竹取翁と万葉集のお勉強

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万葉雑記 色眼鏡 百十六 近江高島の歌を鑑賞する

2015年05月02日 | 万葉集 雑記
万葉雑記 色眼鏡 百十六 近江高島の歌を鑑賞する

 今回は奈良時代初期までは重要な歌題となっていた近江国高島と云う地名を取り上げます。この近江国高島とは現在の滋賀県高島市一帯のことであり、『日本書紀』には継体天皇の母親である振媛の故郷として近江国高嶋郡三尾の別業が紹介されるほどに歴史ある場所です。また、地理的には琵琶湖最北端の西側地域に当たり、一山越えると若狭や小浜と云う日本海若狭湾に連絡すると云う交通の要所でもあります。
 このような地理的事情からか、一般には北琵琶湖西岸を詠う歌は畿内と北陸若狭や小浜を結ぶ重要幹線路である塩津街道や西近江路の宿場や津を詠うものとして認識されていると思います。その代表的な万葉集歌が若狭への塩津街道を詠う笠朝臣金村の塩津山の歌二首です。この笠金村が詠う歌は確実に北陸若狭へと抜ける時の歌です。

笠朝臣金村塩津山作謌二首
標訓 笠朝臣金村の塩津山にて作れる謌二首
集歌364 大夫之 弓上振起 射都流矢乎 後将見人者 語継金
訓読 大夫(ますらを)し弓上(ゆづゑ)振り起(こ)し射つる矢を後(のち)見む人は語り継ぐがね
私訳 塩津山の峠で立派な大夫が弓末を振り起こして射った矢を、後にそれを見る人はきっと語り継いでしょう。

集歌365 塩津山 打越去者 我乗有 馬曽爪突 家戀良霜
訓読 塩津山(しほつやま)打ち越え行けば我が乗れる馬ぞ爪(つま)づく家恋ふらしも
私訳 塩津山を越えて行こうとすると、私が乗る馬がつまずく。家に残す人が私を慕っているようです。


 さて、今回は近江国高島に焦点を当てていますので、その高島の地名を直接に詠うもの八首と高島でももう少し狭い地名を詠うもの三首、都合、十一首を鑑賞します。
 これらの歌々は先に紹介した笠金村が詠う塩津山のものとは違い、旅の通過地点での要所々々で道中の安全を祈って土地誉めや地神に手向けをするようなものではありません。高島と云う場所が何らかの目的地であり、さらにまたその土地の風景や故事を楽しむと云うような雰囲気があります。つまり、古代において、高島と云う場所は都市であり名所だったと思われます。
 最初に集歌275の歌を鑑賞します。歌自体は特別に難しい歌ではありませんので、歌の周辺を紹介いたします。
 この高市連黒人が詠う高嶋の勝野の歌は、推定で大宝二年(702)の持統太上天皇の三河国への御幸の時、その帰路で別行動をして詠ったものと考えます。場所は高島市を流れる阿渡川(現在の安曇川)が琵琶湖へと注ぐ河口付近南側に広がる野原です。高市黒人は神祇官でも大史のような役人ではなかったかと思われていますので、場合により持統太上天皇の命令で天武天皇ゆかりの白髭神社(比良明神)を代参したときのものかもしれません。

高市連黒人覊旅謌八首より
集歌275 何處 吾将宿 高嶋乃 勝野原尓 此日暮去者
訓読 いづくにか吾し宿(やど)らむ高島の勝野(かちの)し原にこの日暮(く)れなば
私訳 どこに今夜、私は宿を取りましょうか。高嶋の勝野の野原で、この日が暮れてしまったら。

