万葉雑記 色眼鏡 二二七 今週のみそひと歌を振り返る その四七
今週は柿本人麻呂歌集の歌に遊びます。弊ブログですから、一般に説明されるものとは大きくその鑑賞が違います。そこをよろしくお願い致します。
集歌1247 大穴道 少御神 作 妹勢能山 見吉
訓読 大汝(おほなむち)少御神(すくなみかみ)し作らしし妹背(いもせ)し山を見らくしよしも
私訳 大汝と少御神との神が作られた妹背の山は見るとりっぱなことです。
標準に大己貴命(おほなむじのみこと)=大穴牟遲神と少彦名命(すくなひこなのみこと)=少名毘古那神の神話からしますと、出雲地方や播州地方の神話・民話とします。ところが、この集歌1247の歌は大穴牟遲神と少名毘古那神の二神を詠いますが、歌の舞台は出雲や播州ではありません。歌の舞台は奈良県吉野郡吉野町上市の旧伊勢街道と旧東熊野街道の分岐点となる妹山にある大名持神社近辺です。およそ、この付近は神功皇后や応神天皇に所縁の吉野離宮の地と比定される場所ですし、人麻呂が詠う持統天皇の吉野離宮や秋津野に当たります。つまり、この歌は人麻呂が吉野離宮への行幸に随行したときの歌と云うことになります。それも、漢詩体のスタイルで歌を詠いますから、時代として相当に早い時期と推定されます。推定で持統天皇三年八月ごろでしょうか。なお、現在、妹山の吉野川対岸の山を背山と呼びますが、いつからかは定かではありません。およそ、奈良時代の歌をたしなむ人々は柿本人麻呂の歌をよく知っていますから、集歌285の歌での「行幸」と云う場面と「勢能山」と云う漢字表記から、すぐに人麻呂が詠う集歌1247の歌を思い浮かべたということになります。それで紀伊との国境の「勢能山」は、似てはいるが吉野の秋津野の「妹勢能山」と違うと詠った訳なのです。
丹比真人笠麿徃紀伊國超勢能山時作謌一首
標訓 丹比真人笠麿の紀伊國に徃きて勢能(せの)山(やま)を超(こ)へし時に作れる謌一首
集歌285 栲領巾乃 懸巻欲寸 妹名乎 此勢能山尓 懸者奈何将有
訓読 栲(たく)領巾(ひれ)の懸(か)けまく欲(ほ)しき妹し名をこの背の山に懸(か)けばいかにあらむ
私訳 神威から振るとその身を引き寄せると云う白い栲の領巾を、肩に掛けるように心に懸けるほどに知りたい貴女の名前を、この愛しい貴女と云うような「背の山」の名に懸けたら、貴女はどのようにしますか。
研究者によりますと秋津野の「妹勢能山」の対岸の山を今は「背山」と称しますが、古代、そのようには呼ばなかったとようだとしますし、国境の「勢能山」の対岸の山を今は「妹山」と称しますが、これも古代ではそのように呼ばなかったのではないかとします。つまり、万葉集にこの「勢能山」が詠われ、そこから「妹兄(いもせ)」は対であるからと「妹山」と「兄山=背山」が作られ、「妹勢能山」に対して後に「背山」が生まれ、同じように「勢能山」に対して「妹山」が生まれたとします。
次に、集歌1249の歌と集歌1250の歌を鑑賞します。弊ブログでは歌は石見国美濃郡小野郷戸田の西に位置する長門国阿武郡奈吾郷(山口県阿武郡阿武町奈古)の「宇田(歌で詠われる打歌山)」付近の様子ではないかと考えています。
鑑賞しますこの集歌1249の歌の「浮沼池」の「浮(うき)」には「泥(うき)」の意味合いも込められているとの解説があります。すると、歌の風景からしますと、菱を摘む女性は衣を大きくたくしあげ泥沼に素脚をつけています。まず、岸辺から手を伸ばして届く範囲で一つ、二つほどの菱を摘む風情ではありません。このような情景は、下着の無かった時代、身分ある女性が見せる姿ではありません。次に集歌1250の歌で「菅賽採」とあります。原文では「實(shi)」ではなく「賽(sai)」の漢字が使われています。この「賽」の字にはサイコロ(賽子)の意味もありますが、神のお告げのような「報」の意味もあります。また、探している「菅」は現在ではヤブランのことを意味し、そのヤブランの根は催乳の効能を持つ薬草です。古くは、初冬にヤブランの実のついた茎を頼りに掘り取り、乾燥させて作ったとされています。ここに「報」の意味がきいてきます。歌は菅の実を採りに来たのではなく、菅の実を頼りに探して根を採りに来ていると告げているのです。なお、この「實(shi)」と「賽(sai)」の話題は、ある種、言い掛かりのようなものです。まともな人は相手にしないような説ですので、眉に唾をつけて鑑賞してください。
それでもこの二つの歌を合わせますと、新妻は家族のために沼に入り滋養ある菱の実を摘み、夫は山の藪の中で妊娠している妻のために催乳の効能を持つヤブランの根を探している風情となります。この相聞歌は、石見の妻が「愛しい幼子の母親」であると云う推定に相応しいものではないでしょうか。
集歌1249 君為 浮沼池 菱採 我染袖 沾在哉
訓読 君しため浮沼(うきぬま)池し菱つむとわが染めし袖濡れにけるかも
私訳 貴方のために浮沼の池の菱を摘みましょうと、私が染めた袖が濡れてしまったようです。
集歌1250 妹為 菅賽採 行吾 山路惑 此日暮
訓読 妹しため菅実(すがのみ)採りに行きし吾山路しまよひこの日暮しつ
私訳 恋人のために菅の実を採りに来た私は山路に迷ってこの一日が暮れてしまった。
