竹取翁と万葉集のお勉強

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万葉雑記 色眼鏡 二七九 今週のみそひと歌を振り返る その九九

2018年08月11日 | 万葉集 雑記
万葉雑記 色眼鏡 二七九 今週のみそひと歌を振り返る その九九

 今週は気になった訓じについて遊びます。それが集歌2578の歌で、最初に標準的なものを紹介します。

集歌2578
原歌 朝宿髪 吾者不梳 愛 君之手枕 觸義之鬼尾
萬葉集釋注 伊藤博
訓読 朝寝髪(あさねかみ)我れは梳(けづ)らじうるはしき君が手枕(たまくら)触(ふ)れてしものを
意訳 寝起きの朝髪を私は梳(くしけず)るまい。頼みとする我が君の手枕が触れた髪なのだから。

万葉集全訳注原文付 中西進
訓読 朝(あさ)寝(い)髪われは梳(けづ)らじ愛(うつく)しき君が手枕(たまくら)触(ふ)れてしものを
意訳 朝の寝乱れ髪を私は櫛でとくまい。いとしいあの方の、枕とした手が触れたものを。

 歌の三句目「愛」の訓じには「うるわしい」、「うつくしい」、「いとしい」、「かなしき」などがありますが、和歌三句目が五音となることから「うるわしい」と「うつくしい」の訓じが優性です。どちらが正解かは、現代の今となっては決められませんから、歌を受け取る人の解釈だけに拠ることになります。ただ、「うつくしい」の意味合いには美人のようなものではありません。相手がいとしい、かわいい、のような感情です。
 次いで末句「觸義之鬼尾」の「義之」と「鬼」についてみてみます。一般には「義之」は「羲之」の当て字・略字とし、王羲之のこととします。そして、奈良時代以降に大唐での書道の流行・好みが紹介され、王羲之の作品は書道でのお手本とされました。その書道書体でのお手本の意味合いから、王羲之を書道手本であることと本名を口に出すことを忌む風習から「手師(てし)」と尊称されます。そこから、末句の「義之」は「羲之」の当字、「羲之」は「手師」だから「てし」と訓じると云う戯訓が生まれました。本名を呼び名とすることを忌み名とするのに、表記では尊称でなく、本名を使うのかと云う野暮な質問は無しです。古今伝授のような和歌道の世界は趣味・感性であって学問ではありませんから、理屈は抜きです。漢語漢字本来の訓じですと、「義」は「ŋie̯」と発音しますから「にし」のような訓じとなります。
 また「鬼」と云う漢字は、元々は不可思議なものや、超自然的なものを表す古語の大和言葉「もの」に当てた漢字だったようですが、別系統において、古語「おぬ(隠)」が、訛り・変化して「おに」と云う言葉になり、同時に仏教経典などで人間の霊魂あるいは亡霊を意味する漢語漢字「鬼(kwe̯i)」に、大和言葉では別な精神世界では別な意味を持つ「もの」と区別するために大和言葉の「おぬ・おに」と云う訓じを充てたようです。やがて、時代が下るにつれ、鬼の訓じ「もの」から「おに」が優性になって行ったようです。総合しますと、古語の大和言葉で末句を訓じますと「ふれにしものを」となるようです。
 ただし、「義之」を「にし」と訓じたのでは、そこに何ら講釈はありません。それを「てし」と訓じるのが正解とするとき、その訓じの為には色々な講釈が生じ、ひいては和歌道の師匠の立場が生まれるのです。万葉集では特殊な戯訓として「大王」や「義之」と表記して「手師」と解釈し「てし」と訓じますが、調べでは「大王」では皇帝などの為政者へ、「義之」では王羲之本人への不敬となるためか、「手師」と解釈する例はありません。当然、日本でも律令制度と云うものを前提としますと、不敬となるような訓じ解釈は難しいと考えます。これらは律令制度が崩壊したあと、為政者の敬称が変化して初めて成り立つ解釈ではないでしょうか。
 弊ブログでは以上を踏まえ、次のように訓じ・解釈しています。

集歌2578 朝宿髪 吾者不梳 愛 君之手枕 觸義之鬼尾
訓読 朝寝(あさゐ)髪(かみ)吾(われ)は梳(けづ)らじ愛(うる)はしき君し手枕(たまくら)触れにしものを
私訳 朝の寝乱れ髪を私は梳くことはしません。愛しい貴方の腕枕にこの私の髪が触れたのですから。

 次いで集歌2583の歌に遊んでみます。訓じおいて四句目「如羊月」の「羊」が注目すべき漢字です。

集歌2583
原歌 相見而 幾久毛 不有尓 如羊月 所思可聞
萬葉集釋注 伊藤博
訓読 相見て幾久さにもあらなくに年月のごと思ほゆるかも
意訳 逢ってからそんなに長いあいだでもないのに、幾月も幾月も経ったように思われてならない。

万葉集全訳注原文付 中西進
訓読 相見てはいく久さにあらなくに年月の如思ほゆるかも
意訳 逢ってからそれほど長くたってもいないのに、何年も歳月を過ごしたように思われるよ。

 ここで、万葉集全訳注原文付の脚注で示すように四句目「如羊月」の「羊」と云う表記では訓じが得られないとして、伝統では「年」と校訂して解釈します。同じように人麻呂歌集に載る長歌 集歌3307の歌の「然有社 羊乃八歳叫」と云う表記は「羊」を「年」と校訂します。一方、弊ブログでは「羊」は「遥」の通字と考え、原歌表記のままとしています。四句目「如羊月」を校訂して「年月のように」と解釈するか、原歌のままで通字から「遥かな月のように」とし、一月ぐらいの時間の経過であり、眺めることは出来るが触れることは出来ない天空の月との二つの意味合いを持たせているのかとの解釈の相違が現われます。
 弊ブログでは総合しまして次のように解釈しています。

集歌2583 相見而 幾久毛 不有尓 如羊月 所思可聞
訓読 相し見に幾(いく)久(ひさ)しくもあらなくに遥か月ごと思ほゆるかも
私訳 貴方に抱かれてから、そんなに時は経ってもいないのに、もう、一月ほど経ったと思わるほどですし、遠くから眺めても直接にはお会いできない貴方ですね。

 万葉集の歌々の個々の原歌表記を一文字一文字確認しますと、斯様な遊びが可能になります。大変ではありますが、実社会からリタイヤしたようなものにはちょうど良い遊び道具です。ただ、専門に万葉集を研究する人には、まったくに時間ばかりが必要なものであり、不向きな世界と思います。出来合いの訓読み万葉集の漢字交じり平仮名歌を疑似原歌として、その翻訳された成果物の語字への研究が忙しい研究者には適切と思います。

 今回も戯言ばかりで、申し訳ありません。

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