 次に巻七に載る集歌1171と集歌1172の歌を見てみます。歌は無名歌人のもので、高嶋の勝野の湊での過去の回想を詠います。ただし、巻七には人麻呂歌集に載る集歌1690の歌(後で紹介)をそのままに引用した集歌1238の歌が載せられており、もし、同一人物のものとしますと、その無名歌人は柿本人麻呂歌集に載る歌を前提に改めて歌を詠っている可能性があります。その場合、集歌1171の歌で「大御舟 竟而佐守布」と詠いますが、その“大御舟”は伝承の船の幻影だけです。巻二には天智天皇の挽歌で「大御船」を詠う歌が集歌151の歌を始めとして複数ありますので、可能性として天智天皇が高島を訪れがありその伝承を詠ったのかもしれません。

無名歌人
集歌1171 大御舟 竟而佐守布 高嶋之 三尾勝野之 奈伎左思所念
訓読 大御舟(おほみふね)竟(を)へにさもらふ高島し三尾し勝野(かちの)し渚(なぎさ)しそ念(も)ゆ
私訳 天皇の御座する大御舟が航海して停泊する、あの高島の三尾の勝野の渚での出来事を思い出します。

無名歌人
集歌1172 何處可 舟乗為家牟 高嶋之 香取乃浦従 己藝出来船
訓読 いづくにか舟乗りしけむ高島し香取(かとり)の浦ゆ榜(こ)ぎ出(で)来(く)る船
私訳 どこから船出して来たのだろうか。高島の香取の浦の方から帆を操って出航して来る船よ。

無名歌人
集歌1238 竹嶋乃 阿戸白波者 動友 吾家思 五百入鉇染
訓読 高島の阿戸(あと)白波は騒けども吾し家(いへ)思(も)ふ廬(いほり)悲しみ
私訳 高島の安曇の白波は打ち寄せ騒がしいけれど、私は故郷の家を偲ぶ。仮の宿りが侘しい。

<参考歌>
天皇大殯之時歌二首
標訓 天皇(すめらみこと)の大殯(おほあらき)の時の歌二首
集歌151 如是有乃 豫知勢婆 大御船 泊之登萬里人 標結麻思乎  (額田王)
訓読 かからくの豫(かね)て知りせば大御船(おほみふね)泊(は)てし泊(とま)りに標(しめ)結(ゆ)はましを
私訳 このようなことがあらかじめ知っていたのなら大御船が泊まっている湊に標を結って出港しないように留めましたのに。

 おまけの船に関する雑談ですが、天智天皇十年に「唐国使人郭務宗等六百人。送使沙宅孫登等一千四百人。総合二千人。乗船四十七隻、倶泊於比智嶋」と云う記事があり、これからしますと記事に示す軍船の大きさは平均乗員換算で四十三人程度となります。奈良時代に使われた新羅船や渤海船が船長二十m位、水夫十五人程度で操る帆走のジャンク船タイプで定員が五十人位とされていますから、それに等しいものだったようです。近江朝時代の技術伝来を考えますと、『万葉集』の歌が詠われていた時代、琵琶湖には船長二十m級の大船が航行していたと思われます。少し時代は下りますが『続日本紀』の大宝元年に文武天皇の紀伊国御幸に関係する記事があり、そこでは「営造行宮、兼造御船卅八艘。予備水行也」とあります。この御船もまた新羅船と同等な構造とサイズだったと想像します。

 次いで柿本人麻呂歌集に載る集歌1690と集歌1691の歌を鑑賞します。弊著「職業人としての柿本人麻呂」で説明しましたが、歌は天智天皇が治めた近江朝廷時代に国家として製鉄業を興すために鉄鉱石の鉱山を探し求めたときの歌です。推定で天智天皇七年頃、人麻呂が二十二歳前後です。
 歌が詠われた場所は阿渡川(現在の安曇川)が琵琶湖へと注ぐ河口付近南側に広がる香取の入り江(現在の乙女ヶ池)の南側、それも白髭神社に近い山裾付近と思われます。そのため、月の出を遮るものはありませんが、月の入は白髭神社後背の岳山によってすぐに遮られます。

