goo blog サービス終了のお知らせ 

透明タペストリー

本や建築、火の見櫓、マンホール蓋など様々なものを素材に織り上げるタペストリー

下を向いて歩けば・・・

2022-01-18 | C あれこれ考える〇

  
 松本市内にある古書店・想雲堂に出かけた。その時、車道と歩道のひび割れのパターンが全く違うことに気がついた。歩道の舗装面はうろこ状に割れている。別の場所でも同様のパターンだった(それぞれ右側の写真)。

 
車道はアスファルト舗装で表層厚は通常50mm、歩道の舗装材は分からないが(瓦廃材を骨材とした舗装材があるが特定はできない。松本市役所の担当課に問い合わせてみるか・・・)、とにかく割れ方が違う。これはおもしろい。 

割れ方の違いは舗装材の材質(力学的特性)の違いに因るのではないか、とまず浮かぶ。この歩道舗装材はアスファルトより硬い材料ではないかと思う。同じ舗装材でも厚さの違いによっても割れ方が違うかもしれない。

 
帰宅して実験。残念ながら実験材料は硬いせんべいしかなかった。円いせんべいの中心部をマーカー(直径が約2cm)で押して割ってみた。ビスケットならどうか、もっと軟らかいサブレならどうか。2枚重ねて割ったらどうなるか。

加力条件の違い、例えば加力面の大きさの違いによっても割れ方が違うだろう。箸の先で割ってみたらどうか・・・。

凡その傾向が分かればよい。そのための確認だから、実験に厳密性は求めない。


追記(01.18) 写真を見ていて気がついた。試験体(せんべい)の支持方法を考えなければいけない、ということに。

支持条件が違えば当然割れ方も違う。次回は4カ所の点支持、これに近い状態にしてやってみよう。


人生 長短ではない

2022-01-07 | C あれこれ考える〇

 日本人男性の平均寿命はおよそ82歳、30,000日。私は今年の某月に生後25,000日という節目の日を迎える。既に人生5/6が過ぎ、残り1/6、5,000日。400メートルトラックだと、残りは最後の直線コース、70メートル。平均寿命まで生きると仮定すればこんなことになる。

だが、人生は長短ではない。残りが70メートルだろうが100メートルだろうがそれは関係ない。樋口一葉は26歳で夭折したが奇跡の14カ月と言われるごく短い期間で名作を書き、歴史に名を残している。坂本龍馬が暗殺されたのは31歳の時だった。だが龍馬は日本という国の針路の舵を切った。

上掲の例示から分かるように人生は長短即ち時間軸だけで捉えるべきではないのだ。横軸に時間を据えるなら、縦軸に密度というか、充実度という評価軸を据え、そこに描かれるグラフの積分値(面積)で捉えるべきだと思う。人生観は人それぞれだが、私はこのように考えている。

今春スタートする第二の人生、漫然と日々過ごしてはならないと改めて自分に言い聞かせたい。既に書いたが伊能忠敬は第二の人生で成し遂げた偉業によって名を知られている(過去ログ)。『四千万歩の男 忠敬の生き方』で著者の井上ひさしは「前半生の充実と後半生の偉業」という小見出しの文章を書いているが、伊能忠敬の人生を簡潔にして的確に捉えた小見出しだと思う。偉業など到底無理、だが充実の日々を過ごしたい。そのためには何をどうすれば好いのか・・・。

**僕が前職とは直接関係のない本屋という仕事と巡り合ったのは幸運というしかない(後略)。一歩間違えば、僕も行き場を失って図書館通いをしていたかもしれない。**(『新聞記者、本屋になる』落合 博(光文社新書2021年 200頁)

少し長い期間を要するようなことを達成したい。構想が全くないわけではないから、いずれ書きたい。


 


プルアパートベイズン

2021-08-23 | C あれこれ考える〇



 先週の土曜日(8月21日)、ブラタモリで長野県の諏訪が取り上げられた。題して「なぜ人々は諏訪を目指すのか」。

番組の中で諏訪湖は横ずれ断層でできたということが紹介された。番組を見ていて、この横ずれ断層のことを詳しく紹介した新聞記事があったこと、そして、その記事を保管していることを思い出した。昔のことはよく覚えているものだ。

1996年(平成8年)、信濃毎日新聞に「活断層を歩く」というタイトルの記事(写真上)が連載されていて、同年の12月10日付朝刊では松本市街地の軟弱地盤のことが取り上げられていた。この記事にプルアパートベイズンの模式図(写真下)が載っている。この用語はブラタモリには出てこなかったけれど、諏訪湖の形についてこの模式図によく似た図により説明がなされた。



