あんなこと こんなこと 京からの独り言

「京のほけん屋」が
“至高の薀蓄”を 京都からお届けします。

女郎花って?

2009年10月26日 | うんちく・小ネタ

 M_2_2

◆女郎花(おみなえし)
 
秋の七草の一つ女郎花、飛び抜けて美しい花でも華やかな花でもありません。
一本だけポツンと花瓶に活けて絵になる花でもありませんが、この華やかではない花が、秋の七草に選ばれていることは嬉しいと感じています。
さてこの黄色の素敵な花はその名前が

  「女郎花、さて何て読みますか?」

なんてクイズに出されるくらい読みにくい文字です。どうしてこの文字で「おみなえし」なんて読めるのでしょう。それに「おみなえし」ってどんな意味だろうなんて疑問に思ったことはありませんか?

クイズに出されるくらいと書いたついでにもう一つ書けば、この女郎花には近縁種に白い花をつける植物があります。                                             名前は「男郎花」。さて何て読む。
答えは「おとこえし」。女郎花に男郎花。そろいもそろって不思議な名前ですね。

  22222_2 

何でだろうと思っていたときに、湯浅浩史の植物ごよみという本を読んでいたら、見事な謎解きを見つけました。湯浅氏の謎解きは、女郎花の方言名から始まります。女郎花の方言名には、

 粟花(あわばな)、粟穂(あわぼ)、粟盛り(あわもり)
 女飯(おんなめし)

粟が付く名は女郎花の黄色く小さな粒々のある花から粟を蒸し上げた姿を想像したものでしょう。ここまでは直ぐわかる話ですが、最後の「女飯」は?                                 ここで登場するのが先程紹介した女郎花の近縁種のはなし。
女郎花が「女飯」なら、男郎花は「男飯」。

    3_3

湯浅氏の謎解きはここから。女郎花の黄色い花は粟飯を盛った姿、ならば白い男郎花はというと、白米を盛った姿。粟も米もいずれも五穀の一つですが、粟は米より低く評価されていました。それで、米の飯を「男飯」、それより評価の低い粟の飯を「女飯」とよんだのだというのです(男尊女卑だ!・・ 何て話はしないでくださいね)。

      G1_l_5

なるほど、それで

  女飯(おんなめし) ? 女郎花(おみなえし)

うむ、なるほど。それなら女飯と粟花や粟盛りという名前との関連も納得いく。思わず、膝を叩いてしまう説でした。もちろん数多の説のひとつですが、うなずいてしまいますね。

     M_9


万葉の頃に愛された萩の花

2009年10月19日 | うんちく・小ネタ

  345

萩の花見
十月に入り秋も深まりました。秋の七草の咲く時期となりました。
七草の一つ、萩の花もあちこちで目にするようになりました。
赤紫や白の小さな花が、朝露を載せたたっぷりの緑の葉の間からのぞく萩の花を見ると、ああ秋なんだなと思いますね。

「花見」と言えば、現在は誰しも桜の花を思い出すことでしょう。それこそ花と言えば桜、この点には異論はありませんが、昔からずっとそうだったのかというと、どうもそうではなかったようです。

                                                           ◇万葉の花は萩
花見に限らず、現在は日本人にとって花と言えば桜と言うことになりますが、万葉集の歌が詠まれた時代は、そうではなかったようです。

万葉集の歌に詠まれた植物は 160種類以上あるそうですが、その中でもっとも数の多いものが萩で、 142首。これは桜の三倍以上の数だそうです。    

      Se  

                                                            ◇萩の花見
現在花見と言えば桜です。ところが万葉集にも桜と思われる花の歌が40首あまり残されていますが、この中に花見を思わせる歌は一つもないそうです。

万葉集で「花見」という言葉が使われている花は二種類。一つは梅でもう一つが萩です。
梅はこの当時、中国から輸入されたばかりの珍しい植物で貴族の庭園に植えられていただけのはずで、花見は当然この貴族の館での花見となります。
これに対して、萩の花見は野外へ出ての花見だったようです。

