先日、自動車普通免許の更新のための高齢者講習を受けに教習所へ行った、座学のあと実車で教習所コースを回って、その後に視力検査があった、これが自分にとって大いに意味があった、3種類の検査で、まず視野検査だ、小電球が中央から隅に移動する、見えなくなったらボタンを押す、片目づつだ、左目は結構、隅まで見えたが,右目は途中で見えなくなった、右目は以前から緑内障の治療中である、無理もないと思った、次に視力検査、例の一分欠けた丸が大きいものから段々に小さくなる、欠けが左右上下のどこかいい当てる、これは両目同時だ、なんとか0.7まで見ることができた、大型では0.8が必要だそうだ、最後は明るいところで記号を見て次に照明が消える、再び見えるようになるまでの時間を測る、自分はタイムアウトであった、もう大分以前から夜間運転はしない、若い人、例えば高校生は照明を消したとたんにもう記号が見えるそうだ、自分も昔はそうだったのかなあと感慨深い、ところでわたしは75歳前であるので認知症検査はまだ受けなくていいのだそうだ、とにかく検査は重要、問題なかったからといっても、どんどん年を経る、認知症も進む、過信は禁物だと思った
新元号「令和」について、その印象が各方面からいろいろ出されている、まあ、第一印象は命令によって和を保つ、ということであろう、これが大方の自然な受け取り方だ、それを「善」だの「ビューティフル」だのと無理やり心地好い解釈を押し付けるのは不自然である、自分は元号の意味をその通過した歴史によって後になって評価されるものと思っている、だから始まる前から評価しないことにしている、何とか期待を込めて解釈したい気持ちもわからんではない、ともかく「令」という字が権力者の命令にならないようにと願っている、そのうちに時がたつにつれ分かってくるだろう
平成という時代がいよいよ暮れてゆく、約3ヶ月前に去年今年を過ぎたばかりで、また大晦日が来たようなものだ、明治が45年、大正が15年、昭和が64年そして平成が30年、元号と西暦をどう使い分けるか、自分はその元号で表される時代の特徴というものを言い表すには便利だと思う、例えば明治は江戸幕府の士農工商身分制度から身分制度のない時代になった時代だ、大正は短かったが大正ロマンという洒落た文化が流行った時代、昭和は2つの大戦と敗戦、原爆の被爆と経済復興の時代だ、平成は地震・津波など大災害多発と最初の原発過酷事故、気候温暖化の激しくなった、戦争は起こらなかったが平和憲法が危機にさらされている時代だった、それは次の元号の時代に引き継がれてゆく、次代には平和憲法が危機を脱し、温暖化が杭止められた、胸をなでおろすことができた時代と言われるようになってほしい、さてこの期待は果たされるか、自分は見ていたいがそれまで命があるかどうか問題でもある
「消えた年金問題」があって、2018年の「公文書改ざん問題」そしてまた懲りずに「毎月勤労統計不正」ときたのだ、国の根幹になる基礎統計がいつの間にか変更されていたらしい、近年、大企業による検査値や会計の胡麻化し、不正が後を絶たない、国の役人も同様だったということだ、正直真面目な役人が圧倒的だとは思うが一部の部門の不正があると、全体が疑われるのは仕方がない、あちこちでタガが外れてしまっている、これではAIに任せても基本は人間だから安心できない。人間の行動を真似て学習したAIは何をするやら知れたものではない.AI社会が来ようとしているとき、人間がしっかりしなくてはとてもAIに任せるわけにはゆかないのではないのか
国会機能マヒといっていい、数の論理でしか法案を進められない今の政権には全く失望、それは2012年の第二次安倍内閣発足のときからずっと続いていることであった、多数決の論理が悪用されてきた、少数者の意見はことごとく踏みにじられた、これ程酷いものとは思わなかったというのが正直な感想だ、頭の上の蠅を追い払うためでしかない最近の進め方は将来必ずしっぺ返しを食らう、その時だれが責任を負うのか、結局国民である、こいう政権を生んだのは即ち選挙における選挙民であったからだ、今の状況をよく見ておくことだけができうる精一杯のことである、
