あんなこと こんなこと 京からの独り言

「京のほけん屋」が
“至高の薀蓄”を 京都からお届けします。

瞑想する季節

2024年08月15日 | うんちく・小ネタ



先日、昭和20年8月10日から15日の間、
世界がどう動いたかを特集するテレビ番組を見ました。
大東亜戦争の終結を目前にし、情報が錯綜する様子が
見事に描かれていました。



一般的に、終戦の日は玉音放送が流れた8月15日ですが、
世界は8月10日に日本の降伏を知り、動き始めていたのです。
本土決戦を避けるため、鈴木貫太郎首相が短波ラジオで
ポツダム宣言受諾を発信したからなのです。



つまり、日本人だけ情報から取り残されていたことになります。
この短波放送を受信したアメリカはすぐに動き、
ソ連との覇権争いで優位に立つべく
「占領政策はマッカーサーが統括する」と宣言しています。



ドイツの占領政策でスターリンに東ドイツを取られた
トルーマン大統領が先手を打ち、巻返しを図りました。
同じ頃、ベトナムではホーチミンが、インドネシアではスハルトが、
そして、中国では毛沢東と蒋介石が誰よりも早く情報を入手し、
独立に向けて動き始めていました。



80年弱経った今でも、この教訓は十分生かせます。
いかなる状況下でもいち早く情報を入手し、分析し、行動するのです。
例えば、食品業界ではライバルメーカーどうしが
同じような新商品を前後して発売する場合が多いのですが、
先行を許した2番手は必死で情報を集めます。
ライバルの新商品を入手し、分析し、追随商品を開発するわけです。



この間、最短で1ヶ月。仮に特許が絡んだ商品でも、
申請した特許が公開されるまでに1年半、正式に登録されるとなると
5、6年後となるので、商品寿命を考えれば十分間隙を縫えます。
情報収集の成果かもしれませんが、追随した2番手メーカーの方が
美味しい場合がけっこうありますし、シェアと品質の相関もあまりありません。



情報戦争のあと、低価格戦争と販促戦争を勝ち抜いた
2番手商品の動向を、注目したいものですね。

8月15日が近づくたびに思うことなのです。


気楽な稼業を満喫するしかないですね

2024年07月15日 | うんちく・小ネタ


最近、知人が独立してコンサル会社を起業したのですが、
経営者として当然の壁に激突し、「ビジネスは本当に難しい」と
懊悩を吐露する電話をかけてきました。

当然ながら小生に当を得たアドバイスができるはずもなく、
覚えのあるビジネス書のエッセンスを3件伝授して、
復活の兆しを掴んでもらいました。



その1.セブン&アイ・ホールディングスの故伊藤名誉会長の悩み
商売の基本は、
「お客様は買ってくださらないもの」
「取引先は売ってくださらないもの」
「銀行は貸してくださらないもの」と考えるべき。
だから商売が本当に好きでないと続かない。
また、規模が大きくなると物事を「お金の物差し」で考えてしまいがちだが、
常に「人の物差し」で考えよ。
お客様と社員とお取引先を大事にするべし。




その2.人を動かすために「自分ごと」で考えるという博報堂の指南。
人を動かすヒントは「他人ごと」ではなく「自分ごと」で考えること。
親が子の立場で、上司が部下の立場で、社長が社員の立場で、
企業が生活者の立場で考える。
あたりまえの話ですが、相手自身にとっての「自分の視点」で
見ることがポイント。




その3.サラリーマン根性との決別という商工会議所のささやき
ビジネスマインドは
「結果」を重視、サラリーマン根性は「過程」を重視。
ビジネスマインドは
「報酬は成果の対価」、
サラリーマン根性は「報酬は労働の対価」。
ビジネスマインドの塊であるオーナー経営者と、
サラリーマン根性に毒されている社員との溝を埋めるには、
「会社は自分たちがつくる」という主体的な意識を社員が持ち続けること。




かつて、植木等が「気楽な稼業」と唄ったサラリーマン根性を捨て去り、
艱難辛苦の商人道へとステージを移した件の知人は、
「コピー用紙1枚のコストを考えて行動している」と言い残して
電話を切りました。

数字の全てが「自分ごと」なのだと、妙にしみじみと思った初夏の夜でした。



懐かしきボウリングブーム

2024年06月15日 | うんちく・小ネタ


接待で豆腐料理の専門店「とうふ屋うかい」を利用したことがあります。
場所は東京タワーのすぐそば。



ここに2000坪の広大な日本庭園を構え、山形の造り酒屋や
新潟の豪農屋敷を移築して異空間を演出しています。
東京のど真ん中で和の真髄が堪能できるということで、
53室ある個室のあちこちから外国人の声が聞こえていました。
会食の席で敷地の広さが話題になり、年配の仲居さんに来歴を尋ねました。




「もともとは東京タワーボウルっていう都内最大級のボウリング場でした。
64レーンもあって、昭和38年のブームの頃には東洋一とかって言われてたんですよ」



「昭和38年にボウリングブーム?」



当時のボウリング場はどこも満員で正月休みの予約が11月末で満杯。
賭け試合や高額な景品、未成年者の深夜入場など、風紀の乱れが社会問題にもなったとか。
我々が知るブームは昭和46年頃で、実際にボウリング場に行き始めたのは中学坊主の頃。
まだスコアが手書きの時代でしたから、点数計算できることが男子の必須条件でした。




こんな思い出話に酒量も進み、いつの間にかテーブルには徳利が林立。
酩酊の果てに、それがボウリングのピンに見えてきましたが、
あながち的外れな幻影ではありません。



日本初のボウリング場が青山に出現した翌年の昭和28年。
ある雑誌に掲載されたボウリングを説明する記事に、似たようなくだりがありました。


   「白い徳利みたいなものを向こう側に並べ、こちらから西瓜ほどの
                      プラスチック製ボールを転がして倒す遊び」


デザートに西瓜をオーダーしたくなった夜でした。