透明タペストリー

本や建築、火の見櫓、マンホール蓋など様々なものを素材に織り上げるタペストリー

丸善オープン!

2011-12-23 | A 読書日記

 

 丸善が松本にオープン! うれしいです。

地下1階から2階までの売り場面積が3,500㎡、長野県内最大級とのことです。近々、時間をかけて書棚をじっくり見てまわりたいと思います。今日はとりあえず地階の文庫のコーナーを見ました。充実しています。下の3冊を買い求めました。

  

『紫式部日記』山本淳子/角川ソフィア文庫  『私が源氏物語を書いたわけ』を先日読んで、この本も読んでみたいと思いました。

『忘却の河』福永武彦/新潮文庫 1981年ですからちょうど30年前の9月に読んだ文庫本が手元にありますが、文字が細かく、紙も変色していて読みにくいので、買い求めました。カバーのデザインが変わっていました。でもこのデザインは既に見たことがあるような・・・。数年前に買っていました。クリスマスプレゼントにします。 

『マンボウ最後の大バクチ』北杜夫/新潮文庫 カバー折り返しのリストを見ると絶版になってしまった作品が何作もあることが分かります。先日読んだ『黄いろい船』もリストにありません。残念です。



朝日村の道祖神

2011-12-22 | B 石神・石仏



■ 道祖神。村に悪霊や疫病などが入ってこないようにしてくれる神様という意味で塞の神(塞の訓読みはふさぐ)とも言います。道祖神と正月の伝統行事の三九郎(どんど焼き)との関係についてはいつかきちんと調べてみたいと思いますが、三九郎のことを塞の神と呼ぶところもあるようです。道祖神は子孫繁栄、五穀豊穣という馴染みの願い事をかなえてくれる神様ともされてきました。

今回は数稿前に載せた朝日村針尾の火の見櫓の隣に祀られている道祖神です。正面から写真を撮ったために、彫りがはっきりしませんがお互い相手の肩を抱き、別の手で握手をしている抱肩握手像です。朝日村に最も多いタイプだと聞きます。整った形の石(高さ80cm位)に真円を納め、その中に双体像を彫っています。

裏面の刻字は右側が弘化二巳九月日 左側が幸神原村中 と読めます。調べると弘化二年は西暦1845年です。江戸末期に建立された道祖神です。

村びとの暮らしを見守り続けてきたという点では火の見櫓と同じです。火の見櫓は解体・撤去されつつあり、数が減っていますが、道祖神はそんなことはありません。道路拡幅などの事情で別の場所に移されることもありますが、大切にされています。 ♪なんてたってアイドル・・・ いや、なんてたって神様ですから。



「ルネサンスとは何か。」

2011-12-21 | A 読書日記



 雑誌を買い求めることはあまりありません。立ち読みで済ませています。が、「pen 1/1・15」は即、買い求めました。充実した内容で630円(税込)は安いと思います。これが単行本だったら、どうでしょう。1800円?2400円? まあこの位でも迷わず買い求めると思います。

ルネサンスというと私は表紙になっているボッテチェリ(雑誌ではボッティチェッリと、発音に近い表記をしています)の「ヴィーナスの誕生」がまず浮かびます。

ルネサンスについて下の写真のようなテーマをいくつか設定して詳しく解説しています(監修:池上英洋氏)。

      

ヤマザキマリという漫画家(「テルマエ・ロマエ」という作品が有名だそうですが、知りませんでした)の「14歳の私をぶちのめした、ルネサンスの衝撃」というエッセイは「へ~、こんな人生もあるんだ」と驚きの内容でした。

母親の強い勧めで、14歳の時ひとりでドイツとフランスを駈けめぐっていたときに、その後の彼女の人生を決定づけた老人と出会います。何年か後に彼女は老人の孫と結婚することに・・・。

是非書店で雑誌を手に取って、いや買い求めてこのエッセイを読んでみて下さい。



山形村の道祖神

2011-12-20 | B 石神・石仏



 東筑摩郡山形村には約40体の道祖神がある。かつて高遠藩の飛び地だったこの村に高遠の石工が残したものだという。ちなみに同じ事情で隣の朝日村にも約30体の道祖神がある。