   秋風は涼しくなりぬ馬並(な)めて
        いざ野に行かな芽子(はぎ)が花見に

がこの花見を詠った歌。馬を並べて野外の萩の花を眺めに出かけたようです。
萩は背の低い木ですから、馬から眺めるとすると見下ろす形になったと思います。
それこそ朝露に濡れた草を踏み分けての花見だったことでしょう。 
  

 C1_2

                   

◇萩は秋の七草?
秋の七草と言えば山上憶良の歌が有名で、現在の秋の七草とされる花はこの憶良が数え上げた花です。もちろん萩の花も憶良の歌に読み込まれています。
では「?」は何? というと、萩は草かと言うことです。

115_2

「萩」の文字を見ると確かに草冠。この萩の文字は日本生まれの国字ですから、日本人は萩を「草の一種」と思っていたようです。
ちなみに、中国では「胡枝花」と書くそうです。

萩は植物学的には立派な木で、草ではありませんが、萩と言われて思い出すその姿は、盛大な葉っぱに隠れて幹(?)が全く見えませんから、木と言うより草だと思ったのかもしれませんね。
 

     90 山上憶良                                          

                                                                 ただ、正確に言えば山上憶良が間違ったとは言えません。正確には、憶良は七草とは書いておりません。「秋の七種」と書いています。秋の七つの種類の植物・・・なら草でも木でも良いわけです。

万葉の頃に愛された萩の花の影が薄らぎ、萩の花見の習わしもすっかり忘れられてしまっていますが、萩の花の咲くこの季節にもう一度、万葉の昔に思いをはせて、秋の花見などいかがでしょうか。

25

                                                                 次回も、ある秋の七草をテーマにしてみようと思っています。


救難

2009年10月12日 | うんちく・小ネタ

1_2                               

歌山県東牟婁郡串本町の沖合い約1.8kmの海上に浮かぶ面積およそ9.93km2、周囲26kmを誇る和歌山県下最大の島『串本町大島』があります。
「大島」という名前の通り、つい最近までここは船でしか行くことの出来ない島でした(1999年に橋が完成)。

  67_2  
                                                                  この島の北東端の崖の上に樫野崎灯台があり、この灯台から400m程離れた場所に軍艦エルトゥールル号の慰霊碑が建っています。119 年前の明治23年(1890年)9/16に樫野崎沖で遭難沈没したトルコ軍艦の慰霊碑です。

     225_2                                                             

この遭難では 600人に近いトルコの将兵が亡くなりましたが、この大島の人たちの救護活動によって69名が生き残り、本国に生還することができました。大島は現在でも崖の多い島に、民家が点在するといった寒村と表現しても間違いでは無いところ。                      

U_7    

 406

                                                                   明治の中頃、この寒村の人たちが言葉も通じずどこの国の人かも解らない遭難者の救助を、誰の命令を受けたわけでもないのに行ったのです(政府にこの遭難の第一報が届くのは 3日後のことです)。

55                                                              病院に移され手当てを受けたトルコ将兵と病院関係者

                                                                 当時の村の人たちはただ、「災難から人を救うこと」だけのために必死に行動したわけです。この災難から救った行為は、生き残ったトルコ将兵によって本国に伝えられ、 119年を経た今もトルコでは学校の授業でこのことが子供達に教えられているとのことです。

L_2                                   当時の報道記事 挿絵

                                                                1985年のイラン・イラク戦争激化でイラン在住の日本人にも危機が迫った際、取り残された 200名以上の日本人を救出したのは、危険を冒して飛来したトルコ航空機でした(日本では民間機は安全が保証されないことから、自衛隊機は海外派遣の問題から救出に向わなかった)。

9_0_2

                                                                 当時日本では、トルコが日本人を助けるために特別機を飛ばした理由がわからず「日本からのトルコへの経済援助が強化されたためか」などという的はずれな論を大手新聞が掲載したほどです。この論を読み、トルコが行った行為の真意が誤って伝わることを懼れた駐日トルコ大使は後日、その新聞社に投書を送りました。その投書の最後は次のように結ばれています。