新聞記事には**なぜ、松本駅を中心に沈降し、南北の方向に軟弱地盤が細長く延びているのだろうか。(中略)プルアパートベイズンのモデルで説明できるかもしれないという。牛伏寺断層と松本盆地東縁断層は、真っすぐにはつながらない。二つは、ずれていて、松本市街地で左ステップしている。そう考えた場合、その間が左横ずれ断層の動きから、底抜けになり、くぼ地になる可能性がある。諏訪湖なども、そうだと言われている。** とある。関連サイト→こちら

諏訪では地盤が大きく陥没して諏訪湖ができたが、松本は諏訪程陥没せず、沼地のような状態になったということだろう。諏訪と松本の地形の成因は同じということ。松本の沼地は深瀬と呼ばれていたが、それが深志と変化したと聞いたことがある(ような気がする)。松本がもっと深く陥没していたら、松本にも湖ができていたかもしれない。

ところでブラタモリ、次回(9月11日)は松本、また見なくちゃ。


 


テレオリンピック構想

2021-08-12 | C あれこれ考える〇

■ はじめに 

東京オリンピックのために新たに建設された国立競技場の当初の計画案には多くの異論・反論が出た。建設費が予定額を大幅にオーバーすることや、未来的というか、SF的というか、異様と評してもよいとぼくは思うが、デザインが周辺の環境にまったくそぐわないことなどがその理由で、白紙撤回されるという事態になった。東京オリンピックはこの躓きをはじめ、準備期間中にいくつもの問題が起き、その都度、海外も含む多くのメディアが大きく報じた。3兆円とも言われるオリンピック費用をどうするのか、信濃毎日新聞は今日(12日)の朝刊で「都と国 赤字巡り泥仕合」という見出しでこの問題を報じている。**国と都は経費を巡って何度も衝突してきた経緯がある。異例ずくめの大会が幕を閉じた後に、祝典の華やかさとはかけ離れた泥仕合が始まることになる。**記事はこのような一文で結ばれている。

■ 東京だけではなかった競技会場―東京オリンピック

真夏の開催ということで、選手にとって過酷な天候も懸念され、マラソンは北海道で行われた。当日の気温は東京とあまり差はなかったが。東京オリンピックは東京都だけでなく、例えば自転車競技は静岡、バスケット・ゴルフは埼玉、サーフィンは千葉というように複数県の会場でも競技が行われた。

一国一都市開催から一国複数都市開催へ。次回2024年のオリンピックはパリで開催されることになっているが、東京オリンピックと同様、パリだけでなく、北部のリール、南部のマルセイユなどでも競技が行われる。

■ 複数国開催の「テレオリンピック」という構想

パリオリンピックのサーフィン競技は南太平洋のタヒチで行われるという。タヒチはパリから見れば地球の反対側ではないか。こうなると複数国開催を構想するのは容易だ。一国開催にこだわる必要性があるのだろうか。開催のルールとしてこのような規定があるのなら、ルールを変えればよい。既に2002年FIFAワールドカップの日韓共同開催という事例もある。テレオリンピックはその応用、発展形だ。

例えば、柔道は日本(東京)、サッカーはブラジル、体操はロシア、陸上アメリカ、卓球中国などというように複数国で開催するテレオリンピック。別にある競技をその競技の強豪国で開催することもないが。

選手村は不要、人数的に会場近くのホテルを充てることで足りる。財政的な負担も分散される。世界各国で同時開催となればいろんなことで各国が協調することが必要になるだろうから、国と国の間(国家間ということばはあまり使いたくない)の良好な関係保持にも効果があるだろう。

■ 開会式はサイバー空間で

開会式や閉会式も一つの会場で行うこともないだろう。サイバー空間を構築して行えばよい。先日の東京オリンピックの閉会式ではバーチャルな演出も行われている。国立競技場の空間に浮かぶ無数の発光点が次第に集まって五輪になるという演出はCG表現だったようだ。北京オリンピックでもCG表現があったことが知られている。

選手たちがひとつの会場に集まることに意義があるという主張は、コロナ禍で広まったテレワークを経験してみれば、説得力が弱くなることも予想される。

■ テレオリンピックの実現 30年、40年後には

このようなテレオリンピックの開催はハードの面でもソフトの面でも現時点で実行に移せると思う。仮に問題というか課題があるとしても、競技会場の設計、施工より短期間で、ローコストで十分解決できるだろう。

もしかしたら30年、40年後くらい先にこのようなテレオリンピックが開催されるかも知れない。その時、そう言えば昔、テレオリンピックを構想していた日本人がいたなあ、となったりして。 

こんなことを夢想することは楽しい、でしょ? 