山形村上竹田の建部神社のすぐ近くに立っている双体道祖神。昨日偶々この前を通りかかったので写真を撮った。高さ約1メートル、細長い石にバランスよく彫られている。いつ建てられたのかは確認できなかった。手元にある資料(*1)にも記載されていない。

男の神様が女の神様の肩を両腕でぐっと引きよせている。女の神様は衣の裾を広げているように見える。両神様の恋情を強く感じさせる。観察していて気になった像の下の模様は蓮の花だと資料にある。それで仏教系だと分かるそうだ。仏教系の道祖神の場合、右側、つまり向かって左側に男の神様が立つという。

なるほど、下の道祖神(安曇野市堀金)とは逆だ。




*1 「長野県山形村 双体どうそじん」 平成3年3月 山形村役場発行 


「シャボン玉」

2011-12-19 | A あれこれ

 NHKの「ラジオ深夜便」をよく聴きます。夜の11時半頃に始まって翌朝の5時まで、長時間の放送です。

朝4時過ぎからの「明日への言葉」というコーナーに今朝(19日)野口雨情のお孫さんの野口不二子さんが出演され、雨情が創作したいくつかの詩について語っておられました。

数日前このコーナーにドナルド・キーンさんが出演され、専門の日本文学のことや交流のあった作家の想い出を語っておられるのも聴きました。歳をとったせいでしょうか、朝早く目が覚めます。

野口雨情作詩の「シャボン玉」はよく知られた童謡ですね。

シャボン玉飛んだ 屋根まで飛んだ 屋根まで飛んで こわれて消えた

シャボン玉消えた 飛ばずに消えた 生まれてすぐに こわれて消えた

風 風 吹くな シャボン玉飛ばそ

不二子さんのお話で初めて知ったのですが、雨情は生後まもない我が子を亡くしているんですね。 「生まれてすぐに こわれて消えた」という2番はこの悲しい出来事を詩にしたんですね。 シャボン玉を人生に見立てて詩を書いた雨情。1番の詩は全うできた人生ということになるのでしょう。それと対比的に2番を創っています。

「風 風 吹くな」 ここには雨情の優しさを感じます。

よく知られた童謡が人生をモチーフにしていたとは・・・。「雨降りお月さん」や「赤い靴」もそうですね。雨情作詩の童謡には深い意味が込められているんですね~。


  


230 東筑摩郡朝日村針尾の火の見櫓

2011-12-18 | A 火の見櫓っておもしろい


東筑摩郡朝日村針尾地区の火の見櫓  

 火の見櫓がどのようなところに立っているのか、周辺の様子を押さえておくことも必要。隣には火の見櫓の後継、防災無線の鉄柱が立っている。防災無線の鉄柱や電柱は景観上無い方が好ましいのだが・・・。



 
230  火の見櫓全景

 3角形の櫓の側面は3面、その内の1面を梯子を兼ねた横材のみで構成している。残りの2面にはブレースが3段設置されている。1段目にはリング式ターンバックルを使った丸鋼のブレース、2、3段目にはアングル材(等辺山形鋼)を使い、交叉部をボルトで固定している。やはり櫓にはリング式ターンバックルを使ったブレースが美的観点からすれば好ましい。


  @善光寺

屋根の造り方に注目。頂部をグ~っと引き伸ばして避雷針状に尖らせている。このような加工は珍しい。蕨手も無い簡素なつくり。半鐘の表面には梵鐘のように「乳」と呼ばれる突起が付いているものもあるが、これはツルリンチョ。



火の見櫓の存在を全く気にかけないかのように、バス停が建てられている。のどかな光景だ。バスを待つおばあさんでも居たらもっと良かったが・・・。


 


「白きたおやかな峰」

2011-12-18 | A 読書日記



 今年もあと2週間。時の経つのは早いものだ。

『私が源氏物語を書いたわけ』山本淳子/角川学芸出版 平安時代の才女・紫式部の日常、心の内面が詳細に書かれていて興味深かった。巻末の著者略歴に載っている『ビギナーズ・クラシックス日本の古典 紫式部日記』も読んでみたいと思う。読みたい本は増えていくばかり・・・。