高島作謌二首 人麻呂歌集より
標訓 高島にして作れる歌二首
集歌1690 高嶋之 阿渡川波者 驟鞆 吾者家思 宿加奈之弥
訓読 高島し阿渡(あと)川波(かわなみ)は騒くともわれは家(いへ)思(も)ふ宿(たび)し悲しみ
私訳 高島の阿渡川の川浪が音高く騒いでいても、それでもしみじみ、私は家を思い出します。旅の辛さに。

集歌1691 客在者 三更刺而 照月 高嶋山 隠惜毛
訓読 旅なれば夜中(やなか)を指して照る月し高島山し隠らく惜しも
私訳 旅なので大和では夜通し照る月が、ここでは夜半に高島山に隠れて行くのが惜しいことです。

 次に巻七に載る高市と少辨の歌を鑑賞します。集歌1718の歌での高市は高市黒人と同一人物と思われ、もし、同一人物ですと先に見ました集歌275の歌が詠われた時に詠われたものとの推定が可能となります。琵琶湖沖合から大船が香取の入り江へと入って来るような景色です。
 次いで少辨の歌ですが、これは高市の歌とは船の針路が逆となっています。阿渡の津の沖合に積荷を載せた大船が南から北へと航行して来て、香取の入り江に入ることなく北陸若狭への中継基地となる塩津の湊へと向かう雰囲気です。
 参考として左弁官が神祇官を所掌したとされますから、場合により五位格の少弁が比良明神への天皇代参の正使であり、神祇官大史格の高市黒人が副使の立場であったかもしれません。その場合、歌は先に白髭神社の沖合を南から北へと行く船を眺めて高市黒人が詠い出し、次いで少弁が歌を詠む時には、その船は香取の湊を通り過ぎ、北へと向かっていたのかもしれません。

高市謌一首
標訓 高市(たけち)の歌一首より
集歌1718 足利思伐 榜行舟薄 高嶋之 足速之水門尓 極尓濫鴨
訓読 率(あとも)ひて榜(こ)ぎ行く舟は高島(たかしま)し阿渡(あと)し水門(みなと)に泊(は)てるらむかも
私訳 船人を率いて帆を操り行く舟は、高島の阿渡の湊に停泊するのでしょうか。

少辨謌一首
標訓 少辨(せうべん)の歌一首より
集歌1734 高嶋之 足利湖乎 滂過而 塩津菅浦 今者将滂
訓読 高島(たかしま)し阿渡(あと)し湖(みなと)を滂(こ)ぎ過ぎて塩津(しほつ)菅浦(すがうら)今は滂(こ)ぐらむ
私訳 高島にある阿渡の湖を船を操って行き過ぎ、塩津の菅浦を、今、船は航行しているでしょう。

 以上、紹介しました八首は直接に近江国高島郡の地名を詠います。

 次からの三首は高島郡よりも、さらに狭い地域を直接に詠います。そのトップバッターとして、集歌1224の歌に詠う「大葉山」は現在の高島市今津にある饗庭野台地、または三尾の岳山のことではないかと推定されています。この付近の琵琶湖湖畔には勝野、今津、塩津と有名な琵琶湖北岸の古代の湊が点在していて、岬を回る毎にそれらの湊が現れて来ますので、大まかな場所は判っているが、船泊りした場所が定かではないと云う歌の雰囲気に沿います。
 なお、集歌1732の歌「母山 霞棚引 左夜深而」の初句を「祖母山」と読み替えて紀伊国にある祖母山のことと解釈した人もいました。その関係でこの「大葉山」も「祖母山」と同等と見なして紀伊国の山ではないかとする説が存在したようです。しかしながら、集歌1732の歌は集歌1733の歌との組み歌としますと、集歌1733の歌から詠う場所は壬申の乱の激戦地三尾城(個人の推定で鴨稲荷山古墳付近か)があった高島市三尾付近の山でなくてはいけなくなります。
 参考情報として集歌1733の歌で詠われる「水尾埼」は白髭神社のある「三尾崎」、「真長乃浦」は「香取の入り江(現在の乙女ヶ池)の琵琶湖側の長い砂浜」を示すと比定されています。ついでに碁師が詠う集歌1732の歌は集歌1224の歌のそっくりのパクリですから、碁師が「大葉山」を「母山」と間違えたか、継体天皇の母親振媛の故郷である三尾郷にある山の名を「大葉山(おほははやま)」と読み、それを「母山(ははやま)」と洒落たのかは定かではありません。
 ご存知のように持統太上天皇、文武太行天皇、元明天皇は継体天皇を直接の祖とする天皇家ですし、天武天皇は壬申の乱の直後、継体天皇の母親振媛の故郷である三尾郷にある比良明神を敬ったと伝えます。元明天皇の時代に『日本紀』が上奏されていますから、紹介しましたように高島の三尾と云う地名と伝承は宮人であれば知らなくてはいけないものです。