1964年に開催された東京オリンピック、その時、星 新一がおもしろいことを構想している(過去ログ)。






ブログ記念日 情報発信するということ

2021-04-18 | C あれこれ考える〇

 4月16日はブログ記念日でした。2006年4月16日、この日に私はブログを始めました(過去ログ)。

外界からの刺激に反応するということが生きていることの証です。低次の刺激への反応は例えば日射しがまぶしくて手をかざす、騒音に耳をふさぐというようなことが例示できます。瞳孔は光に反応して大きさを変化させますが、これは最も低次な刺激にたいする生体反応ですよね。

高次の刺激(情報)、例えば音楽や絵画、映画、メディアが伝えるニュースなどから私たちは様々な刺激を受け、音楽のリズムに合わせて体を動かしたり、映画を観て涙したり、ニュースに悲しんだり、笑ったり、驚いたり、怒ったりと、様々な反応をします。そしてこの反応を「ねえ、聞いて、聞いて」「これ見て」というように、家族や友人に伝えたいという欲求は程度の差こそあれ、誰にもあるでしょう。

ブログによる情報発信もこのような欲求によるものですよね。書き手が受けた様々な刺激に対する反応・応答を伝える、発信する行為と捉えることができるでしょう。この場合、相手は特定できない多数ということになります。

ブログを始めたのはこんなことを考えていたからではなく、ただパソコンアレルギーを解消したいとう想いからでした。日常的にパソコンを使うようにすればアレルギーも治まるだろうと思ったのです。

ブログ開始から時は流れ、早15年経過! 書いた記事は6,600件を超えています(2021.04.18の時点で)。ブログはすっかり日常生活の一部となりました。

上記の通り、ブログを閲覧していただく多数の方々の存在が、情報発信することを意義付けています。

皆さん、ありがとうございます。これからもよろしくお願いします。


16日の記事を書き改めました。


コンコルドの誤謬

2021-02-15 | C あれこれ考える〇

「コンコルドの誤謬」という記事を昔(2009.10.15)書いた。以下、それをもとに書いた新たな記事。

コンコルドは英仏両国で開発した超音速旅客機。開発の途中で採算が合わないと分かったが、巨費を投じたので、いまさらやめればすべてが無駄になるということで続行したプロジェクト。このような誤りを「コンコルドの誤謬」と難しくいう。

「リニア中央新幹線」は既に工事が始まっているが、本当に必要なんだろうか・・・。必要だからつくる、というわけではなくて、技術的に可能だからつくるというだけのことではないのか。

東京―大阪間を1時間ちょっとで結んだとしても、その前後の交通事情が改善されない限り、東海道新幹線を利用する場合と目的地までの所用時間はそれほど変わりないだろうに。このようにトータルな交通システムを考えればその一部を構成するだけのリニア中央新幹線の効果はずっと減るような気がする(*1)。

どう考えてもこのプロジェクトは「コンコルドの誤謬」の代表的な事例といずれいわれるようになるような気がする。いや、この手の誤りは「コンコルドの誤謬」に替わって、「リニア新幹線の誤謬」などといわれるようになったりして・・・。

『東京裏返し』には経済的な成長の時代から成熟の時代に転換した社会おいて、より速くの交通システムからスローモビリティ、具体的には13、14キロの速さのトラムや水上交通の整備への転換が説かれている。

東京裏返しは日本裏返しに通ず。

リニア中央新幹線の東京大阪間が開業するのは20年くらい先の見込み、そのころ今以上に急いで移動する「必要」がある社会になっているだろうか。個々人の仕事や生活に関する考え方も変わっていくだろう。社会も経済優先から生活優先へと変わるだろう。

もっと速く社会からもっとゆっくり社会への転換。「狭い日本 そんなに急いでどこへ行く」 20年後、リニア中央新幹線は時代のニーズに全く合わくなってしまっているかもしれない。いや、きっとなっているだろう・・・。