さて次は北杜夫の『白きたおやかな峰』新潮社。カラコルム遠征隊に医師として参加した体験をもとに書かれた山岳小説の・・・、白眉。今年の読み納め本になるだろう。

この10月24日に亡くなった北杜夫の作品を再読している。

『黄いろい船』
『どくとるマンボウ青春記』
『どくとるマンボウ途中下車』 
『どくとるマンボウ追想記』
『どくとるマンボウ昆虫記』
『夜と霧の隅で』

上記の作品読了。


 


「私が源氏物語を書いたわけ」

2011-12-17 | G 源氏物語





 日本の文学史上最長のロングセラー「源氏物語」。 『私が源氏物語を書いたわけ』は平安朝文学が専門の著者・山本淳子さんが紫式部のひとり語りという形をとって、「源氏物語」や「紫式部集」などからの引用をまじえて紫式部の日常、心の内面を詳細に綴った本。

**人間紫式部の心を、紫式部自身の言葉によってたどる。本書はその試みです。紫式部はどのような心の持ち主で、どのような思いを抱いて成長し、やがて『源氏物語』を書くに至ったのか。一条天皇の中宮にして時の最高権力者藤原道長の娘彰子に仕えてからは、後宮女房としてどのような思いで世の中を見つめ、生きたのか。また最晩年はどのような心境に至ったのか。(中略) 本書は、その彼女の偽らぬ「心の伝記」を目指しました。**(著者のあとがきより)

紫式部はまたいとこの藤原宣孝(のぶたか)と遠距離恋愛の末に結婚する(正妻ではなかったが)。父が越前守(かみ)となったために、父について京を離れていた時期に手紙のやり取りをする。いまならメールで瞬間的に相手に届くが、平安時代、届くのに何ヶ月もかかる・・・。

春なれど 白嶺のみゆき いや積もり 解くべきほどの いつとなきかな 

著者による分かりやすい解説文 **季節は確かに春。でも私が住んでいるのは、都ではなくて越前なの。あなたも常冬の山、白山のことはご存じでしょう? 深い雪がますます積もって、解ける時などいつとも知れませんのよ。おあいにく様。(40頁)**

春には雪や氷が解ける。そして君の冷たい心も解けて私のことが好きになるよ と書いてきた宣孝の手紙にこう返す紫式部。やっぱり才女だったんだな~、と思う。

結婚してたった3年で夫の宣孝が亡くなってしまう。世はなんと理不尽で儚いものだろうか・・・、と紫式部は思う。ほんのひとときだけの儚い命。誰しもがそうだという無常の定め。

やがて自分の人生を受け入れる気持ちになった紫式部は、そうだ、私は縛られた「身」であるだけではない。私の中には自由な「心」がある! と気が付く。**私は、身ではなく心で生きようと思った。それを現実からの逃避と言われても、一向に構わない。むしろ心こそ現実よりもずっと完璧な世界が作れるような気がした。(73頁)**

紫式部は「源氏物語」を心の支えに生きていこうと考えて書き始めたのだ。 人生の寂しさを酒で紛らすというのは演歌の世界、私のような俗人のすること。紫式部は「源氏物語」という世界で何にも縛られずに自由に生きた・・・。



鶴と亀

2011-12-14 | F 建築に棲む生き物たち

 かごめかごめ 籠の中の鳥は いついつ出やる 夜明けの晩に 鶴と亀が滑った 後ろの正面だあれ

この歌詞って意味がよく分かりません。

松本市内の住宅(だと思います)の玄関の独立柱頂部に棲む鶴と亀です。しばらく前から気が付いていました。今日信号待ちの車の中からカメラを向けて撮りました。こういう遊び心っていいですね。


棲息地:松本市内 観察日:111214


 


229 山形村の火の見櫓

2011-12-14 | A 火の見櫓っておもしろい



 八ヶ岳山麓に位置する諏訪郡原村で昨年8月に見かけた火の見櫓です。倉庫を火の見櫓の脚が貫通しています。左後方の脚に注目。さて、これは一体火の見櫓が先?それとも倉庫が先? と考えてしまいます。

下の写真を見ると雨漏りしないのかな、と気になります。でも瓦棒葺きの(大和葺きというべきか)、脚の貫通部を屋根面の谷を避けて山として、雨対策をしていることが分かります。


  下の写真は東筑摩郡山形村上竹田の火の見櫓です。鉄筋コンクリート造の屋根スラブを脚が貫通しています。この場合は火の見櫓が先だと考えるのが妥当でしょう。同様に上の場合も火の見櫓が先でしょう。


