ことのは

初めに言葉があった。言葉は神とともにあった。言葉は神であった。と、ヨハネは言う。まことに、言葉とは不可思議なものである。

あらためて想う

2021-11-01 10:00:25 | 日記・エッセイ・コラム
私の関心事の大きなひとつ、
それは言葉です。
言葉の不可思議を想ったのです。
最初は何となく思っただけですが。
その切っ掛けはヨハネの言葉にある。
 初めに、言葉があった。
 言葉は神とともにあった。
 言葉は神であった。
この意味が分からなかった。
ヨハネはイエスの弟子です。
当然に聖書の民です。
聖書に答えがあるのは当然。
その結果これは聖書(旧約)に呼応していると知る。
聖書は最初にこの世界が創られた様子を記している。
それは神によって創られたと。
しかもそれは主として、
神の口から出る言葉によると。
神の力の源泉はその言葉だと。
ヨハネはだから言葉は神だと。
言葉とはそれほどのものだと。
そう言っている。
・・・・・
イエスがまだ布教に出られる前だった。
御霊に導かれて荒野に上って行かれた。
そして四十日四十夜断食した後で空腹を覚えられた。
ときに悪魔が近づき試みて言った。
 神の子ならこの石がパンになるよう命じなさい、と。
イエスは答えて言った。 
 人はパンだけで生きるのではなく、
 神の口から出る一つ一つの言葉による、
 と書いてある、と。
つまり聖書に書いてあると言ったのです。
そして神を試みてはいけない、とも。
それほどにイエスは敬虔な聖書の民であった。
後に神となるが。(そのときはまだ神の子)
ということだが、
神の口から出る一つ一つの言葉とは、
事の端であり森羅万象でありすべての現象だと、
私はそう理解した。
その理解に間違いはないだろう。
そも聖書にはそう記されている。
イエスはそれを言ったのである。
まさに神の子であった。
日本人も同様に考える。
森羅万象すべてに神が宿るとは上に同じ。
神の言葉は即ち神そのもの。
これまた一にして全である。
・・・・・
言葉はそれほどのものである。
迂闊に扱えば火傷を負うのだ。
だから楽園では禁忌とされた。
にも関らずそれに背いて手に入れた。
ゆえに楽園を追われた。
そも神のもので神そのものだとも謂えるもの、
その取扱に注意を要するのは当然で、
それに添っていればいいが、
そこから離れれば、
闇となる。
それはつまり現実に添えということで、
離れるほどに闇は大きくなり嘘となる。
なのに、
昨今の有様は闇が覆い嘘に満ちている。
何が問題なのか。
言葉はそも概念です。
概念とは脳内の幻想です。
現実に触発されたものと雖も。
つまりは現実ではないということ。
それを知ろう。
問題は得てして現実から大きく離れること。
特に抽象的概念がそうなりやすい。
今その抽象的概念が跋扈している。
・・・・・
怖いのはここからである。
我々は確かに現実に生きている。
そこに疑問はない。
でも目を醒ましたときから眠るときまで、
ずっと言葉に支配されている。
それに気付かない。
無意識ならそうではないかも知れない。
でも意識すれば必ず言葉を通している。
景色が目を通すように。
音色が耳を通すように。
意識は言葉と共にある。
そして纏わりついて離れない。
寝てる時も言葉を離れてはいない。
その間に記憶の整理をしてるのだ。
夢はどうだろう。
夢には映像があるかも知れない。
私は一度だけ色つきの夢を見た。
匂いは知らない。
でも主体は言葉なのか。
以前になぜか崖から落ちる夢をよく見た。
それが映像であったか言葉であったかは分からない。
起きた瞬間は夢を意識していても、
なぜかすぐに思い出せなくなる。
してみればやはり元は映像なのかも。
てか言葉と映像が混然一体なのかも。
そこは不明。
なおこれは科学的な話ではない。
私の身体に問うての思いである。
・・・・・
ともかくも、
人間は言葉に憑りつかれている、
それも四六時中。
それは外からの言葉もあり、
それは内からの言葉もある。
しかもそこには闇があり嘘に満ちている。
言葉はそもデジタルであり隙間だらけ。
更に現実から遠ざかればなおのこと。
それを差し置いても、
憑りつかれていると謂うそのことに、
正にそのことに気付いていない、
それが余りに当り前すぎて。
聖書の警告を忘却した、
危うい時代である。
これはあの、
オリブ山で弟子たちがイエスに尋ねたという、
世の終わりのことか。
余りに符号している。

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