今回も言い掛かりの鑑賞です。
今週は柿本人麻呂歌集の歌に遊びます。弊ブログですから、一般に説明されるものとは大きくその鑑賞が違います。そこをよろしくお願い致します。
集歌1247 大穴道 少御神 作 妹勢能山 見吉
訓読 大汝(おほなむち)少御神(すくなみかみ)し作らしし妹背(いもせ)し山を見らくしよしも
私訳 大汝と少御神との神が作られた妹背の山は見るとりっぱなことです。
標準に大己貴命(おほなむじのみこと)=大穴牟遲神と少彦名命(すくなひこなのみこと)=少名毘古那神の神話からしますと、出雲地方や播州地方の神話・民話とします。ところが、この集歌1247の歌は大穴牟遲神と少名毘古那神の二神を詠いますが、歌の舞台は出雲や播州ではありません。歌の舞台は奈良県吉野郡吉野町上市の旧伊勢街道と旧東熊野街道の分岐点となる妹山にある大名持神社近辺です。およそ、この付近は神功皇后や応神天皇に所縁の吉野離宮の地と比定される場所ですし、人麻呂が詠う持統天皇の吉野離宮や秋津野に当たります。つまり、この歌は人麻呂が吉野離宮への行幸に随行したときの歌と云うことになります。それも、漢詩体のスタイルで歌を詠いますから、時代として相当に早い時期と推定されます。推定で持統天皇三年八月ごろでしょうか。なお、現在、妹山の吉野川対岸の山を背山と呼びますが、いつからかは定かではありません。およそ、奈良時代の歌をたしなむ人々は柿本人麻呂の歌をよく知っていますから、集歌285の歌での「行幸」と云う場面と「勢能山」と云う漢字表記から、すぐに人麻呂が詠う集歌1247の歌を思い浮かべたということになります。それで紀伊との国境の「勢能山」は、似てはいるが吉野の秋津野の「妹勢能山」と違うと詠った訳なのです。
丹比真人笠麿徃紀伊國超勢能山時作謌一首
標訓 丹比真人笠麿の紀伊國に徃きて勢能(せの)山(やま)を超(こ)へし時に作れる謌一首
集歌285 栲領巾乃 懸巻欲寸 妹名乎 此勢能山尓 懸者奈何将有
訓読 栲(たく)領巾(ひれ)の懸(か)けまく欲(ほ)しき妹し名をこの背の山に懸(か)けばいかにあらむ
私訳 神威から振るとその身を引き寄せると云う白い栲の領巾を、肩に掛けるように心に懸けるほどに知りたい貴女の名前を、この愛しい貴女と云うような「背の山」の名に懸けたら、貴女はどのようにしますか。
研究者によりますと秋津野の「妹勢能山」の対岸の山を今は「背山」と称しますが、古代、そのようには呼ばなかったとようだとしますし、国境の「勢能山」の対岸の山を今は「妹山」と称しますが、これも古代ではそのように呼ばなかったのではないかとします。つまり、万葉集にこの「勢能山」が詠われ、そこから「妹兄(いもせ)」は対であるからと「妹山」と「兄山=背山」が作られ、「妹勢能山」に対して後に「背山」が生まれ、同じように「勢能山」に対して「妹山」が生まれたとします。
次に、集歌1249の歌と集歌1250の歌を鑑賞します。弊ブログでは歌は石見国美濃郡小野郷戸田の西に位置する長門国阿武郡奈吾郷(山口県阿武郡阿武町奈古)の「宇田(歌で詠われる打歌山)」付近の様子ではないかと考えています。
鑑賞しますこの集歌1249の歌の「浮沼池」の「浮(うき)」には「泥(うき)」の意味合いも込められているとの解説があります。すると、歌の風景からしますと、菱を摘む女性は衣を大きくたくしあげ泥沼に素脚をつけています。まず、岸辺から手を伸ばして届く範囲で一つ、二つほどの菱を摘む風情ではありません。このような情景は、下着の無かった時代、身分ある女性が見せる姿ではありません。次に集歌1250の歌で「菅賽採」とあります。原文では「實(shi)」ではなく「賽(sai)」の漢字が使われています。この「賽」の字にはサイコロ(賽子)の意味もありますが、神のお告げのような「報」の意味もあります。また、探している「菅」は現在ではヤブランのことを意味し、そのヤブランの根は催乳の効能を持つ薬草です。古くは、初冬にヤブランの実のついた茎を頼りに掘り取り、乾燥させて作ったとされています。ここに「報」の意味がきいてきます。歌は菅の実を採りに来たのではなく、菅の実を頼りに探して根を採りに来ていると告げているのです。なお、この「實(shi)」と「賽(sai)」の話題は、ある種、言い掛かりのようなものです。まともな人は相手にしないような説ですので、眉に唾をつけて鑑賞してください。
それでもこの二つの歌を合わせますと、新妻は家族のために沼に入り滋養ある菱の実を摘み、夫は山の藪の中で妊娠している妻のために催乳の効能を持つヤブランの根を探している風情となります。この相聞歌は、石見の妻が「愛しい幼子の母親」であると云う推定に相応しいものではないでしょうか。
集歌1249 君為 浮沼池 菱採 我染袖 沾在哉
訓読 君しため浮沼(うきぬま)池し菱つむとわが染めし袖濡れにけるかも
私訳 貴方のために浮沼の池の菱を摘みましょうと、私が染めた袖が濡れてしまったようです。
集歌1250 妹為 菅賽採 行吾 山路惑 此日暮
訓読 妹しため菅実(すがのみ)採りに行きし吾山路しまよひこの日暮しつ
私訳 恋人のために菅の実を採りに来た私は山路に迷ってこの一日が暮れてしまった。
今回も言い掛かりの鑑賞です。