無名歌人
集歌1224 大葉山 霞蒙 狭夜深而 吾船将泊 停不知文
訓読 大葉(おほば)山(やま)霞し蒙(おほ)ふさ夜(よ)更(ふ)けて吾が船泊(は)てむ泊(とま)り知らずも
私訳 大葉山を霞が覆い隠す、そのような夜は更けて、私が乗る船は泊まっている。どこの場所かは知らないが。

碁師謌二首
標訓 碁師(ごし)の歌二首より
集歌1733 思乍 雖来々不勝而 水尾埼 真長乃浦乎 又顧津
訓読 思ひつつ来(く)れど来(き)かねて三尾(みを)し崎真長(まなが)の浦をまたかへり見つ
私訳 心に気を懸けてやって来たので、帰り行きかねて三尾の崎や真長の入り江を、何度も振り返って見てしまう。

<参考歌>
集歌1732 母山 霞棚引 左夜深而 吾舟将泊 等万里不知母
訓読 はは山し霞たなびきさ夜(よ)更(ふ)けて吾(あ)が舟泊(は)てむ泊(とまり)知らずも
私訳 はは山に霞が棚びき、夜は更け行き、私が乗る船は停泊する。どこの湊かは知らないが。

 次に鑑賞するする歌は巻十一に載る人麻呂歌集からの歌です。現在ではほぼ柿本人麻呂本人の作品と考えられ、彼が若い時代に高島から恋人に贈った歌と推定されています。先に集歌1690と集歌1691の歌を鑑賞しましたが、表現方法が共に非漢詩体歌であり、場所も高島の勝野(香取から三尾一帯)を詠うところからほぼ同時期に詠われた歌ではないでしょうか。
 そうした時、詠われる歌の歌詞に興味が湧きます。歌からしますと近江朝時代には早くも南近江の唐崎から北近江の高島に大船の航路が開かれており、大量の物資の移動があったと想像させられます。すると、古代、まだ、万単位の人口を持つ都市が誕生していない時代に遠距離から大船で運ぶような大量な物資輸送の必要性があったのかについて興味が湧きます。大津京で消費する米ですと南近江で十分、調達が出来るでしょうし、大津京の住人の多くは天皇家を含めて摂津、木津、奈良に本貫を持つ豪族・氏族ですから、そちらからの自己調達ではないでしょうか。何を運んだか、実に興味が湧きます。

人麻呂歌集より
集歌2436 大船 香取海 慍下 何有人 物不念有
訓読 大船し香取(かとり)し海し慍(いかり)下(おろ)しいかなる人か物(もの)思(も)はずあらむ
私訳 大船が高島の香取の入江に碇を下ろす。その言葉のひびきではないが、逢えないことへの怒りを下す。どのような人が、逢えない恋人に物思いをしないことがあるでしょうか。