*1 関連記事(過去ログ


カオス渋谷

2020-02-16 | C あれこれ考える〇

 「白山通りのいえ」でS君と建築談義をした後、連れ立って渋谷に出た。渋谷には何年も行っていないがその間にすっかり様変わりしている。渋谷の今の様子を見たかった。

渋谷駅は迷路、という印象があるが、今や渋谷駅の周辺も迷路のまちと化した、という印象。案内図を見てもまちを把握できそうにない。



雑誌『新建築』の2019年12月号に渋谷のまちづくりの特集が組まれている。その中の「複雑な都市基盤の更新」という小見出しの記事に渋谷の谷地形を繋ぐ横方向の「スカイウェイ」と縦方向の動線となる「アーバン・コア」の概念図が載っているが、これが渋谷の都市計画で実際にどのように実現されているのか(これから実現するのか)現地では把握できなかった。

「アーバンコア」は単なる移動動線用の狭いスペースに過ぎず(と決めつけてしまう)、大勢の人の移動をきちんと捌くことが機能だとすれば、それは無理ではないか。渋谷スクランブルスクエアの「アーバンコア」に立って、そう思った。

**戦前からの都市の骨格が現代においても変わらず、自然発生的にまちが広がることで生まれた渋谷のダイナミズム。これを壊さずに、まちを再構築するためには(後略)**(「新建築201.12」049頁)

要するに混沌としたまちに秩序を与えようという意図の無いまちづくりがすすめられているということなのだろう。

カオス渋谷はカオスのまま、それが渋谷らしさだよねということ。崩れてしまったかのようなカーテンウォール(下の写真)はこのことを表現しているのだろう。

車にもバスにも定員があり、観光地にもキャパがある(この頃、京都などの観光地ではキャパオーバーによる混乱が起きていると聞く)が、渋谷の駅周辺にも鉄道や屋外空間なども含め、総合的に捉えた場合のキャパがあるだろう。高層の商業ビルが何棟も出現しているが、もうとっくに渋谷のキャパを越えてしまっているのではないだろうか。渋谷カオスの根本にこのことがあるように思う。すり鉢の底のような渋谷の地形的な特徴もカオスと関係しているという指摘もある。だからこそ「スカイウェイ」が構想されたのだろう。でもねぇ、地形まで建築的に何とかしてしまおうなんて発想には無理があるんじゃないかな・・・。



昔、江崎玲於奈氏だったか、が理想的な組織についてオーガナイズドカオス(Organized Chaos)という概念を提示して説明していたことを思い出した。都市然りではなかろうか。渋谷にあるのはカオスであって、オーガナイズドカオスではないなぁ。渋谷を再訪すれば印象が変わるのかな。

渋谷ヒカリエや渋谷スクランブルスクエアをうろついてから、新宿駅に向かうために渋谷スクランブルスクエア3階の改札口(たぶんそうだと思う)から山手線の乗り場に行こうとして、間違えた。「U1さん、そっちじゃない!まっすぐですよ」僕を見送ってくれていたS君が声をかけてくれなければ、帰りのあずさに乗り遅れただろう。判断力の低下、いや、夕方の大混雑で前がよく見えなかったから分からなかった、と言い訳しておこう。

ああ、カオス渋谷。


 


竪穴住居はかやぶきではなかった

2020-01-02 | C あれこれ考える〇



 竪穴住居の復元 増える「土ぶき」 昨年末(12月31日)の信濃毎日新聞にこの記事が載っていた。

**縄文時代の竪穴住居の屋根は、乾燥させたイネ科植物を使った「かやぶき」のイメージが強いが、樹皮を土で覆った「土ぶき(土屋根)」だった可能性があることが分かってきた。**と記事のリード文にある。上の写真を見ると、かやぶきの屋根とは印象が全く違う。土の上に植物を生やし、土の流失を防いでいたようだ。この土ぶきの名残が芝棟だとの見解もある。


芝棟の民家 屋根の棟に草を生やしている。

縄文時代の住居の屋根がかやぶきではなく、土ぶきだったということは以前既に書いた(過去ログ)。昨年12月のココブラ信州の火の見櫓の講座で、このことに触れて、資料も配布した(過去ログ)。

上掲の新聞記事には縄文文化全般が専門の大学教授・水ノ江和同さんの**かやぶきを主張する研究者は知る限りもはやいない**というコメントが載っている。

全国各地にある竪穴住居は土ぶきにするべきだと思うが、**かやぶきとの見方が主流だったことを「史実」として伝えるため、土ぶきの導入を見送ったという**長野県内のある教育委員会の見解が記事の最後に載っている。この様な言い訳を口実に正しく改めようとしない姿勢では困る。


