極東アジアの真実 Truth in Far East Asia

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日本の建国・国体の真相を知っていた、御庭番(おにわばん)であった西郷隆盛

2018-02-19 14:41:53 | 日本社会

以下文はウィキペディア等々を参考にして記していますが、歴史には素人の文で可笑しな箇所が多々あると思いますので、まとまりの無い日記とします。

 

NHK大河ドラマ・西郷どんが放映されていますが、西郷隆盛を語る上で避けて通れないのが御庭番(おにわばん)で、南朝側の御庭番と言えそうです。

日本ではタブーの一つでもある日本と古代ユダヤ人・・・これは間違いない事実と言われていますが公に出来ません。日本の国体の秘密でもあるでしょう。歴史の事実として日本には2000年以上前から古代ユダヤ人が多く渡来していたようです。

南朝(後醍醐天皇等)は旧約、聖書に出来てくるユダヤ人・アブラハム、イサク、ヤコブの血統(12部族等)でこの中でも祭司、族長等の頂点に位置していた人達が天皇と言えそうです。後醍醐天皇以降、皇統が薄い北朝の天皇になりますが、明治天皇即位までの間、山口の毛利家が後醍醐天皇の皇統が途絶えないように血筋を守ってきました。この血筋が明治天皇と言われています。西郷家の先祖の血筋も血統的古代ユダヤの血筋と考えるのが自然だと思いますし、本人もこれらの事実は熟知していたでしょう。西郷隆盛は本当の皇統である南朝の明治天皇にこだわっていたのがこのあたりにあると思います。西郷隆盛は南朝側(明治天皇以前は北朝、本当の皇統は南朝)の天皇を据えた外国にも対抗できる新政府を作りたかったと思います。

御庭番とは、江戸時代の第8代将軍・徳川吉宗が設けた幕府の役職で将軍から直接の命令を受けて秘密裡に諜報活動を行った隠密をさしています。諜報活動と言っても、時々命令を受け、江戸市中の情報を将軍に報告、身分を隠して地方におもむき情勢を視察したりしていた程度ですが、実態は大目付や目付を補う将軍直属の監察官に相当する職であるとも言われています。

西郷隆盛も松尾芭蕉同様、情報収集員の一面を持っています。西郷隆盛本人の履歴は公表されたものは容易に調べることが出来ますが明治天皇(厳密に言えば、らしき写真があります。)同様、写真は無く、肖像は全て絵画となっています。

西郷 隆盛(1828年~1877年)は薩摩藩の下級藩士で、諱(いみな:生前の徳行によって死後に贈る称号)は元服(男子が11才~17才位に成人し髪形、服装を改め、初めて冠をつける儀式)時に隆永、後に武雄・隆盛に変更、幼名は小吉、通称は吉之介、善兵衛、吉兵衛、吉之助と順次変更、号(本名とは別に使用する名称)は南洲、隆盛は父と同名です。先祖以来南朝側でもあり、日本の建国、国体の核心・真相を間違いなく知っていたようです。

西郷隆盛を育て上げたとも言われる島津 斉彬(しまづ なりあきら)は、江戸時代後期から幕末の外様大名で、薩摩藩の第11代藩主、島津氏第28代当主で薩摩藩の富国強兵に成功した幕末の名君の一人です。

藩主就任後、藩の富国強兵に努め洋式造船、反射炉・溶鉱炉の建設、地雷・水雷・ガラス・ガス灯の製造などの集成館事業を興しています。嘉永4年7月には、土佐藩の漂流民でアメリカから帰国した中浜万次郎(ジョン万次郎)を保護し藩士に造船法などを学ばせたほか、安政元年(1854年)、洋式帆船・いろは丸を完成させ帆船用帆布を自製するために木綿紡績事業を興しています。西洋式軍艦・昇平丸を建造し幕府に献上しています。昇平丸は後に蝦夷地開拓時、咸臨丸とともに活躍しています。黒船来航以前から蒸気機関の国産化を試み、日本最初の国産蒸気船・雲行丸を作り上げました。

 

西郷家は熊本・菊池藩(南朝)から鹿児島に移っています。西郷隆盛の祖先は熊本の勤皇武士・菊池一族とも言われ、菊池氏は,南朝方に忠勤を励んだ一族とも言われています。菊池氏一族の居城の増永城(菊池市内、別名を西郷城)内には西郷隆盛先祖碑があります。

薩摩藩の下級武士でしたが、藩主の島津斉彬(西郷隆盛等、幕末に活躍する人材も育てています。)に抜擢、当代一の開明派(進んだ欧米文化を積極的に取り入れるべきとする派)大名であった斉彬の強い影響を受けたと言われています。斉彬の急死で失脚、奄美大島に流されていますが、西郷隆盛の引渡しを要求した幕府官吏を追い返すために薩摩側が細工した方便として、奄美大島への流刑処分は罪人だから菊池源吾(先祖が菊池からとったと言われています。)と名前を変えています。

