あんなこと こんなこと 京からの独り言

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思慕 百人一首

2011年09月26日 | うんちく・小ネタ
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「百人一首の日」という日があります。1235年(文暦2年)に、鎌倉時代の歌人、藤原定家の撰によって『小倉百人一首』がまとめられたことにちなみ制定されました。一般的に「百人一首」といえばこの『小倉百人一首』を指すことになります。

 
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      藤原定家
                                                                                                                                                   
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     小倉百人一首(現存する直筆)
                                                               『小倉百人一首』の頭についている「小倉」は、定家が山荘を構えて百人一首を撰集したと伝えられる京都・嵯峨野の小倉山にちなんで、後年になってから冠されたものです。
嵯峨野に住を持っていた時には、探しもしなかった山です。定家が撰集した当時は固有の呼び名はなく、「小倉山荘色紙和歌」「嵯峨山荘色紙和歌」などと呼ばれていたそうです。
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京都・嵯峨野  小倉山
                                                        『小倉百人一首』で43首もの恋の歌を撰んだ定家は、その人生においても後白河院の娘・式子内親王を慕い続けた“愛に生きる人”だったようです。
彼が20歳のとき、28歳の内親王に出会って一目惚れ。以来、何かと内親王に尽くしてきましたが、彼女は48歳で病死。定家は悲嘆に暮れたとか。
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 式子内親王
                                                             ところでテイカカズラという、つる性の植物がありますが、この“テイカ”とは“定家”のことだそうです。
式子内親王の死後、彼女のことを忘れられない定家が、テイカカズラに生まれ変わって、彼女の墓に絡みついたという話(能『定家』)に基づいて命名されたとか。
安珍清姫に代表されるような女の執念も怖いですけど、男の執念も、げに恐ろしい・・・。

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   安珍清姫                                        
    
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    テイカカズラ
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マイナスをプラスにした「地の利」

2011年09月05日 | うんちく・小ネタ

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「地の利」を活かすのが本当にうまい県があります。
地の利ベスト3は、「本州最南端」「シラス台地」「遠い」。いや、ワーストと呼ぶべきかもしれないこれらの環境を見事に活用しているのが鹿児島なのです。

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1609年、薩摩藩は琉球を服属。そして琉球を通じて中国と交易し、その富で56万石から77万石に加増。江戸幕府は石高以上に中国の最新技術が薩摩に伝わることを恐れたますが、最南端の地の利だけはどうしようもなかったそうです。
1970年、大隅半島の内之浦宇宙空間観測所から、我が国初の人工衛星「おおすみ」が打ち上げられました。遠心力の関係で、ロケットの発射は赤道に近いほど有利。もちろん、南方戦線に近いという理由で特攻基地が設置された知覧の若者たちのことも、忘れてはならないのですが・・。

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「シラス台地」
たしか小学校の社会科の授業で「シラス台地は芋しかできない貧しい土地」と習った記憶がありますが、今はそうでもないようすです。ある時はあたり一面「知覧茶」の緑、またある時は焼酎用の芋「黄金千貫」、そして最近のブームは「そら豆」。シラス台地は変化に対応できる「カセグ台地」に進化したことになります。
シラス台地の新たな活用法として、株式会社ストーンワークスはシラスを圧着した「シラスブロック」を考案し、これに芝生を根付かせた「芝生緑化基盤」を発売。芝生が抜けにくく保水性が高いことから、屋上緑化や路面電車の軌道内緑化に活用されています。

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「遠い」
薩摩藩は関ヶ原で西軍についた外様大名ですが、江戸からあまりに遠いからか、統治はそのまま島津家となり領地も安堵されました。東京本社の幹部が鹿児島転勤をいやがり、現地採用の支店長に運営を任せたという感じかもしれませんね。
そして、任せた後は監査。江戸幕府もたびたび隠密を送り込んだようですが、なかなかうまくいかなかったとか。薩摩弁も含め、いろいろな点で江戸から遠いことが原因だったに違いありません。

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薩摩人の逆境をチャンスに変える力が維新の風を起こした・・・・。
鹿児島に行くと、そんな気概を肌で感じることができます。

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