あんなこと こんなこと 京からの独り言

「京のほけん屋」が
“至高の薀蓄”を 京都からお届けします。

コシヒカリを脅かすものたち

2009年11月30日 | うんちく・小ネタ

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米は2000年も前から日本人に愛されてきました。
だが、残念ながら最近の日本人は以前ほど米を食べなくなったと言われています。

1870年代、明治一桁の頃の日本は、米の生産量は2500万石、人口は3300万人前後でした。
一石(2俵半)が150キロ(0.15トン)なので、2500万石は375万トンの生産高となります。(100万石は15万トン。米5キロ=2000円とすると、1トン=40万円。よって100万石は40万円の15万倍に等しい=600億円。ちなみに石川県の実質県内総生産は5兆円です。江戸時代と諸々の物価水準や経済活動が違うとはいえ、100万石の威力は凄いですね)                              

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明治初期の2倍強でしかありません。
一方で、現代の日本の人口は1億2770万人。明治一桁時代の約4倍となっています。
つまり明治初期に比べ、現代の日本人は米を半分しか食べなくなった理屈になるのです。
おかわりをしない人が増えた・・ということでしょうか。

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さて、米の中で何を食べるかですが、スーパーの米売り場ではコシヒカリがやたら目に付きますが、統計結果から見てもその感覚は正しかったようです。
農林水産省の平成19年統計によれば、コシヒカリ(シェア36.2%)が2位のひとめぼれ(9.8%)以下を大きく引き離していました。

1.コシヒカリ 314万トン 36.2%
2.ひとめぼれ  86万トン  9.8%
3.ヒノヒカリ  84万トン  9.6%
4.あきたこまち 75万トン  8.6%
5.はえぬき   29万トン  3.3%

1位から5位までの合計で67.5%。
2位から5位まで全て足しても31.3%。
コシヒカリの圧倒的優位は揺るぎそうにありません。

ですが、都道府県別水稲収穫量1位品種を見ると、アンチ・コシヒカリの胎動を感じ取ることが出来ます(東京都と沖縄県は調査未実施のためデータ無し)。

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道府県別1位ブランド

北海道 きらら397
青森  つがるロマン
秋田  あきたこまち
岩手  ひとめぼれ(宮城と2県でトップ)
宮城  ひとめぼれ(岩手と2県でトップ)
山形  はえぬき
群馬  ゴロヒカリ
神奈川 キヌヒカリ(和歌山と2県でトップ)
岐阜  ハツシモ
愛知  あいちのかおり
和歌山 キヌヒカリ(神奈川と2県でトップ)

大阪、奈良、岡山、香川、愛媛、九州はヒノヒカリ(12府県でトップ) 東京と沖縄を除く他22府県ではコシヒカリがトップ。

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神奈川の人と和歌山の人はキヌヒカリで結ばれていることになります。奈良の人と鹿児島の人はヒノヒカリで結ばれているということでしょうか。同じ釜の飯を食った間柄が非常に強固なことは、古より伝わる事実です。
一宿一飯の恩義という言葉もあります。(冗談です・・)

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今後は単独トップ米(北海道のきらら397、青森のつがるロマン、秋田のあきたこまち、山形のはえぬき、群馬のゴロヒカリ、岐阜のハツシモ、愛知のあいちのかおり)の他都道府県進出に注目したいところですね。

ネーミングを再考した方が良いのではないか、というブランドもあるように思われますが・・・・・。

    

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銀座に「番外地」

2009年11月23日 | うんちく・小ネタ

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東京中央区の銀座は、日本を代表する繁華街です。

いまはビル街だが、かつては川と橋に囲まれた風情ある街で、築地川、汐留川、三十間堀、京橋川などが街なかを流れ、京橋、三原橋、新橋、土橋といった橋があちこちにかかっていました。「築地」「新橋」「京橋」という地名は、もともと川や橋の名前として知られていたものでした。

131「数寄屋橋」昭和20年

中でも、銀座のシンボルともいえる橋だったのが数寄屋橋で、1952年にNHKラジオで放送されたドラマ『君の名は』では、数寄屋橋を軸に物語が展開し銀座の名前をさらに高めることになったそうですね。

   23a_2                                                     『君の名は』1953年 

                                                                その銀座も、今ではすべての川が埋め立てられ、橋は消え失せ、頭上を高速道路が走っています。
数寄屋橋も現在では、数寄屋橋交差点という名前が残るだけになってしまいました。

0237_2数寄屋橋交差点 昭和30年代

253_2数寄屋橋交差点 平成21年   

                                                                 そんな銀座に地名も地番もない「番外地」があることを知りました。
日本で一番地価が高いところなのに、そんなものがあるのか?と思ってしまいますが、正真正銘本当の話です。

番外地があるのは、高速道路下の数寄屋橋交差点辺りなのです。

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                                                                  そこは、中央、千代田、港の3区の境となる川を埋め立てて作った土地で、埋め立ててから40年以上たっても、各区が互いに譲らず、自分の区の土地だと主張して、正式な住居表示が付けられないままになっています。
各区にしてみると、その土地が自分の区の範囲に入ると、固定資産税やその土地で商売している人からの税金など、いろいろな収入源が見込め、しかも高額になることから、簡単に「はい、そうですか」とは引き下がれないまま、40年が経過してしまったというのです。