以下過去ログ再掲

**「カヤ葺きの家」も、問題をはらんでいた。文化人類学者が北方民族の例を引いて、〝縄文時代の住居は土葺き〟であったと示唆したにもかかわらず、登呂遺跡(静岡県の弥生時代集落跡)の竪穴住居の復元以来、カヤ葺きの家が一般的な集落景観として固定していったようだ。焼失した竪穴住居が全国で多く発掘され、焼け落ちた柱材の上に焼けた土が載っているのを見ても、なかなか偏見は変わらなかった。カヤ葺きだけでなく、土葺き屋根も相当普及していたのである**230、231頁(『日本の歴史01 縄文の生活史』岡村道雄(講談社2000)  

茅葺きの存在も認める記述だが、これは定説に対する配慮というか遠慮かもしれない。縄文時代の住居は樹皮・草木で葺いた屋根の上に土を被せた土葺き屋根だったと理解していた方がよさそうだ。


ラーメンにおけるナルトの存在意義に関する一考察

2019-11-28 | C あれこれ考える〇

 東海林さだおさんの食エッセイ、丸かじりシリーズは「タクアンの丸かじり」、「親子丼の丸かじり」、「どぜうの丸かじり」、「パンの耳の丸かじり」などなど何冊も文春文庫になっている。先日読んだ「レバ刺しの丸かじり」のカバー折り返しに載っている同シリーズの冊数を数えると23冊もある。

「レバ刺しの丸かじり」に収録されている「とナルト、ナルトは」で東海林さんは注文したラーメンにナルトが入っていると**「まいったなー」とか、「弱ったなー」というのとは少し違って、「ややこしいことになった」といったところが、ぼくの場合の心境です。**(17、8頁)と書いている。

「ナルト以後」つまりナルトを食べてしまった後のラーメンは**丼の中がすっきりし、快適になり、暮らしやすく、じゃなかった食べやすくなる。**(20頁)とも書いている。

ラーメンのナルト。たかがナルト、されどナルト、となるとナルトについて考えなくては。

ということで本稿に「ラーメンにおけるナルトの存在意義に関する一考察」などと大層なタイトルをつけた。だ
が中身は無し。

ナルトはかまぼこの一種。名前の由来として白字に赤い渦というその姿を鳴門海峡の渦に見立てたことによるという説明には説得力がある。生産量は静岡県焼津市が全国1位。

なつかしのラーメンにナルトは欠かせない存在

昔、ラーメンの具材としてナルトは欠かせなかった、と思う。ネギとメンマ、そしてナルト。ナルトは決して浮いた存在ではなかった。昔ながらのなつかしの味、というラーメンにナルトは欠かせない存在。でも今はナルトを入れないラーメンが主流だ。

型具材としてかかせないナルトの存在

ここは味の良し悪しではなく、見た目の問題というか、定型、お決まりのパターンの問題なのかもしれない。ショートケーキのイチゴと同じように。で、鍋焼きうどんの場合は断然かまぼこというのもやはりそれが定型だから。

ラーメンのオリジナリティ表現にナルトは邪魔な存在

ナルトを入れないのは一体なぜだろう・・・。

あまりに個性的な姿のナルトを入れるとラーメンにオリジナル感を出せない、ということもラーメンを提供する店としてはあるかもしれない。具材の少ないシンプルラーメンではなおさらだ。昔はどこの食堂でも同じような丼で同じような、定型ラーメンというか、お決まりのラーメンを出していたが、今は違う。ラーメンはもちろん丼までも独自のデザインの店が多い。



撮影日160910

昨日、旧八坂村からの帰りに池田町の食堂「龍門」で五目ラーメンを食べた。ナルトは丼の端っこで遠慮気味(って思ってしまったのは東海林さんのエッセイでナルトについて読んでいたからかもしれない)。

五目ラーメンの彩りにナルトはあった方がよい存在

この五目ラーメンの場合、ナルトは具材の中で浮いた感じはしない。必要なメンバーの一員だ。ゆで玉子の白地に黄色、小エビのオレンジ、エンドウの緑、そしてナルトの白地に
ピンク。なかなかの彩りだが、ナルトがなければ少しさみしく感じるだろう。そう、ナルトはこの五目ラーメンの彩りに欠かせない存在だ。