実に目まぐるしく世界は変わる、動く、いまは梅雨前線豪雨大災害のまっだだ中だ、私は千葉に住むので梅雨豪雨はまだそれ程ひどくない、だが西日本から中部地方まで予断を許さない、警報も次々とでる、豪雨のさなかで危険に晒されている方々は命を守るために最善の道を選んで欲しい、既に被災した方々のために国を始め行政は全力を尽くして欲しい、豪雨が去った後は猛暑が待っているのでこれも大変である、何かボランテイアとしてできることはないかと悩む、
明らかに自然も社会も政治も極端から極端に動くのが当然な時代になってしまった、今までの常識は常識でなくなり、道徳は道徳でなくなった、日本の政治では学者が憲法違反と唱えても違反する法律がどんどん成立してゆく、例えばカジノ法案は由々しき害毒を社会に流すとなんぼ反対しても与党は耳を貸さない、過労死した人の家族がなんぼ反対しても働き方(かせ方)法案は通過しつつある
また、明らかに嘘をついている政治家や官僚が大方の指示を受けて頓挫しない、辞任しない、居直りがまかり通る、
街中の犯罪も同じだ、どう見てもDNA鑑定で黒と判定していても容疑者はやっていない、知らない、検査法が当てにならない、・・・こうやって白を切る、犯罪を犯しても否認すれば減刑されたり、無罪になったりする、どう考えてもおかしい、正義というものが全く否定されているように思える、国会でも証人喚問は与党によって否決され国民は何時までたっても真実に辿り着かない、
原発政策も同じだ、40年超の大飯原発の再稼働差止を求めた住民の訴えは高裁で否定された、裁判官は「危険性は無視しうる」そうだ、裁判官とて生身の人間であるなら老朽原発の危険性を無視しうると判断できるのだろうか、豪雨が迫っているときに命を守る行動を取ってほしい、という気象庁がいる一方で原発の危険性から命を守る行動は原発差止しかないではないか、避難するところもない、裁判官(司法)はなぜ高裁に行くにつれて生身の人間の叫びを聞く人間側に立てなくなるのだろうか、・・・・いやはや愚痴に終わってしまった
京都市で京都大学名物のタテカン(立て看板)に規制を加えて撤去することになったそうだ、理由は景観保護だ、1960年代の大学紛争以後に学生たちはタテカンを壁に立て、あるものは政治的な、あるものは部活への勧誘、あるものはイベントのポスターなど多種多様である、京都市は京都の優れた景観保護の推進上、屋外広告物規制の立場から撤去の必要を大学側に伝えた、要するに京都市や大学側にタテカンは薄汚れた醜い汚点と捉えられた、一方で撤去に反対する学生たちはタテカンは文化であるという立場をとる、また京大出の弁護士たちがいわゆる憲法によって保障される表現の自由を脅かす惧れありとみて反対する、(朝日新聞5/23朝刊)
最近噂の映画「モリのいる場所」を観た、そこでモリの屋敷周りにタテカンがあった、モリを有名な画家として守ろうという内容だったと思う、ところが都内のことであるから不動産屋がマンションを建てるのでタテカン撤去を申し込んできた、やはり景観が問題であったようだ、
電車の車体にスプレーで落書きする事件が最近もあった、タテカンには告示する者の名前などが書かれるのが通常だ、一方、落書きには誰がやったか分からず且つ他人の持ち物に無断でやる、極めて悪質だ、だがタテカンは自分が用意した看板に書くし書き手名も記載する、フェアな表現方法ではなかろうか、自治会などの掲示板にも各種告示が貼られる、それも期限付きだ、期限付きはタテカンにも必要であろう、
タテカンはアナログ的表現であり伝達方法だ、そして特定地域に限定的だ、レコードが近年見直されているが、タテカンもそのアナログさ、人間的な感じで保護されても好いと思う、
安倍政権にしろ、日大アメフト部にしろ、上に立つ者の言動は官僚、議員あるいは学生の部員にしろ、どのように受け取られても、その結果に責任がある、言葉は一旦発せられたら独り歩きする、本人の意図の範囲を超えたような思いもかけない受け取られ方をされる場合もある、それが好い場合でも、悪い場合でも発したものに責任は帰ってくると捉えるべきである、
普通の市民は勿論、いわんや人の上に立つものに言い訳無用である、前にも書いたがそれが忖度を招いたものでも、明確に指示したものでもその区別はない、上に立つ責任あるものにはそのくらいの覚悟が必要なのである