。
それで銅像も「似ている」「似ていない」といわれてきました。
なにしろ、本人が西南戦争で死んでずっとあとの、明治31年になって作られたのですから、ある意味仕方のないことです。

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しかも、本人かどうかの騒ぎの発端は、銅像が出来上がった時、肝心の奥さんのひと言「あれは、うちの主人ではない」ともらしたことによるもの。
顔に関する水掛け論はここから始まったといってもいいようです。

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しかし、この奥さんの言葉には異論もありました。
立派な正装ではなく、でれっとした着物の着こなしが「西郷さんらしくない」という意味で、「主人ではない」と奥さんがもらしたのだ・・という説です。

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ちなみに西郷隆盛の像は日本の近代彫刻家、高村光雲の作。
ところが犬のほうは後藤貞行という作家が別に作ったものです。
こちらも名人で、皇居前広場にある有名な楠木正成の銅像を作ったことでも知られています。

しかし、なぜ別々の彫刻家の作品になったのか・・・。

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また、ツンは後藤氏がたまたまオス犬をモデルに作ったため、オスの姿になっていますが、本当はメス犬だったとか。

西郷さんの銅像はあれこれややこしい謎が多いのです・・・。

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                     ご 報 告

次週の更新予定日26日から、新年1月15日まで、お休みを戴きたくお願い申し上げます。
改めて26日に「ご案内文」をアップロード致しますので、ご確認戴けますと幸いです。

                               京のほけん屋


千年の檜

2010年12月13日 | うんちく・小ネタ

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樹齢千年の檜(ヒノキ)の建築物は千年もつと言われています。
夢話の様だが、斑鳩(いかるが)の地に推古天皇と聖徳太子が、建立した法隆寺の五重塔 (国宝) は飛鳥時代の最古の木造建築であり、上記の通りです。

実際には約千三百以上そこにあります。
建立には韓国、ペルシャなど外国の職人なども呼ばれたとか。。
 
注;「胡」と言う言葉が使われていて、主にペルシャの職人らしき形跡があります。

        Kairo                                              

                   法隆寺回廊(国宝)奈良時代


現代建築では千年もたそう・・・とは考えはしないでしょう。
百年がいいところか?と言って飛鳥時代の工人達も、そんなにもつとは思わなかったのではないでしょうか。

「木を買わず山を買え」

この言葉は宮大工達の伝承です。
現場に行って木を見て、環境を見てから買え・・・ということ。                                       

  E59bb31_3                                   木は土地の環境によって、癖があります。強い木、弱い木、まがった木があり、それを規格品としてただ綺麗に切って並べて、家を建ててもいつか無理が生じてしまいます。木は生きているからなのです。
それを考慮して建てるのが職人中の職人といえるでしょう。

「木」を優先しているのです。
であるから、実は、1つ1つ部材の寸法は異なっています。連格子にもそれが見られます。
決して綺麗とはいえません。強い木は比重などの掛る部に。弱い木は添え木に。

無論、無傷で残る訳も無く、今も宮大工さん達が修復、修繕を繰り返しています。

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「木造建築には檜が一番。ここまでもつのは檜しかないです」                        法隆寺の中には藤原時代(平安中期・後期 )の建物もありますが、もって200~300年でした。 この時代から、風土や木の生命力は計算に入れてはいません。飛鳥の思考は時代と共に薄れていき、建築とは「見た目の美しさ、装飾」になっていきます。
とにかく、飛鳥の工匠達は建築に全く異なる目を向けていたことが修理、修繕でわかると宮大工(寺社番匠)は話しています。

法隆寺は新しく再建された部分も多いものの、その痕跡を今も遺して、後世に引き継がれていきます。

 E59bb31111_2                             裳階(もこし)の上には邪鬼が置かれており、                                                             初層の四隅を支えている


東京大正博覧会に思う

2010年12月06日 | うんちく・小ネタ

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明治になってから、殖産興業のスローガンのもと東京はじめいろいろなところで博覧会が開催されました。

1914年(大正3年)には、東京上野で東京大正博覧会が開催。
明治 ~大正~ 昭和の始め頃まで、上野が博覧会会場のメッカであったことなどは、ほとんどの人は知らないと思います。

近代日本を象徴させるために興業ものが多かったらしく、 明治時代から、その後、娯楽性のものと変化していきました。
「内国博覧会」と呼ばれたようで、上野が華やいでいた時代です。

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東京大正博覧会では、観覧車、ウォーターシュート、特にイルミネーションが人気だったそうです。 真ん中は不忍池。新設の観月橋が架けられ世界周遊館、パノラマ 館などが登場。 博覧会って言うよりアミューズメント ・パークのような感じです。日本初のエレベータ、 ケーブルカー が登場したのもこの博覧会でした。
半年間で約746万人の会場数だったそうですから驚きです。

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その博覧会には、『美人島旅行館』というパビリオンがありました。
いわゆるコンパニオンガールが集まった館なのでしょうが、詳細な記録は残されていません。娯楽の要素が強い見世物小屋の類という当時の新聞記事をみつけるに留まっています。
輝きを放っていたのは展示品だったのか美女だったのか、知る由もありません・・・。

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なんだか、ほのぼのしますが、 しかし、これだけやって跡形もないというのは、寂しい限りです。

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人にドラマあり、とか、人に歴史ありといわれるように、個人にスポットライトをあてると、いろんな物語が浮かび上がってきます。
それは、決して波乱万丈の人生をおくった人だけではなく、ごく平凡な人生であっても、一般の人が驚くような輝きを放っているものです。

東京大正博覧会の「美人島旅行館」のコンパニオンの方々の写真の顔は、素晴らしく輝いていると思いませんか?