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たまらないのは、そこで商売をしている人ですね。救急車を呼ぶにも住所がないことから、場所の説明に手間が掛かります。同所にある会社で携帯電話の契約をしようとしたら「コンピューター登録できない」といった事態もあったとか。

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とりあえず、警察や消防、税務署、保健所などは、話し合いで管轄を決めているようですが、区境が決まらない限り、番外地は番外地のまま、今後も存在し続けることになりそうです。

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三年不蜚不鳴

2009年11月16日 | うんちく・小ネタ

 

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月刊「スタジオヴォイス」(サブカルチャー誌)が休刊となりました。販売部数と広告売り上げが減少したためだそうです。1976年創刊ですから、ひとつの歴史がいったん幕をおろすようで、寂しい思いを抱いてしまいます。
ただ、救いは、廃刊ではなく休刊ということでしょうか。                                

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                                                                  そのことで、この言葉を思い出しました。

鳴かず飛ばず

広辞苑で調べると、
 
【鳴かず飛ばず】(なかず とばず)
(史記楚世家「三年不蜚不鳴」による)
将来の活躍にそなえて何もしないでじっと機会を待っているさま。現在では、長いこと何も活躍しないでいることを軽蔑していうことが多い。

《広辞苑・第五版》

言葉の中には、その言葉だけでは何のことだか意味がわからないけれど、その言葉にまつわる故事を知れば、ああなるほどと了解出来るものがあります。この「鳴かず飛ばず」もそうした言葉の一つだと思います。
元は「三年不蜚不鳴」ですから、「三年蜚(と)ばず、鳴かず」となるべきでしょうが、現在はもっぱら「鳴かず飛ばず」と使っているようです。

休刊というのは、この「泣かず飛ばず」の本来の意味に近いような気がします。

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広辞苑にあった史記楚世家「三年不蜚不鳴」ですが、春秋五覇の一人にも数えられる楚の荘王は、即位直後に皇族の謀反にあって拘束されたことがあります。幸いその謀反は首謀者が殺され、荘王も救いだされて決着しましたが、助かった荘王はこの事件が有ってから、政務を顧みず日夜遊興に耽るようになってしまいました。その間、発した命令といえば、

「王たる自分に、諫言などする者は全て誅殺してしまう」

という訓令だけ。当時の君主は家臣の生殺与奪権を持った存在ですから、いくら無茶な命令だとは判っていても、本当に実行されるかも知れないと考えると、王の所業を諫めるものはいなかったようです。

      Ab荘王                                                                                    

王が政務を顧みなくなると、直ぐに国が動かなくなるかというとそうでもありませんでした。年若い君主など遊びほうけていてくれた方が、よっぽど楽だという大臣や官僚たちも多く、これ幸いと自分たちに都合の良いように国を動かし始めました。
こんな状態でもすぐには大きな問題は生じなかったでしょうが、長引くと国を私物化する者たちが現れ、政治は乱れ始めます。そして三年。伍挙(ごきょ)いう家臣が遊興に耽る荘王の前に立って、

「王に、一つ謎かけをいたしたいと思います。ここに一羽のの鳥がいます。三年の間飛びもしません。鳴くこともありません。この鳥はいったい何という鳥でしょう?」

と謎々をだします。
この謎かけの言葉が・・・「三年蜚ばず、鳴かず」です。
この謎かけに

「三年飛ばない鳥なら、ひとたび飛べばきっと天まで達するだろう。三年鳴かない鳥なら、ひとたび鳴けばみなが驚く声を出すだろう。お前のいいたいことはわかった。もうしばらく待て」

と答えます。さらに王の遊興はしばらく続きますが、ついに死刑の訓令を恐れず蘇従という大夫が王に直諌するに至たって、荘王は遊興をぴたりと止め、親政を開始しました。
親政の始めまず行ったことは三年の間に国政を私物化したような大臣官僚を一掃し、その間もしっかりした仕事を続けた人物を重用することでした。

荘王にとって、三年の遊興の期間は若年の君主である自分が国を導いて行く上で害になる人物と有用な人物とを振るいにかけるためのテスト期間でした。
荘王はこのテストに合格した家臣達を使って楚の国を強国に発展させました。
荘王が重用した人物の中心に伍挙、蘇従がいたことはいうまでもありません。

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                                                                 この故事からすると、この言葉は辞書の説明の

「将来の活躍にそなえて何もしないで、じっと機会を待っているさま」
                                                                  が本来意の意味なのでしょうが、その説明の後に続く

「現在では、長いこと何も活躍しないでいることを軽蔑していうことが多い」
 
という使い方になってしまっているようです。ちょっと寂しいですね。

この世の中でどうにもならないもののひとつが「時代」だと言います。
その「時代」はどんどん進化していくものと、回り回ってまた戻ってくるものとがあります。

考え方ひとつですが、「スタジオヴォイス」とて、休刊は廃刊ではないのですから(基本的に・・)時代が追いつくか、もしくは新たなる時代の寵児として求められる時が来るやもしれません。逆に言えば、 “いつか” の時に、“そこだ” という内容で登場させられる『機会』を見つけられるかも知れません。

憂いてばかりいられない時代です。

先を見つめて頑張るしかないなぁと、思い知らされました。

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焼き芋のオプション?