その後復帰しますが、新しい藩主・島津忠義の実父で事実上の最高権力者の島津久光と折り合わず、再び沖永良部島に流罪になっています。

しかし、家老・小松清廉(帯刀)や大久保利通の後押しで復帰、1864年の禁門の変長(州藩が京都での復権を目指して、会津藩の排除を挑んだ武力)衝突以降に活躍、薩長同盟の成立や王政復古(江戸幕府を廃し、摂政・関白等の廃止と三職の設置による新政府の樹立を宣言した政変)に成功、戊辰戦争(倒幕派と幕府派との間の一連の戦い)を巧みに主導しています。

江戸総攻撃を前に勝海舟らとの降伏交渉に当たり、西郷隆盛が示した降伏条件は、「徳川慶喜の身柄を備前藩に預けること。江戸城を明け渡すこと。軍艦をすべて引き渡すこと。武器をすべて引き渡すこと。城内の家臣は向島に移って謹慎すること。徳川慶喜の暴挙を補佐した人物を厳しく調査し、処罰すること。暴発の徒が手に余る場合、官軍が鎮圧すること。」を受け入れて総攻撃を中止、これが有名な江戸無血開城です。一般の歴史には出てきませんがこの江戸無血開城に欧米に失望したと言われています、何故なら日本を混乱に落としいれ将来的には支配下等する魂胆だったとも言われています。

以後、薩摩へ帰りましたが、明治4年に参議として新政府に復職、その後陸軍大将を兼務、大久保、木戸ら岩倉使節団の外遊中には留守政府を主導しています。

朝鮮との国交回復問題では朝鮮開国を勧める遣韓使節として自らが朝鮮に赴くことを提案し一旦大使に任命されていますが、帰国した大久保らと対立してしまいます。当時の背景は欧米がとにかく日本を支配しやすいように国内を混乱させようと策略等していたとも言われています。推測の域ですがこの欧米に日本の独立を勝ち取りたいと反対していたのが西郷隆盛と言えるかも知れません。

この時期、有名なのが征韓論です。ロシア南下の脅威を韓国に知らせ、日韓両国で防ぎましょうと言う論で、この論は決して韓国を日本が力で治めようとするものではありません。今でも韓国のみならず日本でも間違った解釈がされています。この論の延長上が地政学的な日本の朝鮮半島統治だと思います。日本は朝鮮半島を力で植民地化することは念頭においていません。歴史の事実として朝鮮半島民に対しては日本同等の扱いをしています。

征韓論・西郷隆盛の心・・・

天は人も我も同一に愛し給うゆえ、我を愛する心をもって人を愛するなり。天は、他の人も私も同じように愛して下さっている。だから自分を愛する心をもって、他の人をも愛するのだ。聖書のあなた自身のようにあなたの隣人を愛せよだと思います。
敬天愛人(けいてんあいじん)、天を敬い人を愛することこそが人間の生きる道なのだ、文明とは仁愛の道が広く行なわれることであるとも言っています。

日本人は古くから神を尊び、祈る民だと思います。大義のためには自分を捧げることを厭(いと)いませんでした。

西郷隆盛も、身は君恩に答えて一死軽しとも言っています。主君のためには、自分の一身を捧げて死ぬのも軽いとしたのです。明治維新という国家の大義のためには、己を捨て死を賭して事にあたっています。人を相手にせず、天を相手にせよ。天のためには自分の命をかけています。

明治天皇の和歌
目に見えぬ神の心に通うこそ人の心の誠なりけれ。

明治6年の政変で江藤新平、板垣退助らとともに下野、再び鹿児島に戻り、私学校で教育に専念しています。

佐賀の乱、神風連の乱、秋月の乱、萩の乱等士族の反乱が続く中で、明治10年に私学校生徒の暴動から起こった西南戦争のリーダーとなりますが、敗れて鹿児島・城山で自刃(切腹)しました。西南戦争では過去、戊辰戦争等で官軍と戦い敗戦、悲惨な多くの辱めを受けた会津藩士達が怨念、恨みを晴らすために率先して政府側に入り、徹底的に薩摩軍を攻撃等したとも言われています。

西郷隆盛は死後、名誉を回復され、位階(国家の制度に基づく個人の序列の標示)は贈正三位位(階及び神階のひとつ)、功により継嗣(相続人)の寅太郎が侯爵(華族の階級)となっています。

緒論ありますが、西郷隆盛は当時日本を支配下に置こうと虎視眈々としていた欧米等を見抜いていたと思います。西郷隆盛は幕末の日本を救ったとも言えると思います。

 


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