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音楽全般について 素人臭い能書きを垂れてます
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メンデルスゾーン 劇音楽「真夏の夜の夢」/セル&クリーブランド管 (SACD)

2005年07月25日 01時01分31秒 | クラシック(一般)
 「真夏の夜の夢」といえば、もちろんシェークスピアのドタバタ劇ですけど、若き日のメンデルゾーンがこれ読み、いたく感激....したのかどうか知りませんが、ともかく仮想のオペラか劇音楽だかのための序曲として、作曲したのがこの「真夏の夜の夢」序曲という作品。メンデルスゾーンはモーツァルト並の神童だったらしく、この「真夏の夜の夢」も、天才としかいいようがないめくるめくような楽想の豊富さに加えて、少年期特有のファンスティックさが前期ロマン派的な色彩感と絶妙にマッチして、まさに「神童の音楽」としかいいようがない傑作になっています。で、これには後日談があって、それから17年後、つまりメンデルゾーン34歳の時に、プロシアの王様から「真夏の夜の夢」の劇音楽を作れという依頼がきて、それに答えて、作ったのが序曲を除いた劇音楽「真夏の夜の夢」という訳。

 劇音楽「真夏の夜の夢」というのはフルに演奏すると声楽が入ることもあり、アルバムにせよ、演奏会にしても全曲演奏されることはあまりありませんけど、「序曲」、「スケルツォ」、「夜想曲」、「間奏曲」、「結婚行進曲」の5曲を抜粋した組曲については、アルバムなどもけっこうあるようで、私は組曲についてはジョージ・セル指揮クリーブランド管弦楽団によるこのパターンでの演奏で知りました(全曲版はペーター・マークとスイス・ロマンド響の演奏で)。セルとクリーブランドの演奏はとにかく合奏の精度が高く、リズムがきっちり揃っている上に、フレージングはべったりせずクリーンそのものな感じで、そのあたりが作品とセルと合っていたんでしょう。その後、CD時代に入って聴くことになるプレヴィンとウィーン・フィルの演奏など、セルの演奏を聴いてしまうと、リズムが切れがあまりに鈍重で、改めてセルの演奏の偉大さを痛感したのです。とにかく、なにげに聴いていたこの演奏は、実は大傑作だったんですね。

 そんな訳なので、この演奏のSACDは発売された時はすかさず購入しました。この演奏はセル晩年の67年の収録ですから元々音は悪くなく、従来出ていたCDでも充分に良い音でしたが、SACDは新たなマスタリングがされたようで、ホールトーンが良く聴こえ、各楽器の存在感も明瞭、低音もかなりゆったりとして、より生音に近い、スケールの大きな音に変身しています。こうした理想的な音で聴く「真夏の夜の夢」は最高です。
 「スケルツォ」では、ちょこまかした妖精の踊りみたいなムードを弦と木管が実にクリアなトーンで表現していますし、「夜想曲」ではホルンの響きかなんともロマンチックな曲ですが、このあたりも決して鈍重にならずすっきりと演奏させている当たりセルの真骨頂でしょう。「間奏曲」はちょっとメランコリックなムードが印象的ですが、ここでも弦のフレージングが実にクリアで清潔、まさにメンデルゾーンにぴったりなんですね。まさに「真夏の夜」にひんやり聴くにはぴったり。かの有名な「結婚行進曲」もこの曲特有の賑々しさはぐっと控えめにして、かけぬけるようにさらりと演奏しているのも、彼らしいところでしょうね。

 ともあれ、私にとっては「真夏の夜の夢」組曲といったらこの演奏にとどめをさします。あっ、あと全曲でいったら、前述のとおりペーター・マークとスイス・ロマンド響の演奏ですかね。あまり有名ではないかもしれませんが、この曲のファンスティックさに焦点あてたとても良い演奏だったことを思います。これ、自宅にはもうアナログ盤がないのですが、CD化されてるんでしょうかね?。あぁ、なんか急に聴きたくなってきたなぁ。
コメント (2)
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マーラー交響曲第3番/クーベリック&バイエルン放送響 他

