あんなこと こんなこと 京からの独り言

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多剤耐性菌

2011年02月28日 | うんちく・小ネタ

背筋がゾクっとするニュースが配信されています。ほとんどの抗生物質 が効かない「多剤耐性菌」の感染が相次いで報告されるようになったことです。アシネトバクターの大規模な院内感染が発覚した直後、インドや欧米などで感染が広がっている「スーパー耐性菌」と呼ばれるタイプの大腸菌が国内で初めて確認されたとのこと。鳥インフル以来の衝撃が広がりました。

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具体的には、大部分の細菌は手などを介して接触感染するので、手洗いなどの予防が有効としています。空気感染するものは一部に限られ、過度に警戒する必要はなさそうです。
やはり基本は手洗い励行。多剤耐性菌に限らず、インフルエンザや食中毒も心配です。基本を忠実に守っていきたいと思います。

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自分の病気以上に、身内・知人の病気は気になるもので、生き方や人生について、様々な方向から考える時間が増えて来ました。そんな時に読んだ本に、たまたま関連するような内容があって、共鳴したり、納得したり・・しています。

                                                                 糸井重里の本の一説には・・・
父の一周忌に家族が集まった。一緒に食事をしているとき、東京に住むゴルフ好きの兄貴が3度目のホールインワンをしたと、事もなげに言った。シングルプレーヤーを維持している彼はゴルフが好きで好きでたまらない。

どんなに平凡に見えても、つまらなそうでも、やってる本人が、誰が何といおうがたのしみだ、というもので、実際に楽しく続けられているものは、みんなたのしみとしてすばらしいものなんだ。人間ってものの、ほんとのところって、たのしみを中心に生きたいんだろうな。で、聞くんだけど。「たのしみは、あるかい?」
                 (糸井重里 ほぼ日手帳の名言)

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                                                                   また、川上弘美の短編小説集を読んでいて、こんな一節が目が留まりました。何度か読み返すうちに、胸が詰まりました。

『これが終わるまで生きてるかな。そんなふうに、しばしば思うようになったのは、この数年のことだ。深刻に思うわけではない。私はさいわい今のところ病気でもないし、市の健康診断で悪い数値が出ることもない。けれど、この年になると、なにしろあちらこちらにガタが来るのだ。朝起きると、突然膝が痛くなっていたり。体の全体がなんとなくしぼんだ感じになったり。心臓が苦しくなったような気がして、でもすぐにすうっとなおったり。人に会うのが面倒になったり。体の隅から隅までが完璧に元気、ということは、ほぼなくなってしまった。といって、終日苦しいとか、鬱々としている、ということでもない。(中略)鶏のまるごと煮こみを作ったのは、たぶん十年ぶりくらいだ。わびしいものだな。ヤマグチさんが帰ってしまった。一人のテーブルで、久しぶりに私は思う。深刻に思ったわけではない。いつもの、「これが終わるまで生きてるかな」ということを思う時と、同じように思ったのである。』
                   (川上弘美著「庭のくちぶえ」)

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「楽しみ」の数を増やして、その楽しみが一端終わっても、また次がある(明日がある)・・・という考え方が、人生を変えていくものだと、今にして、痛いほど感じ、考えるようになりました。

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ビッグマザー

2011年02月13日 | うんちく・小ネタ

                                                            「やは肌のあつき血汐にふれも見でさびしからずや道を説く君」
(熱くほてった肌に触れず人生を説くばかりで寂しいでしょう)

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                                                                 与謝野晶子の処女歌集『みだれ髪』に収められた、あまりにも有名な一首です。現代においてこそ、女性の自立、女性の主張も市民権を得、当然のことですが、明治34年の世に、女性の立場で艶麗な官能、奔放な情感をうたいあげたこの浪漫的な歌集は非常にセンセーショナルなものでした。

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与謝野晶子は明治11年(1878年)大阪堺市の老舗の羊かん屋の3女として生まれました。
本名晶(しょう)。女学校時代から源氏物語や枕草子など古典を愛読する文学少女で、10代半ばから短歌を作り始めます。二十歳頃に新聞で与謝野鉄幹の歌を知り深く感銘を受け、1900年(22歳)、4月に鉄幹が『明星』を創刊すると同誌で歌を発表。8月に初めて鉄幹と会い恋心が爆発。翌夏には鉄幹を追って家出同然で上京し、鳳晶子の名で第一歌集『みだれ髪』(6章399首収録)を刊行、その2ヵ月後に妻と別れた鉄幹と結婚します。時に晶子23歳、鉄幹28歳。