                                                                 (前略)
トルコは難儀している人々に手を差しのべたのです。
仮に貴国民が似たような事態に直面したならば、同じような行動をとられたことは疑いの無いところです。この点を肝に銘じておいていただきたいのです。

                                                                  現在でも樫野崎の慰霊碑は大島の人々によって清掃されています。また駐日トルコ大使、駐日トルコ大使館付武官はその在任中に必ず串本町を表敬訪問し慰霊碑に詣でるそうです。

 38_3                                                                          

2008年には来日したトルコ大統領が串本町を訪れ、慰霊碑の建つ樫野崎に向かいました。こうした串本大島とトルコとの交流は今も続いています。

119年前、ただ「災難から人を救うこと」のために働いた人たちがいたこと、その人たちのこと忘れない救われた側の人々がいること、その二つのことを私たちは後世にきちんと伝え遺していきたいものです。

D1


後の衣替え(のちの ころもがえ)

2009年10月04日 | うんちく・小ネタ

 137

10月に入って、一気に気温が下がったようです。
そして、10/1には気温の低下に連動するように、衣替えを行った地域が多いと思います。

                                                            ◇衣替え(ころもがえ)
現在の衣替えは大体 6/1と10/1の年二回という場合が多いようです。もちろん、北は北海道から南は沖縄県までと細長い日本ですから、それぞれの場所での気温の差は大きく、全部一律というわけではなく、地域ごとに衣更えの時期は前後します。

12_2                   源氏物語絵巻(東屋)『衣替え』

                                                                 この 衣替えという行事は平安時代から宮中に伝わった行事で、4/1~ 9/末日(共に旧暦)までは夏の衣、その他は冬の衣となります。この日の変化は服装だけにとどまらず調度品なども夏用と冬用の切り替えが行われたそうです。

どちらも衣替えの日ですが、区別する場合10/1の衣替えを「後の衣替え」と呼ばれました。

衣替えは元は「更衣(こうい)」と呼ばれていましたが、この更衣と言う言葉は宮中の女官の役職(天皇の衣服の世話をする)名であったため、区別をするため「衣替え」と呼び変えられるようになりました。

「十二単」という服装からも分かるとおり、当時の服装は幾重にも重ね着するもので、気温の変化に併せて下着などで温度調整を行ったようです。

94

                                                     ◇細分化された衣替え
木綿の衣服の普及などにより、気温に併せた服の変化も多様化し、それに伴って衣替えも細分化されていきました。
江戸時代の武士の衣替えは 4回。日付は以下のように決まっていました。

 4/ 1 ・・・ (2007/ 5/17):袷小袖(あわせこそで)
 5/ 5 ・・・ ( 〃 / 6/19):
単衣帷子麻布(ひとえかたびらあさぬの)
 9/ 1 ・・・ ( 〃 /10/11):袷小袖(あわせこそで)
 9/ 9 ・・・ ( 〃 /10/19):綿入れ

最初の日付は旧暦の日付、()内はこれを新暦に変換したものです。更に後ろはこの日からの衣服。9/1~9/8の 8日間しかない短い期間もありましたが、そんなにこまかくなくても良いような気がするのですが。

ちなみに難読姓に「四月朔日」と言うものがあります。
これは四月朔日には冬の服である綿入れから綿をぬくという事から、特に綿貫(わたぬき)と呼んだことにかけて「わたぬき」と読みます。

092                              
                                                            

◇現在は 6月と10月
江戸時代は結構忙しかった衣替えですが、明治時代からは和装から洋装への変化などもあって、温度調整が容易になったなどから衣替えは年二回に簡略化されて、現在の 6月と10月となりました。
この 6月と10月の衣替えは、江戸時代の日程で言えば最初(旧暦 4/1)と最後(旧暦 9/9)の衣替えに相当しそうです。

現在の衣替えは、地域によって多少の違いがありますし、制服などが無い場合は特に衣替えを意識することも無くなりました。
 
今年は新型インフルエンザなどの心配ごともあります。気温と体調にあった衣替えを。

  55