竹取翁と万葉集のお勉強

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万葉集 集歌81から集歌84

2020年01月20日 | 新訓 万葉集
和銅五年壬子夏四月、遣長田王于伊勢齊宮時、山邊御井謌
標訓 和銅五年(七一二)壬子の夏四月、長田(おさだの)王(おほきみ)を伊勢の齊宮(いつきのみや)に遣はしし時に、山邊の御井の謌
集歌八一
原文 山邊乃 御井乎見我弖利 神風乃 伊勢處女等 相見鶴鴨
訓読 山し辺(へ)の御井(みゐ)を見がてり神風(かむかぜ)の伊勢処女(をとめ)どもあひ見つるかも
私訳 山の辺の御井を見たいと願っていたら思いもかけずも、神風の吹く伊勢の斎宮にお仕えするために赴く女性たちにお会いしました。
注意 原文の「伊勢處女」の「處女」には、親と共にその場所に居住する女性の意味合いですから、「伊勢處女」とは伊勢皇大神宮の斎宮で斎王に従う女達の意味になります。つまり、集歌八一の歌は標準解釈とは違い、斎宮に仕える女性とそれを引率する長田王への餞別の歌です。また、「山辺御井」は奈良市都祁の都祁水分神社にあった清水です。

集歌八二
原文 浦佐夫流 情佐麻弥之 久堅乃 天之四具礼能 流相見者
訓読 心(うら)さぶる情(こころ)さ益(ま)やし久方の天し時雨(しぐれ)の流らふ見れば
私訳 うら淋しい感情がどんどん募って来る。遥か彼方の天空に時雨の雨雲が流れているのを眺めると。
注意 原文の「情佐麻弥之」の「弥」は、標準解釈では「祢」と変え「情(こころ)さ数多(まね)し」と訓じます。

集歌八三
原文 海底 奥津白波 立田山 何時鹿越奈武 妹之當見武
訓読 海(わた)し底(そこ)沖つ白波立田山いつか越えなむ妹しあたり見む
私訳 海の奥底が深い、その沖に白波が立つ。その言葉のひびきではないが、龍田山を何時かは越えて行こう。麗しい貴女の住むあたりを眺めるために(=逢いに行くために)。
左注 右二首今案、不似御井所。若疑當時誦之古謌歟。
注訓 右の二首は今案(かむが)ふるに、御井の所に似ず。若(けだ)し疑ふらくに時に當りて誦(うた)ふる古き謌か。
注意 飛鳥・奈良時代は、御幸巡行の記事に示すように伊勢国への行き来には陸路の伊勢街道と海路の紀伊、熊野経由の二通りがあります。歌からは長田王一行は伊勢神宮に赴くに熊野経由で行かれたと推定されます。それで、これら三首はその予定行程での国境の龍田越えを詠ったものと思われます。推定で、左注は万葉集編纂時のものではなく、伊勢国への海路の歴史がなくなった平安時代中期から後期以降と思われます。

寧樂宮
標訓 寧樂宮(ならのみや)

長皇子與志貴皇子於佐紀宮倶宴謌
標訓 長皇子の志貴皇子と佐紀宮に倶(とも)に宴(うたげ)せる謌
集歌八四
原文 秋去者 今毛見如 妻戀尓 鹿将鳴山曽 高野原之宇倍
訓読 秋さらば今も見るごと妻恋ひに鹿(か)鳴かむ山ぞ高野原(たかのはら)し上
私訳 秋になったならば、「鹿鳴」の漢詩の一節「我有旨酒、以嘉樂嘉賓之心」ではないが、今、このように皆が集い眺めているように、妻を恋焦がれて牡鹿が啼く、そのように友を呼び寄せ集う山です。高野原のあたりにある山は。
左注 右一首長皇子
注訓 右の一首は長皇子
注意 本来、奈良の都への遷都は和銅三年(七一〇)三月のこととされています。つまり、集歌七八の歌からは奈良宮の時代は始まっていますので、巻一を閉めるために次の時代を代表する長皇子と志貴皇子とが関わる歌を載せたと考えます。なお、歌は「詩経 鹿鳴」の詩の情景を引用して宴と情景を詠うものです。また、「高野原」は奈良市佐紀町一帯の原野です。

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