撮影111213

 
229

末広がりというのは美しい形ですし、構造的にも安定する形です(挙げるまでもないことですが、富士山はその代表例。自然の造形は構造的に最も安定する形をしています)。この火の見櫓、実に堂々としていて存在感があります。



4角形の櫓に8角形の屋根と見張り台、これもまたよくある型です。ブレースには大きなリング式ターンバックルが使われていて目立っています。このターンバックルは、以前は建築でも使われたことがあったのですが、変形しやすいために最近ではまずありません。ガセットプレートも少し大きいような気がします。

脚相互をラチス梁で結んでがっちり固め、その下で垂直にした脚がスラブを貫通しています。貫通していると表現するとスラブが先にあって、そこをあとから脚が貫いたという意味になってしまうかもしれません。でも他に適当な表現を思いつかないので・・・。



山形村にこんなレアな構成の火の見櫓があるとは・・・。

追記140427 現存しない


火の見櫓 みんなちがって みんないい。


「木の魅力を拡げる」

2011-12-13 | A 読書日記



 今年の6月に木材活用推進協議会の主催で「木の魅力を拡げる」というテーマのシンポジウムが東京の建築会館ホールで行われた(シンポジウムは2005年からほぼ年1回のペースで行われている)。この冊子にはシンポジウムで行われた中村勉さんの講演「木でつくる2050年ゼロカーボン社会」が収録されている。昨日読んだ。以下備忘録。

地球温暖化や資源枯渇という人為的な地球環境問題に対処するために「自立した小さな環境世界をつくる」という基本理念が示される。そのための有効な方策として都市のコンパクト化、建築の木造化が提言され、具体例を示しながら説明がなされている。

建物のLCCO2(ライフサイクルCO2排出量)は木造の場合RC造の約1/3だという。だが、制度や法規制が建築の木造化を阻んでいる。そのような状況で、創意工夫して取り組んだ学校や集合住宅、老人ホームなどの建築の木造化の事例がカラー写真と共に紹介されている。

丹沢の里山に建つ「七沢希望の丘初等学校」。敷地内の大木を伐らないようにクネクネとした平面で計画されている。内部は木造の架構がそのまま表しにされ、魅力的な空間になっている。

構造や内装に関する制限が緩和されれば建築の木造化がもっと促進されるかもしれない。が、現行の法規制の中でも様々なことが可能だということを示した密度の濃い講演。



228 山形村の火の見櫓

2011-12-10 | A 火の見櫓っておもしろい

 鋼製の骨組みだけの火の見櫓は意匠と構造とが不可分というか、構造そのものが意匠でもあるというか、構造的な合理性によって(構造的な合理性だけでと言い切ってもいいでしょう)姿形を与えられています。ここに火の見櫓の美の理由があるのです。

ところで、木造建築は建て方直後の骨組みだけの状態で美しくなければ完成しても美しくありません。骨組みが単純明快に解かれているかどうかで設計者の木構造に対するセンス、力量が分かると私は思っています。火の見櫓同様、建築においても空間構成の明快性や美しさは構造的な合理性によってもたらされるものだと思うからです。

火の見櫓は建築設計のあり方も示してくれているように思います。


 
228  撮影日111210 櫓の後方にうっすらと雪化粧した美ヶ原が写っています。

 松本市に隣接する東筑摩郡山形村は長いもの産地として有名な村で、この時期村内のあちこちで長いも掘り作業が行われています。この火の見櫓は山形村の下竹田という地区に立っています。それほど高くない火の見櫓で(高さ7mくらい)、梯子は櫓の外に架けられています。脚元に消火ホースの収納箱と消火栓があります。



3角形の櫓に6角形の屋根と見張り台。オーソドックスな形の火の見櫓です。ドラ型の半鐘が吊り下げられていますが、聞けばこの村では10年以上も前から半鐘を叩いていないとのことです。ホースを架ける金物が取り付けられています。ホースを干すタワーとしては今も現役です。



屋根と見張り台の位置関係はちょっと間延びした感じです。手すりにはツルのような飾りが付けられています。



櫓の3本の脚はなだらかな曲線、櫓全体の荷重をしっかり支えているとこが視覚的に分かります。安定感のある脚元です。

現存しない(191217追記)



