狐は昔から妖力を持つと信じられてきました。 古来より、狐は狸とならんで、人を騙し、病気にさせ、また人化けすると言われ、そういう伝説や昔話は全国に分布しています。
平安初期の仏教説話集「日本国現報善悪霊異記(僧景戒撰)」には、狐が女に化けたという噺が見られます。
昔は狐の数も多く、人里に現れることが頻繁で、生殖・採餌の行動が特異なことなどから、農耕神の示現のように考えられたり、田の神の使いとして信仰されるようになったとされています。稲荷神社の狐がその現れなのだとか。
元々は「稲成り」であったという説もあります。
稲荷神社の秋祭りで神輿の鳳凰鳥が稲をくわえていますが、「豊作」の感謝の意であり、また春祭りは「豊作」の祈願(民間信仰の農村祭り)ではないかというのが説が元になっています。
茶吉尼天 (お稲荷さん)
民間信仰において、動物を神の使いとするものがあり、狐は、蛇と同様に代表的で狐神の信仰があり、霊的動物と見られたことによるのかも知れません。
これは「善霊」とした話です。
妖狐----------------------------------
狐が霊となり神となった「霊狐」の事で、300年以上生きると妖術を身につけ、妖狐になると言われでいます。 妖狐は二種類に分けられます。
●善狐
人々に幸運を運ぶという縁起の良い妖狐。憑くと幸運になる。
善狐は農業の神の使いとされ、お稲荷さまとして皆に慕われた。
稲荷神社祭りの時、神輿に稲をたずさえるのは、春なら米の豊作を祈り、秋は収穫を感謝するものである。
金狐-----日をシンボルとした妖狐
銀狐-----月をシンボルとした妖狐
白狐-----善狐代表的な幸福の妖狐
人々に福をもたらしてくれる善狐。
一説ではこの狐にも九本の尾が生えているらしい。安部清明の母がそうだと言われている。霊力に、とても長けている。
黒狐-----北斗七星の化身と呼ばれる妖狐
天狐-----千歳を超えた九尾の狐より上ランクの妖狐
玄中記にも記され、『狐は千歳になると千里の外の事を知るようになり、天と通じて天狐となる』という。 四つの尾を持っているとされている。
空狐-----3000歳を超え、通力を自在に操れる大神狐。
これらが善狐である。
●野狐
善狐とは逆の存在で人々に不幸与える者。
人を病気にしたり女に化け悪戯をしたり・・・。 人を悩ます事を喜びとする。
狐憑きとは、大抵は野狐が憑いているのだが、善狐が人に憑くと病気が治ったり幸運になったりする。
●金毛九尾狐(九尾の狐)
野狐最高ランクの最もタチの悪い妖狐。
野狐の一種。有名な妖狐。九本の尾を持ち、高い妖力を所持する。
ただ、金毛九尾狐は野狐といっても少し違い、自分を信仰すれば、善狐のように崇める人を助け、祝福はするが崇めない場合は野狐としての災いや不幸を及ぼす。
歌川国芳 「班足太子と九尾の狐」
☆金毛九尾狐伝説
中国の殷(いん・・・前17世紀~前11世紀半ばにかけて黄河中流域を支配した古代王朝。 日本では殷とよばれるが、これは次の周王朝がつけたもので、自らは商と称した。商人と言葉の発祥である。
周がなぜ殷と呼称する理由は明らかではない。)、中天竺(ちゅうてんじく)の耶掲陀国(まがだこく)の班足(はんそく)太子の前には華陽(かよう)婦人として、中国の周(しゅう)の幽王(ゆうおう)の時には褒似(ほうじ)と名乗って現れた金毛九尾の妖狐は、王を巧みに惑わして暴君に変身させ、国を滅亡へと導いた。
妖狐は、その後天平7年、遣唐留学生として唐(から)に渡っていた吉備真備(きびのまきび)が帰国する船の中に乗り組み、若藻という美少女に化け、日本に渡って諸国を歩き、数百年を過ごし、堀川院の時代には女の捨て子に化け、山科で謹慎中の武士・坂部友行に拾われ、藻と名付けられ育てられた。藻は成長するに従って和歌の才能を発揮し、7歳になると宮中にあがり、やがて玉藻前として鳥羽帝の側女に取り立てられ寵愛された。
玉藻前が側女に取り立てられてからというもの、鳥羽帝は原因不明の病に冒され続けた。陰陽師安倍泰親に占わせてみると、神鏡に白面金毛九尾の妖狐が現れた。
それが玉藻前であることを突き止め、見破られた妖狐は、東国の那須野が原へと逃げ去り、またまたここで数々の悪事を働いた。
下野(しもつけ)の国那須郡の領主・那須八郎宗重は、朝廷に対して訴え、泰親から妖狐が恐れる神鏡を借り受けた。
神鏡の威光に恐れをなしてか、妖狐の悪事は間もなく収まった。
葛飾北斎 『三国妖狐伝 第一斑足王ごてんのだん』
しかし、その十数年後、妖狐が再び悪事を働き領民を苦しめるので、朝廷は安倍泰親、安房(あわ)の国の三浦介義純(「義明」とする文献もある)、上総(かずさ)の国の上総介広常を那須野が原へ遣わして、八郎宗重とともに退治するように命じた。
妖狐は、泰親の祈祷と三浦介・上総介によって退治されたが、天が俄にかき曇り、天地は鳴り動き、稲妻が頻繁に起こったかと思うと、その屍は大きな石と変った。
それから二百数十年後、石化した妖狐の凄ましい怨念は残り、毒気を放って近づく領民や獣、上空を飛ぶ鳥などを死に至らしめたので、人々は「殺生石」といって恐れおののいた。
災禍が止まないことを憂いた朝廷は、会津の示現寺に住んでいた玄翁和尚(げんのうおしょう・「源翁」とも記される)が遣わされ、長い祈祷の後に玄翁が持っていた杖で石を叩くと、殺生石は砕け散り、ようやく妖狐の霊は成仏した。
以上が「絵本三国妖婦伝」の小説のあらすじです。
玄翁和尚が調伏した殺生石は、栃木県那須郡那須町湯本に存在しており、現在の殺生石付近は観光地となっていますが、かっては那須岳の火山性有毒ガスが噴出し、近づく者を死に至らしめたとされています。
中国の歴史書や「日本書紀」は、音をたてて翔ける流星のことを「天狗」(あまきつね)と呼んでいました。 天狗(てんぐ)の起源なのか、夜空に尾をたなびかす流星は、天を駆ける妖狐の姿を思ったのではないでしょうか。
〇付記
稲荷寿司の語源は、稲荷神の使いである狐の好物に由来します。
狐の好物は、古くから鼠の油揚げとされており、狐を捕まえる時にも鼠の油揚げが用いられたそうです。そこから、豆腐の油揚げが稲荷神に供えられるようになり、豆腐の油揚げが狐の好物になったとされています。
その豆腐の油揚げを使うことから、「稲荷寿司」や「狐寿司(きつねずし)」「揚寿司(あげずし)」と言われるようになりました。
「しのだ寿司」の名称は、信太の森に住んでいたとされる葛の葉狐に由来しているとかで、 発祥は、愛知県豊川市にある豊川稲荷の門前町で、天保の大飢饉の頃に考え出されたと言われています。
豊川稲荷 / 「しのだ寿司」