2009年11月09日 | うんちく・小ネタ

                                                                 さつま芋は江戸時代以来、現代に至るまで人気の食べ物です。

寛政5年(1793年)の冬、江戸でさつま芋革命が起きました。
焼き芋の登場です。

現代的にいうならば、さつま芋を約70度前後で時間をかけてゆっくりと加熱すると、でんぷんが糖に変化する量が最大になります。
つまり、非常に甘くなるわけです。
江戸の人々は、試行錯誤を重ねて、この70度の焼き芋を生み出したのでした。

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更に幸運なことに、さつま芋はその独特の形状から、片手に持ちやすく大きさも手頃で、「テイクアウトできるスイーツ」として、女性や子供の心をつかんだのだとか。

そしてそこに、木戸番が登場します。
江戸の各町には木戸があり、不審な人物の出入りを見張る「木戸番」が警備をしていました。
焼き芋人気に目をつけた木戸番たちは、警備のかたわら、芋を焼いて売る内職を始めます。浪人の傘貼りよりも高収入の内職であったことでしょう。
こうして江戸のほとんどの町で焼き芋が売られるようになります。

31_8                                 木戸番(江戸時代)   

                                                                 時代は明治になると、人々がざんぎり頭で牛鍋をつつくようになっても焼き芋の人気は衰えを見せず、
明治30年代(1897~1906)の東京には830軒の焼き芋小売店があったとか。
しかし1923年の関東大震災でその多くが焼失してしまい、現代の焼き芋屋で由緒正しい店は数えるほどしか残ってはいません。
ちなみに、町でよく見かける屋台式石焼き芋や移動式石焼き芋は、戦後に登場した新式です。

111_2                                  焼き芋屋(明治時代)

                                                                さて、さつま芋と言えば、副産物としての放屁を語らずにはいられません。
下卑た話で恐縮ですが、日本文学を代表する作品にもこの表現が出てきます。

太宰治「富嶽百景」の中で、井伏鱒二が富士山の見える峠で放屁をしたと書かれています。
何でも眺望のよい峠に一緒に登ったはよいが、濃霧のために富士山が全く見られない。つまらん。
井伏氏はそこで放屁をしたというくだりです。

223_3                                 右から井伏鱒二・太宰治・小山裕士・伊馬春部                          

                                                                  原文にはこうあります。
「・・・井伏氏は、濃い霧の底、岩に腰をおろし、ゆっくり煙草を吸いながら、放屁なされた。いかにも、つまらなそうであった。・・・・・」

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後々、井伏氏は、自分は放屁などしていない、と抗議したとも伝え聞きます。
ですが、ご本人達が他界された今となっては、真偽の程は屁の・・あ、いや、霧の中となりました。

ただ言えることは、さつま芋を食した後はつまらなさそうに放屁するのが文学的と…いうこと。
くれぐれも、はしゃいだり、犯人探しをすることの無いよう、注意したいものです。

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耳障り

2009年11月02日 | うんちく・小ネタ

                                                               今日は耳障りについて少しお話を致します。

【耳障り】 (みみ ざわり)
聞いていやな感じがすること。聞いて気にさわること。
「耳障りな話」「耳障りな雑音」
   《広辞苑・第五版》

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「耳ざわりの好い音楽」という説明を聞いたり見たりしたことがあります。勘違い言葉というものがあるとするならこの「耳ざわり」はその勘違い言葉の代表格だと思います。
もし「みみざわり」を漢字で書けばこの勘違いは一目瞭然。

耳障りの好い音楽

では、好い音楽なのか癇に障る音楽なのか。
何か変だとすぐにわかります。

おそらく「耳ざわり」の勘違いは手触りとか肌触りといった「触り」と「障り」を混同した結果生まれたものでしょう。

肌触りの好い生地

といった使い方があるように「さわり」を「触り」とすれば「耳触りの好い音楽」と言う表現もなるほどと思いますが、やはり音楽が耳に「触る」というのは、まだちょっと無理があるように思えます。

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「耳ざわりの好い音楽」なんていう言葉そのものが、とっても「耳障り」な存在です。

「耳障り」と同じ使い方をする言葉としては「目障り」と言う言葉がありますが、こちらは流石にまだ「耳触り」流の勘違い言葉は生まれていないようです。

「目障りな奴」とは言っても、「目ざわりのいい眺め」と言われたら誰でもきっと「?」と感じることでしょう(目に触られたとしたら痛いでしょうしね)。
願わくば「目ざわりのよい色合い」なんていう文字を、今後も目にすることがないことを祈りたいものです。

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