227 松本市村井町の火の見櫓

2011-12-09 | A 火の見櫓っておもしろい


227 撮影111209

 なかなか味のある消防団詰所です。彩度がやや高いえんじ色が良いですね。マンサード形の屋根も良い。窓の配置も良い。気に入れば「あばたもえくぼ効果」でみんな良くなります。1階が消防自動車車庫、2階が団員の詰所という一般的な構成になっていると思います。素早く開けられるようにオーバースライディングシャッターがつけられています。

この写真では分かりにくいですが、屋根に風見鶏が載っています。黄色がアクセントカラーとして効いています。団員の手づくりかもしれません。こういうことって、団員の消防団や地域への帰属意識が強くないとできませんよね。真後ろに火の見櫓が立っています。

 

この火の見櫓はJR篠ノ井線のすぐ脇に立っています。踏切を渡って反対側から観察しました。後方に雪で白くなった東の山が写っています。

三角形の櫓、柱の絞り込みが直線的です。かなり昔に建てられたものだと思われます。逓減率(櫓の絞り込み度を一番下と一番上の横架材の長さの比でとらえた値です。多重塔の捉え方に倣いました。)が大きいです。踊り場の位置が高いです。



見上げると整った姿形が美しいです。

三角形の踊り場、円形の屋根、同じく円形の見張り台。手すりにはシンプルな手すり子。梯子が一直線に見張り台まで架けられています。高さが10メートル位ありそうですから、上り下りするのは怖そうです。



消防信号板が詰所の壁に取り付けられていました。発錆がほとんどなく、状態が良いので写真を撮りました。半鐘の叩き方は消防法で規定されていて基本的には全国共通です。

この詰所と火の見櫓、中年夫婦といった風情でしょうか。おしゃれなご主人、仕事はグラフィックデザイナー。しっかり者の奥さん、仕事はなんだろう・・・、教員?看護師?役場職員?



「林昌二の仕事」

2011-12-09 | A 読書日記



 建築家の林昌二さんが先日(11月30日)亡くなられた。大卒後、日建設計工務(現日建設計)に入社、同社の副社長、最高顧問、名誉顧問を歴任された方だった。

手元にある『林昌二の仕事』新建築社には、林さんの代表作である旧掛川市庁舎、三愛ドリームセンター、パレスサイド・ビル、ポーラ五反田ビルが収録されている。それぞれの設計・施工過程が紹介されていて興味深い。

日建設計というと、最近はそうでもないが、以前は石橋を叩いて渡るような堅実な設計をする事務所だった。そのような環境、組織にあって、林さんは随分挑戦的な設計をされた方だった、ということが本書でよく分かる。

銀座の狭小な角地に立つ三愛ドリームセンター(竣工1962年)。鉄骨造のシリンダーコアに24個に等分された放射状のPC床版を取り付ける。こうして出来た塔を曲面網入りガラス(当時はまだ加工技術が確立しておらず、試行錯誤の末やっと成功した、と本書にある)で包んで光の円筒を創るというもの。この銀座にシンボルを創るというプロジェクトは、意匠にも構造にも、そして工法にも通じていないと設計が難しいが、林さんはまだ30代前半だったというから驚く。

三愛ドリームセンターの後に取り組んだ竹橋のパレスサイド・ビル(竣工1966年)は30代後半の作品。細長い変形敷地に対し、東西2ヶ所に円形コアを配置するという、このビルの特徴となっているアイデアは有効床面積確保のために敷地の未利用部分をなんとか活かそうと、さまざまなスケッチをしていて出たという。省エネとメンテナンスのための水平ルーバーと、各階で分節された雨樋(←過去ログ)によってリズミカルに構成されたファサードも優れたデザインだ。

ポーラ五反田ビル(竣工1971年、この年林さんはまだ43歳)。両サイドのコアに大スパンで床を架けて無柱空間を造るという単純明快な、そして大胆な考え方。その後オフィスビルのプロトタイプとなる先駆的な作品。1階のロビーは屋外に造られた斜めの緑庭と一体になるように構成された開放的で美しい空間だ。

何年か前(2002年9月だった)、代官山のヒルサイドテラスで行われた林雅子さんの建築展会場で林さんをお見かけした。温厚な方、という印象を受けた。


林さんのご冥福をお祈りします。