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                                                                          保守的な明治の世にあって、愛の情熱を自由奔放かつ官能的に歌い上げた『みだれ髪』は一大センセーションを巻き起こしました。

「みだれ髪を京の島田にかへし朝ふしていませの君ゆりおこす」
(みだれ髪を綺麗に結いなおして朝寝するあなたを揺り起こす)

「春みじかし何に不滅の命ぞとちからある乳を手にさぐらせぬ」
(春は短く命に限りがあるからと弾ける乳房に手を導く)

「罪おほき男こらせと肌きよく黒髪ながくつくられし我れ」
(罪多き男たちを懲らしめる為に我は肌も髪も美しく作られた)

彼女は封建的な旧道徳に反抗したことで、伝統歌壇から批判されますが、愛に根ざす人間性の肯定は民衆から熱狂的な支持を受け『若菜集』の島崎藤村と共に浪漫主義文学の旗手と称されていきます。

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それから3年後の1904年(26歳)、日露戦争の最中にロシアの文豪トルストイがロマノフ王朝に向けて発表した戦争批判が日本の新聞に掲載され、敵国国民の反戦メッセージに深く感動した晶子は、半年前に召集され旅順攻囲戦に加わっていた弟に呼びかける形で『明星』9月号にこう応えています。

「君死にたまふことなかれ すめらみことは戦ひに おほみづからは出でまさね かたみに人の血を流し、獣(けもの)の道に死ねよとは…」
(弟よ死なないでおくれ。天皇自身は危険な戦場に行かず宮中に安住し、人の子を獣の道におちいらせている)

この反戦歌は発表と同時に、日露戦争に熱狂する世間から“皇国の国民として陛下に不敬ではないか”と猛烈な批判にさらされることになります。

文芸批評家・大町桂月は

「晶子は乱臣なり賊子なり、国家の刑罰を加ふべき罪人なり」

と激しく非難しましたが、晶子はこれに反論すべく『明星』11月号に「ひらきぶみ」を発表。“この国を愛する気持ちは誰にも負けぬ”と前置きしたうえで

「女と申すもの、誰も戦争は嫌いです。当節のように死ねよ死ねよと言い、また何事も忠君愛国や教育勅語を持ち出して論じる事の流行こそ、危険思想ではないかと考えます。歌は歌です。誠の心を歌わぬ歌に、何の値打ちがあるでしょう」

と全く動じることはありませんでした。

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                                                                                         晶子は非難に屈するどころか、翌年刊行された詩歌集『恋衣』に再度“君死にたまふことなかれ”を掲載します。

その後も女性問題や教育問題などで指導的活動を続け、1911年(33歳)には日本初の女性文芸誌『青鞜』発刊に参加。

「山の動く日来(きた)る。(中略)すべて眠りし女(おなご)今ぞ目覚めて動くなる」

と賛辞を贈ってその巻頭を飾り、43歳で文化学院の創設に加わり自由教育に尽くします。
また、文学者としては短歌だけでなく、『新訳源氏物語』を始めとした古典の現代語訳にも多くの著作を残しています。

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                                                                    1930年代に入って満州事変、五・一五事件、国際連盟脱退と軍国化が進み、日増しに言論の自由が奪われていく中で、晶子は1936年(58歳、死の6年前)に国家の思想統制についてこう書き残しています。

「目前の動きばかりを見る人たちは“自由は死んだ”と云うかもしれない。しかし“自由”は面を伏せて泣いているのであって、死んでしまったのではない。心の奥に誰もが“自由”の復活を祈っているのです」

明星派の歌人として生涯にわたって鉄幹の仕事をサポートし(鉄幹は57歳の時に先立つ)、家庭では11人の子を育て、太平洋戦争の真っ只中の1942年に64歳で華やかにも美しい浪漫詩人の生涯を終えました。

一方、家庭では11人の子の母、鉄幹の妻として大正、昭和の動乱期を生き抜きます。(彼女は13人子どもを産み、そのうちの2人が亡くなっている)

彼女のことを「ビッグマザー」と呼ぶのは、こうした背景がありました。

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