2005年07月25日 00時01分01秒 | マーラー+新ウィーン
 夏に聴きたくなる音楽というのは、ポピュラーミュージックは沢山あるけれど、クラシックの場合あまりない。ただ、このマーラーの交響曲第3番は初夏の頃になるとよく思いだし、なにげに脳裏に流れたりする。ただし、実際に聴くことは最近すっかりなくなってしまった。理由は何かといえば、あまり巨大かつ長大過ぎるである。全6楽章。特に軽く30分を超える第1楽章と、長い演奏だと25分近くに第6楽章は巨大だ。この両端楽章に挟まった4つの楽章も歌曲みたいな第5楽章をのぞけば、みんな長い。したがって、この曲はほぼ間違いなくCD一枚に収まらず、たまに聴く気になっても、この分量の前にまずは精神的にメゲしてまうことが多いのである。余談だが、CD一枚に収まる収まらないというのは、例えトータルで5分くらいしか違わなかったとしても、心理的に受ける分量としてはずいぶん違うように思う。

 ブログを書くというのは、こういうちょっと縁遠い曲を聴く格好の動機付けをしてくれる。ちょうど音楽好きの友達が自宅にきて、私自身は食傷してしまった曲をリクエストに答えて、あれこれいいながら一緒に聴いている感じに似ている。つまり意外と新鮮に聴けるのである。
 さて、マーラーの交響曲第3番だが、初めて聴いたのは多分四半世紀前くらいだからもう大昔である。演奏はバースタインとニューヨーク・フィルのもので、第一楽章がLPの片面に収まらないのには驚いたものだが、実際聴いてみても、また前述のとおり、やたらと楽章が多く、しかも長いのため、なかなか全貌が掴めなかず、この作品は長らく「マーラーの一番よくわからない曲」であり続けた。とはいっても、いろいろなきっかけでもって、次第に馴染んでくる訳だけど、それらはみんな夏絡みのエピソードというか想い出なのだ。

 ひとつは、第1楽章をケン・ラッセルの映画「マーラー」の使われたことである。あの映画をご覧になった方はみな忘れもしないだろうが、映画の冒頭、夏の湖のほとりおかれた、巨大な繭みたいなものの中からアルマ・マーラーがもがくようはい出てくるシーンで、この第1楽章の冒頭、ファンファーレの直後の部分に使われたのだ。これはなかなか強烈な映像で、賛否はあろうが「蠢くように巨大なものが誕生する瞬間」を描写したであろう音楽を印象深く映像化していて、ラッセルの想像力に舌を巻いたものだった。
 次に第4楽章、これは「ベニスに死す」で使用された。「ベニスに死す」といえば主題曲的に第5番の第4楽章、通称アダージェットが使われたのは有名だが、この第4楽章も映画の中間あたりで、夏のベニスの海岸で主人公が佇む場面で使われていて、、なにやら主人公の憂愁さとこの楽章の物憂い感じが実にマッチしていて、地味ながら印象に残る場面であり音楽だった。
 最後は全く個人的な事情なのだが、20代の頃、よく夏山にラジカセ同伴でキャンプしたものだが、この曲はこうしたキャンプでかけるBGMの定番だった。どうしてそうなったのか記憶にはないのだが、山道を荷物を担ぎ歩きながら、また帰り支度をしながらこれをかけると、回りの友人にも受けがよく、山の風景がいつも違って見えたような気がしたものった。

 とまぁ、こんなことがあり、私はこの曲に徐々に慣れ親しんでいった訳。先に書いたとおり、最近、この曲についてはすっかりごぶさたで、ブログを書くという動機で、さきほど何年ぶりかで全楽章を通して聴いたみたら、なんかしばらく忘れていたこの曲に関する個人的あれこれを思い出してしまい、こんなことを書き記したというところだ。
 ちなみに本日聴いたのは、クーベリックとバイエルン放送響の67年の演奏。しばらく前に出たグラムフォンのバジェット・ボックスの一枚で、多分初めて聴くものである。本当はバースタインとNYPを聴きたかったのだか、既に自宅になかったため、こちらの登場と相成った。クーベリックらしいトラディショナルな旋律を端麗に歌った演奏で、バースタインのようなスケールや力感はないけれど、ファンタスティックな美しさと叙情美みたいなものはなかなかのものだった。
コメント (1)
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