極東アジアの真実 Truth in Far East Asia

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ハワイ玉国の真実、アロハ・オエ・・・

2015-06-12 17:40:27 | 日米
日本人にもっとも親しまれているハワイ、口ずさむ歌、アロハ・オエ

作詞作曲(リリウオカラニ王女、カラカウア王の実妹)

雨が誇らしげに尾根を横切り
森の中を通り抜けていく
未だ開かぬ蕾を探しているかのように
山あいに咲くレフアの花よ。

あなたにアロハ あなたにアロハ
木の陰に佇む心優しき人
去っていく前に
もう一度あなたを抱きしめよう
また会えるその時まで。

懐かしく暖かい思い出が胸をよぎる
ついこの間のことのように
愛する人よ 我が愛しき人よ
真心は決して引き裂くことはできない。

私はあなたの素晴らしさをよく知っている
マウナヴィリに静かに咲くバラの花
そこにいる啼かない鳥たち
そして木の陰にいる美しい人
雨が誇らしげに尾根を横切り

ホノルル観光地の目玉の一つ、カラカウア宮殿(現在は宮殿見学ツアーで内部を見ることができます。)、庭にはカラカウア王の金色の銅像・・・ハワイ王国は約100年、1893年米国併合まで王国を保っていました。ハワイ王国の細部は日米両国の学校で学ぶことは有りません。現マスコミ等も細部に触れることは有りません、日本との深い関わりがあります、深い関わりの現れに日本の国技、相撲歴史上初めてハワイ出身者を迎えたと言われています。

1881年、ハワイのカラカウワ王が世界一周旅行の途上、横浜港に到着、日本海軍軍楽隊はハワイの国歌ハワイ・ボノイ(ハワイの国民)を演奏して歓迎しました。日本側の心のこもったもてなし、異国の地で自身が作詞した国歌を聴かされ涙したと言われています。
翌日には特別列車で横浜駅から新橋駅に着き、当時の皇居であった赤坂離宮に向かいましたが、横浜港も鉄道等も日本人のみで運用・・・白人を見なかった事に強い感銘を受けたそうです。

当時のハワイ王国は、白人が国土の75%以上を保有、政府の要職も独占、土地所有の概念のなかったハワイ・・・ただ同然の値段で土地を買い占められ、独立維持、近代化するためにも、白人を政府要職につけるしかなかったと言われています。
白人の持ち込んだ淋病、天然痘等、免疫のなかったハワイ人は百年間で人口が30万人から5万人に激減するという危機に瀕していました。

同じ黄色人種同士、日本と同盟を結んで、アジア・太平洋地域に連合を形成し、白人の外来勢力の拡大を阻止、独立を全うしようというのが、カラカウア王の夢であったと言われています。

1900年3月10日夜、王はアメリカ人の随行員らを出し抜き、日本人通訳のみを連れて密かに赤坂離宮を訪れ、明治天皇との会見、天皇側は夜中の訪問深夜にも関わらず会見出来ました。王は日本の伝統文化、近年の国家的隆盛を賞賛、現状のハワイ王国の内憂外患の窮状を述べ、日本の協力を仰いだと言われています。

第1に日本人移民の実現、ハワイ人の人口減少を同一種族である日本人の植民で補おうというものであったと言われています。

第2に、やがて王位を継がせる姪のカイウラニ王女と日本皇族・山階宮定麿親王との婚約の申し入れ、第3に、ハワイと日本の友好によって、将来の太平洋の発展に寄与したい、という三点であったと言われています。

これらのカラカウア王の行動に、ハワイの白人指導者層とアメリカ政府は警戒の念を抱いたようです。国務長官ジェームズ・ブレインは、ハワイ駐在米国大使ジェームズ・コナリーに次のような見解を示しています。

過去30年間にわたって、アメリカは、合法的に北太平洋における支配的影響力を獲得してきたので、我々に敵対する勢力の侵入によって、我々の影響力が減少するのを認めるわけにはいかない。

ハワイと日本の皇室が婚姻関係を結ぶことは、米国の敵となる。ペリーの砲艦外交に屈して開国し、明治維新後わずか14年の日本には米国と対抗する力はなかったので、やむをえなかったと思われます。

翌年、明治天皇はカラカウア王に特使を派遣、婚姻の議は丁寧に謝絶しました、皇室にはそのような前例がない、米国の勢力圏に立ち入るのを好ましくないとの理由でした。

特に移民については、ハワイ側から再三の要請で、1885年には官約移民が実現しました。移民船がホノルルに到着した際には日本移民のための歓迎会には、王自身が自ら参加、日本酒が振る舞われ、ハワイ音楽やフラダンス、相撲大会が催されたと言われています。
勤勉な多くの日系移民は、20世紀初頭には日系人人口が全体の4割と民族別では最大の割合を占めるようになったようです。

カラカウア王を警戒し、米人勢力は1887年6月30日、13人委員会なる代表団が新憲法を起草し、白人武装集団ホノルル・ライフルズの圧力のもとに、24時間以内に承認の署名を行うようカラカウア王に求めました。

王の政治的行為はすべて議会の承認を要する、議会選挙では、土地所有を有権者の条件、ハワイの人口の約3分の2、すなわち多くのハワイ人とほとんどすべてのアジア人を選挙から排除するものでした。

1891年1月、病死したカラカウア王の後を継いで、実妹のリリウオカラニ女王が即位しました。女王は1893年1月14日、ハワイ人にも選挙権を与える新憲法の発布をしようとしました、翌日にはイオラニ宮殿前では数千人のハワイ人が集まって、女王支持のデモを展開しました。