 さて、紹介しました集歌2436の歌に前後して配置された、次のような歌があります。これもまた人麻呂歌集からの歌で、ほぼ、人麻呂本人が詠う歌と推定されています。

集歌2423 路後 深津嶋山 暫 君目不見 苦有
訓読 道し後(しり)深津(ふかつ)島山(しまやま)暫(しまし)くも君し目見ずば苦しかりけり
私訳 近江路の奥に湊がある島のような高島の山。その言葉のひびきではありませんが、少しの間も、貴方と直接会っていないと心苦しいものです。

集歌2439 淡海 奥嶋山 奥儲 吾念妹 事繁
訓読 淡海(あふみ)し海(み)奥し島山(しまやま)奥まけて吾(わ)が思(も)ふ妹し事(こと)し繁けく
私訳 淡海の海の奥にある高島の島のような山の、その遥か遠くまでに私が貴女を思う気持ちはしきりに募ります。

 この集歌2423と集歌2439の歌の「深津嶋山」や「奥嶋山」の語感から、素人考えですが大津京のあった南近江を前としますと北近江が奥ではないでしょうか。これに先の集歌2436の歌を組み合わせますと、集歌2423や集歌2439の歌は北近江高島地方の海岸を詠っていると推定されます。
 ただし、歌では歌人が見る景色を「嶋山」と詠いますから、北近江の高島地方であってもそれは今津から眺めた海津大崎であり、または、海津大崎の東山から眺めた葛籠尾崎や竹生島となります。およそ、この二首を詠った時、人麻呂は今津から海津付近に居たと推定されます。
 手前味噌ではありますが、弊著「職業人としての柿本人麻呂」で示すように柿本人麻呂は製鉄製銅を生業とする柿本氏の一員で、若い時は鉱山技師として各地を探査しています。そうした時、この海津大崎は「サクラで有名になった海津大崎の東山一帯で、古代 この山から鉄鉱石を掘り出したという記録が残っています」と観光案内されるほどに有名な磁鉄鉱石の産地でした。十分に若き柿本人麻呂が海津大崎の景色を詠う根拠はあるのです。
 すると、妄想が湧きます。『古今和歌集』で人麻呂の歌とされた次の歌は有名な「海津大崎の暁霧」を詠うものかもしれません。

古今和歌集 巻九 歌番号409
ほのほのと あかしのうらの あさきりに しまかくれゆく ふなをしそもふ

 参考として、『古今和歌集』の歌は全句ひらがな表記で漢字は使わないのが決まりです。近代解釈である「明石」などの漢字表現は鑑賞者による創作で、古典ではありません。そのため、「あかしのうら」は「朝を明かした浦」、「夜が明ける浦」、「朝焼けが赤い浦」、「夜通し月明りの下に眺め、景色に飽かした浦」、「船に託した人を偲ぶ気持ちの証としての霧が立つ、その証の浦」などと複数の解釈が成り立ちます。同様に「あさきりに しまかくれゆく ふなをしそもふ」は「流れ来る朝霧に島が隠れて行く、その濃く立ち込める霧の中を行く船を思う」のか、「淡い朝霧が立ち込める海上に浮かぶ島の向こう側へと船が隠れ行く」のかの二通りの解釈が同時に存在します。霧の濃度が解釈により、全くに違います。このような事情で現代語訳を直ちに示すことは困難な歌です。従いまして歌を単純化してしまう「明石の浦」なる表記は『古今和歌集』の歌としては存在し得ませんので、江戸期以降になって兵庫県明石市付近の歌として新しい表記を採用したことに疑問があります。
 個人の感想で、『万葉集』の集歌2436と集歌2439の歌と『古今和歌集』の歌番409の歌とは同じ景色を眺めてのものとすることは可能と考えます。楊柳寺の覚証和尚ではありませんが、“歌碑を建てたもの勝ち”としての伝承創作が許されるのですと、この海津大崎にも柿本人麻呂の歌碑を建てて頂きたいものです。ただし、『古今和歌集』のものは原典通りに全句ひらがなでお願いします。明石市のような願望と期待からの漢字交じり平仮名表記での創作歌はだめです。

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