ナルトの味が好きという人は少ないかもしれない

ではナルトの味はどうか。同じ練りものでもかまぼことは違って「粉っぽい」(味の表現が苦手だが、「粉っぽい」は分かっていただけると思う)。きらいという程ではないが、ナルトがのっているのを見て、「やったぁ」とか「ラッキィー」と思うことはない。好きでもなく、きらいでもなくといったところ。

ではナルトの替わりにかまぼこをのせたらどうだろう。それは無い。もしかまぼこがのっていたら、何これ?ナルトの代用でかまぼこか、と少しがっかりするかも。
やはりかまぼこではだめ、ナルトでなければ。

まとめ 創作ラーメンにナルトは不要、なつかしのラーメンにナルトは必要


 


「生きてるってことを示したってことだね」

2019-11-03 | C あれこれ考える〇

 道路の渋滞情報を聞いて迂回する。午後から雨が降ると朝の天気予報で聞いて傘を持参する。安売りのチラシを見て買い物に出かける。友人が入院したと聞いて見舞いに行く。親しい友人の相談に答える。以上の例示は高次(高いレベル)の情報に対する対応(反応)と言える。私たちはこのように様々な情報を得て、それに対応した行動をするということを日常的に行っている。この様な対応の繰り返しこそが日常生活だと言えなくもない。

また、例えば眩しい日射しに手をかざす、騒音に耳を塞ぐというように低次の情報に対しても常に反応している。医師が患者の眼に光をあてて瞳孔反応を見るというような行為は最も低次の情報(刺激)に対する生体反応の確認だ。

外界からもたらされる様々な情報に対して対応行動をとる、情報を返す、反応するということが生きていることだとも言えるだろう。情報が高次になると、対応は人によって異なる。災害情報を得て、ボランティアに出かけたり、募金したりする人もいるし、そういう対応を全くとらない人もいる。社会的な情報に対してどう対応するかは人それぞれ。これは生き方の問題で、生活観、人生観に根ざすことなのだろう。

私たちが情報発信をするということ、このことを生きているということの証として捉えることもできるだろう。じゃあ、「便りが無いのは良い便り」っていうじゃない、これどういうこと?(*1) などとチコちゃん的なツッコミをされても困るけれど・・・。

「本を出したってことは生きてるってことを示したってことだ、そういうことだね」と妹から言われて、ここしばらく考えていたことを書いてみた。




『あ、火の見櫓!』のお礼にと、いとこは自分で描いた水彩画の絵はがきセットを送ってきてくれた。これは彼が「生きている」というメッセージと捉えればいいのか。なるほど、妹の言ったことが済めた。

*1 チコちゃん、この稿で書いている「生きている」というのはただ単につつがなく生活しているという意味ではないよ。


 


佐原 40年ぶりの再訪

2019-09-03 | C あれこれ考える〇

時は流れた

 9月1日、東京駅八重洲口を朝8時50分に出る高速バスで佐原へ。10時半ころ佐原駅に着き、徒歩で伊能忠敬旧宅に向かった。佐原は40年ぶりだ。

休憩所で入手した香取市の市政要覧2018によると、平成29年に佐原の小野川沿いを訪れた観光客は65万人。私が訪れた40年前とはまちの雰囲気がだいぶ変わり、観光地と化していた。


撮影日1979年10月10日


撮影日2019年9月1日


撮影日1979年10月10日


撮影日2019年9月1日




旧宅の土間に立って座敷を見る


書院外観



40年前は旧宅の奥の蔵が忠敬の記念館だったが、近くに記念館ができていた。


鉄筋コンクリート造 蔵を模したデザインの伊能忠敬記念館(展示室内は撮影禁止)

家督を息子に譲り引退した忠敬は50歳で江戸に移住し、江戸幕府の役人でもあった高橋至時(よしとき)に弟子入り、当時最先端の天文学を学ぶ。55歳から71歳までの足掛け17年間で全国を測量する。その成果は「大日本沿海興地全図」などの伊能図となる。記念館で繊細に描かれた地図に見入った。

『四千万歩の男 忠敬の生き方』で著者の井上ひさしはで「前半生の充実と後半生の偉業」という小見出しの文章を書いているが、伊能忠敬の人生を簡潔にして的確に捉えた小見出しだと思う。

私の後半生で偉業はとても無理、せめて充実の日々を過ごしたい・・・。


 


デザインのルール

2019-07-19 | C あれこれ考える〇

  

