私の関心事の大きなひとつ、
それは言葉です。
言葉の不可思議を想ったのです。
最初は何となく思っただけですが。
その切っ掛けはヨハネの言葉にある。
初めに、言葉があった。
言葉は神とともにあった。
言葉は神であった。
この意味が分からなかった。
ヨハネはイエスの弟子です。
当然に聖書の民です。
聖書に答えがあるのは当然。
その結果これは聖書(旧約)に呼応していると知る。
聖書は最初にこの世界が創られた様子を記している。
それは神によって創られたと。
しかもそれは主として、
神の口から出る言葉によると。
神の力の源泉はその言葉だと。
ヨハネはだから言葉は神だと。
言葉とはそれほどのものだと。
そう言っている。
・・・・・
イエスがまだ布教に出られる前だった。
御霊に導かれて荒野に上って行かれた。
そして四十日四十夜断食した後で空腹を覚えられた。
ときに悪魔が近づき試みて言った。
神の子ならこの石がパンになるよう命じなさい、と。
イエスは答えて言った。
人はパンだけで生きるのではなく、
神の口から出る一つ一つの言葉による、
と書いてある、と。
つまり聖書に書いてあると言ったのです。
そして神を試みてはいけない、とも。
それほどにイエスは敬虔な聖書の民であった。
後に神となるが。(そのときはまだ神の子)
ということだが、
神の口から出る一つ一つの言葉とは、
事の端であり森羅万象でありすべての現象だと、
私はそう理解した。
その理解に間違いはないだろう。
そも聖書にはそう記されている。
イエスはそれを言ったのである。
まさに神の子であった。
日本人も同様に考える。
森羅万象すべてに神が宿るとは上に同じ。
神の言葉は即ち神そのもの。
これまた一にして全である。
・・・・・
言葉はそれほどのものである。
迂闊に扱えば火傷を負うのだ。
だから楽園では禁忌とされた。
にも関らずそれに背いて手に入れた。
ゆえに楽園を追われた。
そも神のもので神そのものだとも謂えるもの、
その取扱に注意を要するのは当然で、
それに添っていればいいが、
そこから離れれば、
闇となる。
それはつまり現実に添えということで、
離れるほどに闇は大きくなり嘘となる。
なのに、
昨今の有様は闇が覆い嘘に満ちている。
何が問題なのか。
言葉はそも概念です。
概念とは脳内の幻想です。
現実に触発されたものと雖も。
つまりは現実ではないということ。
それを知ろう。
問題は得てして現実から大きく離れること。
特に抽象的概念がそうなりやすい。
今その抽象的概念が跋扈している。
・・・・・
怖いのはここからである。
我々は確かに現実に生きている。
そこに疑問はない。
でも目を醒ましたときから眠るときまで、
ずっと言葉に支配されている。
それに気付かない。
無意識ならそうではないかも知れない。
でも意識すれば必ず言葉を通している。
景色が目を通すように。
音色が耳を通すように。
意識は言葉と共にある。
そして纏わりついて離れない。
寝てる時も言葉を離れてはいない。
その間に記憶の整理をしてるのだ。
夢はどうだろう。
夢には映像があるかも知れない。
私は一度だけ色つきの夢を見た。
匂いは知らない。
でも主体は言葉なのか。
以前になぜか崖から落ちる夢をよく見た。
それが映像であったか言葉であったかは分からない。
起きた瞬間は夢を意識していても、
なぜかすぐに思い出せなくなる。
してみればやはり元は映像なのかも。
てか言葉と映像が混然一体なのかも。
そこは不明。
なおこれは科学的な話ではない。
私の身体に問うての思いである。
・・・・・
ともかくも、
人間は言葉に憑りつかれている、
それも四六時中。
それは外からの言葉もあり、
それは内からの言葉もある。
しかもそこには闇があり嘘に満ちている。
言葉はそもデジタルであり隙間だらけ。
更に現実から遠ざかればなおのこと。
それを差し置いても、
憑りつかれていると謂うそのことに、
正にそのことに気付いていない、
それが余りに当り前すぎて。
聖書の警告を忘却した、
危うい時代である。
これはあの、
オリブ山で弟子たちがイエスに尋ねたという、
世の終わりのことか。
余りに符号している。
それは言葉です。
言葉の不可思議を想ったのです。