白人側はこれを機に一気に王制打倒を目指しました。米国公使スティーブンスは、16日に血に飢えた、そして淫乱な女王が恐怖の専制王権を復活させようとしていると訴え、米国人市民の生命と財産を守るためにと、ホノルル港に停泊中の米軍艦ボストンから、武装海兵隊員160余名を上陸させ、政府庁舎や宮殿近くを制圧しました。

軍艦ボストンの主砲はイオラニ宮殿に向けました。白人有力者たちは臨時政府を組織、女王は流血を避けるために王権を放棄しました。

2月、スティーブン公使は臨時政府をアメリカの保護下に置くことを承認し、ハワイ政府庁舎に星条旗が掲揚されました。
ハワイの実(西洋梨)は完熟し、今こそアメリカがそれをもぎ取るのに、黄金の時が訪れているとフォスター国務長官に、ハワイ併合を訴えました。

混乱の中で、米国政府をも驚かす事態が発生、アジアの小国日本がハワイに軍艦を派遣しました。2月23日、巡洋艦浪速(1884年、イギリス、ニューキャッスルのアームストロング社のロー・ウォーカー造船所で 起工、1886年2月15日に竣工し、二等艦と定められた。日本海軍が採用した最初の 防護巡洋艦)さらに5日遅れて金剛が相継いでホノルル港に入り、米軍艦ボストンの隣に投錨・・・浪速の艦長は東郷平八郎大佐・・・後に日本海海戦を指揮して世界に勇名を馳せた武士道精神の宿る名提督です。日本の浪速入港に女王を支持する原住民らは涙を流して歓喜したといわれています。本当にこのころの日本は、貧しかったが輝いていました。

カラカウア王の要請した日本からの移民は、1885(明治18)年から始まり、この年までに2万5千人に上がりました。日本人移民の「生命と財産を守るため」というのが、表向きの理由でしたが、女王側からの緊急要請があったとも言われています。

入港した巡洋艦、浪速は臨時政府には挨拶に行きませんでした。日本の2艦は米人たちに無言の圧力を与えたのは間違いないと言われています。

巡洋艦、浪速は3ヶ月ハワイに留まった後、いったん帰国、一年後に再び姿をハワイに現しました。臨時政府は建国一周年を祝う、21発の礼砲を要請したが、東郷艦長はその理由を認めず!と突っぱねました。
ホノルル軍港の各国軍艦はこれにならいました。

ハワイ人の間では日本の軍艦が味方してくれたという話が語り継がれ、子どもに東郷と名づけたり、ある地域では「浪速」が「ありがとう」の意味で使われたりしたと言われています。

臨時政府側にとって誤算だったのは、クーデター直後の3月4日に就任した名誉を重んじ、正義心の強いクリーブランド大統領(第24代、グロバー・クリーブランドStephen Grover Cleveland)は、ハリソン前大統領(第23代、ベンジャミン・ハリソンBenjamin Harrison)とは違ってハワイ併合に消極的だったことです。

クリーブランド大統領が派遣した特使は米国旗を降ろし、米兵たちに自艦に戻るように命じ、さらにこの革命はスティーブンス公使と現地白人有力者たちの画策であったと本国に報告しました。

クリーブランド大統領は議会で、ハワイは誰もが同意も希望もしなかったのに、アメリカの軍事力によってアメリカの所有物になってしまった。アメリカによるホノルルの軍事占領はまったく正当化できるものではないと主張、アメリカの名誉と正義のためにも、あらゆる努力を真剣にはらって償いをなすべきであると、王政復古への援助を示唆しました。本当にすごい大統領です、弱肉強食の時代に堂々と議会で主張する姿勢は、正しく大国の誇り溢れる姿と思えますし、日本人から見ても尊敬に値する指導者、大統領だと思います。

臨時政府側は、ハワイ併合までには時間がかかると判断して、アメリカ公使と米軍がとった行動は臨時政府側の責任ではなく、またクリーブランド政権の姿勢はハワイへの内政干渉だとして、突っぱねました。

1894年7月4日、アメリカの独立記念日を選んで、新憲法の発布を行い、正式なハワイ共和国として出発しました。
新憲法では選挙権は高額の財産を持ち、王政復古に加担しないという宣誓を行い、英語かハワイ語を読み書きできることという条件をつけたので、大多数のハワイ人と日系移民を含むほとんどのアジア人は周到に政治権力から遠ざけられていました。

翌1895年1月16日、ハワイ人王政派が武装蜂起したが短期間で鎮圧、多くの原住民が虐殺されました。この武装蜂起を支援したとしてリリウオカラニ女王が逮捕・幽閉されました。リリウオカラニ妃は参加していませんでしたが、武器弾薬が庭に埋められていたとして反逆罪で逮捕・・・1年以上の幽閉の後、共和国への忠誠を誓い、一般市民として静かに余生を送るという誓約書に署名しました。

アロハ・オエはリリウオカラニ妃作曲で、人と神、自然との一体感を甘く物悲しい旋律で歌ったこの名曲は、最後のハワイ女王による盗まれた楽園への挽歌になってしまいました。

長い歴史、武士道を発露する等、日本の国技である相撲・・・皇室への奉納・・・初めてハワイ出身、高見山が入門しましたが、日本とハワイの深い繋がりにより決定されたと言われています・・・現相撲の出稼ぎ相撲では有りません。皇室に奉納する神事を理解されている力士達と言われています。

ハワイの歴史は日本を抜きにしては語れません、1898年米国50州目に組み込まれたハワイ、日本人はハワイの主要産業は観光と思いがちですが、現地の方に聞くと、実は圧倒的に軍事収入が多いと言われています、公には公表は避けてると言われてます・・・日本とハワイに流れる深い絆・・・いつまでも大切にしたいですね。

ウィキペデア、ネット資料等々を一部使用しています。

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