 今回はレバーハンドルを例に、デザインの「ルール」について。

住宅の玄関は引き違い戸ではなく、開き戸が多くなった。理由として洋風のデザインの増加や開き戸の方が施錠しやすいということなどが挙げられるだろう。

さて、この開き戸、かつては握り玉をつけることが多かったが、最近ではレバーハンドルが圧倒的に多くなった。メーカーのカタログには材質や形状が異なるたくさんの製品が載っている。上のレバーハンドルの写真はあるメーカーのカタログに載っている製品。

別に確認するまでもないことだが、レバーハンドルは上の写真の例だと右手でレバーを下げる(時計回りに回転させる)という操作をするということは経験上分かるが、ふたつを比較した場合、どちらがその操作をイメージしやすいだろう・・・。

回転させるという操作が視覚的に伝わってくるのは右だ。左はレバーハンドル初めてっていう人なら手前に引いてしまうかもしれない。

操作方法が見ただけで分かることが人が操作するもの(家電製品でも道具でも建築部品でもなんでも)のデザインの基本的なルール。

視覚的に操作方法が分かること、というルールはまだ世の中の常識ではないようだ。この条件を満たす製品がまだまだ少ない(どのメーカーでも事情は同じ)。あるいはデザイン過多によって減ってしまったのか。

操作方法が分からなくて戸惑ったという経験がないだろうか。 

小さな子ども、ハンディを持った人、そして私のように老人力がついてきた人にも操作方法が分かりやすいことがデザインのルール(いわゆるユニバーサルデザイン)だといわれて久しいが、このルールに基づくデザインが常識になるのはまだまだ先のことのようだ。


2007年1月6日に投稿した記事に加筆、再掲した。


旧開智学校校舎 国宝指定答申報告会

2019-07-07 | C あれこれ考える〇

 松本市立博物館で昨日(6日)開かれた「旧開智学校校舎 国宝指定答申報告会」に出席した。旧開智学校校舎学芸員の遠藤正教さんが、次のような内容の報告を行った(会場で配布されたレジュメによる)。

1 文化審議会の答申について
2 調査研究報告書について
 (1)擬洋風建築とは
 (2)建築編
 (3)教育編
 (4)歴史編
 (5)結語
3 研究事業について

この調査研究報告書を報告会終了後に買い求めた。他にも読みかけの本があるが、この興味深い報告書も早く読みたい。この調査研究が国宝答申を後押ししたと新聞に載っている。



報告会で 校舎正面のシンボリックなデザインについて、なるほど!なことを知った。



清水重敦氏(京都工芸繊維大学教授)が次のような指摘をしているという。**旧開智学校校舎の車寄は、開成学校の正面ポーチと脇棟車寄の唐破風を上下の重ねて再構成されている(後略)**以上、報告者32頁からの引用(下線は私が引いた)




開成学校のポーチ(下)唐破風(上)

開成学校の唐破風とポーチを上下に重ねて構成しているそうだ。なるほど!



旧開智学校を設計・施工した立石清重(過去ログ)は異なる要素を上下に重ねることが好きだった、と遠藤さん。中町通りのはかり資料館の裏庭に移築され、2011年2月11日から一般公開されている旧三松屋蔵座敷(過去ログ)も立石の作品だが、和室の上に洋室を重ねている。

*****

それからもうひとつ、八角形の塔屋のデザインについて。学芸員の遠藤さんから次のような説明を聞いた。

旧開智学校を特徴付けている八角形の塔屋は設計初期には無かったそうで、設計途中、というか工事の直前で追加が検討されたという。

建設に必要な木材のリストにはじめは無かった部材、柱5.5間(約10m)×5寸×6寸 松 4、 柱4.5間×5寸×6寸 松 4 が追加されていて、これが塔屋用だそうだ。

校舎平面図(設計途中の検討図面か)にも塔屋を描いた別の紙が後貼りされているという。この図面は展示されているのだろうか、8月3日に予定されている見学会(予約制)で確認したい。

塔屋が第一国立銀行と海軍兵学寮と酷似しているということも説明があった。会場のスクリーンに映し出された写真は確かによく似ていた。第一国立銀行の塔屋は高欄が方形で、旧開智学校の塔屋の高欄も方形で検討された時期があり、前述の図面では高欄は方形だという。