最初は何となく思っただけですが。
その切っ掛けはヨハネの言葉にある。
初めに、言葉があった。
言葉は神とともにあった。
言葉は神であった。
この意味が分からなかった。
ヨハネはイエスの弟子です。
当然に聖書の民です。
聖書に答えがあるのは当然。
その結果これは聖書(旧約)に呼応していると知る。
聖書は最初にこの世界が創られた様子を記している。
それは神によって創られたと。
しかもそれは主として、
神の口から出る言葉によると。
神の力の源泉はその言葉だと。
ヨハネはだから言葉は神だと。
言葉とはそれほどのものだと。
そう言っている。
・・・・・
イエスがまだ布教に出られる前だった。
御霊に導かれて荒野に上って行かれた。
そして四十日四十夜断食した後で空腹を覚えられた。
ときに悪魔が近づき試みて言った。
神の子ならこの石がパンになるよう命じなさい、と。
イエスは答えて言った。
人はパンだけで生きるのではなく、
神の口から出る一つ一つの言葉による、
と書いてある、と。
つまり聖書に書いてあると言ったのです。
そして神を試みてはいけない、とも。
それほどにイエスは敬虔な聖書の民であった。
後に神となるが。(そのときはまだ神の子)
ということだが、
神の口から出る一つ一つの言葉とは、
事の端であり森羅万象でありすべての現象だと、
私はそう理解した。
その理解に間違いはないだろう。
そも聖書にはそう記されている。
イエスはそれを言ったのである。
まさに神の子であった。
日本人も同様に考える。
森羅万象すべてに神が宿るとは上に同じ。
神の言葉は即ち神そのもの。
これまた一にして全である。
・・・・・
言葉はそれほどのものである。
迂闊に扱えば火傷を負うのだ。
だから楽園では禁忌とされた。
にも関らずそれに背いて手に入れた。
ゆえに楽園を追われた。
そも神のもので神そのものだとも謂えるもの、
その取扱に注意を要するのは当然で、
それに添っていればいいが、
そこから離れれば、
闇となる。
それはつまり現実に添えということで、
離れるほどに闇は大きくなり嘘となる。
なのに、
昨今の有様は闇が覆い嘘に満ちている。
何が問題なのか。
言葉はそも概念です。
概念とは脳内の幻想です。
現実に触発されたものと雖も。
つまりは現実ではないということ。
それを知ろう。
問題は得てして現実から大きく離れること。
特に抽象的概念がそうなりやすい。
今その抽象的概念が跋扈している。
・・・・・
怖いのはここからである。
我々は確かに現実に生きている。
そこに疑問はない。
でも目を醒ましたときから眠るときまで、
ずっと言葉に支配されている。
それに気付かない。
無意識ならそうではないかも知れない。
でも意識すれば必ず言葉を通している。
景色が目を通すように。
音色が耳を通すように。
意識は言葉と共にある。
そして纏わりついて離れない。
寝てる時も言葉を離れてはいない。
その間に記憶の整理をしてるのだ。
夢はどうだろう。
夢には映像があるかも知れない。
私は一度だけ色つきの夢を見た。
匂いは知らない。
でも主体は言葉なのか。
以前になぜか崖から落ちる夢をよく見た。
それが映像であったか言葉であったかは分からない。
起きた瞬間は夢を意識していても、
なぜかすぐに思い出せなくなる。
してみればやはり元は映像なのかも。
てか言葉と映像が混然一体なのかも。
そこは不明。
なおこれは科学的な話ではない。
私の身体に問うての思いである。
・・・・・
ともかくも、
人間は言葉に憑りつかれている、
それも四六時中。
それは外からの言葉もあり、
それは内からの言葉もある。
しかもそこには闇があり嘘に満ちている。
言葉はそもデジタルであり隙間だらけ。
更に現実から遠ざかればなおのこと。
それを差し置いても、
憑りつかれていると謂うそのことに、
正にそのことに気付いていない、
それが余りに当り前すぎて。
聖書の警告を忘却した、
危うい時代である。
これはあの、
オリブ山で弟子たちがイエスに尋ねたという、
世の終わりのことか。
余りに符号している。
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