このことについては、報告書の33頁にも**塔屋の形状は第一国立銀行と海軍兵学寮と酷似している(*1)。**とある。



*1 立石清重は旧開智学校の設計にあたり、東京や横浜に洋風建築の見学に出かけている(徒歩で)。

今まで知らなかったことを知るということは楽しく、嬉しいものだ。8月3日の見学会も予約した、今から楽しみ。


国宝 「寒山図」@サンリツ服部美術館

2019-06-22 | C あれこれ考える〇



 昨日(21日)出かける予定だったサンリツ服部美術館に行って来た。諏訪湖岸にあるこの美術館は内井昭蔵さんの設計。内井さん設計で馴染みの建築と言えば世田谷美術館だろう。ヴォールト屋根とコンクリート打ち放しと凹凸のあるタイルの外壁、この構成の外観が両美術館に共通している。

湖岸道路沿いに計画された美術館の2階は両サイドに展示室があり、その間に喫茶室を配置したプラン。展示室1(上の写真で手前に写っている)には近現代西洋絵画が、展示室2(後方に写っている)には日本及び東洋の古美術品が展示されている。

展示室2では「日本・中国絵画展 画家たちの技と表現」が今月30日までの会期で開催されている。展示の目玉はなんといっても日本の初期水墨画を代表する「寒山図」。14世紀の前半に活躍したといわれる可翁の作品で国宝だ。

寒山という唐の時代の僧が両腕を背面で組み、少し上を向いて立つ姿をを描いた水墨画。上半身を思い切りよく引いた太い線で描いているところが魅力だ。引き直しできない線、というのが好い。顔の表情は細かく描かれていて、上半身の線との対比も好い。

他には室町時代につくられたという「秋野蒔絵手箱」に魅せられた。

展示室1の作品ではポール・ギアマンというフランス出身の画家の静物画「花とヴァイオリン」が好かった。主題である机の上の花とヴァイオリンより机の赤と背景の青の強烈な対比が印象的な作品。

ラウル・デュフィの作品も2点、「静物のあるアトリエ」と「モーツァルト」が展示されていた。デュフィの作品は以前東京で鑑賞している(過去ログ)。透明感のある色彩画。

*****

先日旧開智学校校舎が国宝に指定されることが決まった。そのことを伝える新聞記事に長野県の国宝が全て紹介されていて、この美術館が共に国宝の「寒山図」と「白楽茶碗 銘 不二山」を所蔵していることを知った。「寒山図」が特別展示されていることを知り、出かけた次第。なお、7月6日から9月29日までの会期で開催される特別企画展「茶人たちに愛された数々の名碗」で白楽茶碗 銘 不二山が展示される。


 


松本城天守へのアプローチ動線

2019-01-20 | C あれこれ考える〇


国宝 松本城 撮影日190117



■ 松本城の公園(上図で現在地と赤文字で示されている場所)には①の図が掲示されている。この図を見ると観光客にも人気の女鳥羽川沿いの縄手通り辺りはかつて松本城天守を3重に囲む堀の一番外側の総堀(図中紫色の線で輪郭が表示されている)だったことが分かる。ちなみにこの図の城にアプローチする大名小路は現在の大名町通り。




松本城(松本市)のホームページに示されている案内図(動線を加筆した)

③の図で分かるように現在は外堀の南側・西側が埋め立てられている。

観光客は黄色い線で示した動線で黒門から本丸庭園、天守へとアプローチするが、元々は朱色の線で示した太鼓門から外堀の内側に入る動線だった。このことを太鼓門の近くに設置されている②の図は示している。黄色い動線と朱色の動線とでは当然のことながらシークエンス(連続的に展開する場面の様子)が全く違い、城全体の空間構成の印象も全く違う。

 

③の図の印の位置から黄色い動線を見る。




太鼓門 撮影日190119

③の図で朱色で示す動線、太鼓門からのアプローチの様子。動線は長くなるが、こちらが天守への本来のアプローチ。

ところで松本市は外堀の復元計画を進める予定だったが、掘削予定の場所の土壌の汚染(自然由来の汚染だそうだ)が確認されたため、堀の掘削復元をしないで、堀の範囲を平面的に表示する平面整備に変更することを決定した。土壌汚染の処理に要する多額の費用は法的にその土地の持ち主であった個人の負担になるとのことだ。

平面整備なら現在の黄色の動線はそのままになるのだろうが、本来の朱色の動線に限定してしまったらどうだろうと私は思うのだが・・・。

*****


松本市内の古書店で100円で買い求めた3枚続きの絵はがき(明治18年の旧制松本中学の開校式の絵図)


上掲の絵はがきに描かれている橋の写真   松本深志高校創立140周年企画展(2016年)


外堀に橋を架けてショートカット動線(黄色の動線)を確保していた時代もあった。