ことのは

初めに言葉があった。言葉は神とともにあった。言葉は神であった。と、ヨハネは言う。まことに、言葉とは不可思議なものである。

欧米のジレンマ

2016-06-30 10:32:43 | 日記・エッセイ・コラム
欧米はキリスト教国である。
聖書の民である。
なのだが、
欧米の基底はギリシャ・ローマである。
キリスト教国となったのは、
ローマ時代の中頃以降からである。
そこにジレンマがある。
・・・・・
ギリシャはロゴスの国である。
言葉を使い真理を極めようとする。
哲学者のアリストテレスやプラトン、数学者でもあるピタゴラス、
等々諸々の知者を輩出した。
言葉は人のものであり、それを駆使したのである。
それが欧米をして近代文明を開かせた。
ところがである。
聖書では言葉は神なのである。
神聖なものなのだ。
この世界を創ったのは神であり、
それも言葉でもって。
またイエスの弟子であるヨハネは言う。
その福音書の冒頭で、言葉は神だと。
言葉はあくまでも神との交信において使うものである。
神の言葉を預かること、
神に言葉を伝えること、
において。
前者は選ばれた者、預言者にのみ与えられる。
後者は選ばれた者、祭司が執り行う。
・・・・・
ここにジレンマがある。
言葉は人のものか神のものか。
その間で揺れる。
だからである。
本来信仰の民である欧米人の中に揺らぎが現れる。
自らの信仰に疑問を持つのである。
そして信仰を外に求めようとする。
それは多くはインドであり、
ときに日本である。
間違ってもシナはない。
もうひとつの揺らぎがある。
無神論である。
無神論は欧米人の中にこそ起こる。
信仰に対するアンチテーゼとして。
ちなみに日本人には無神論はない。
そもそも信仰が融通無碍で見えないから。
見えないとはつまりありすぎて見えないのだ。
ちなみにシナにもない。
そもそも神観念が無いのだ。
もとは有ったと思うのだが、今はまったく見られない。
信仰と祈りの無い不毛の国になってしまった。
・・・・・
ここに典型的な言葉がある。
一人はニーチェである。
彼は「神は死んだ」と言った。
もう一人はアインシュタインである。
大正時代に日本を訪れたのだが、
その時彼は言った。
「神に感謝します」
「この世界に日本という国を残しておいてくれたことを」
と。
この二つの言葉に欧米のジレンマが現れている。
と思っている。




日本では

2016-06-27 15:38:06 | 日記・エッセイ・コラム
日本には祈りがある。
国の真ん中に天皇が在る。
祈り主である天皇が在る。
民草が忘れても、
なおそこには祈りがある。
それが日本だ。
・・・・・
日本は祈りに満たされている。
天皇の祈りに。
天皇は様々な宮中祭祀を為されると聞く。
ところで当方はもっぱらの不見識である。
内実はさっぱり分からない。
いわゆる祝詞のようなものがあるのかどうか、
それも知らない。
とはいえ祈りを捧げるのである。
祈りの所作とともに、
声に出す出さないはともかく、
言葉はあるだろう。
神に捧げる言葉が。
その言葉に嘘・偽りがあってはならない。
その言葉に邪心があってはならない。
言うまでもない。
まことに天皇の言葉は「まこと」なのである。
どこまでも「真言」なのである。
それが天皇の言葉である。
それが天皇の祈りである。
・・・・・
天皇は歌を詠まれる。
御製という。
幾つかは公開されている。
歌そのものは祭祀ではないのだろうが、
歌は祈りである。
天皇の御製は祈りでもあるのだ。
また時にお言葉を出されることがある。
例えば東日本大震災の時のように。
それも祈りである。
また行幸されて民草に声をかけられることもある。
それも祈りである。
祭祀だけではないのだ。
天皇の言葉はすべからく祈りなのである。
だからである。
天皇を政治利用してはいけないのだ。
下世話を仕切るのが政治である。
下世話では駆け引きがある。
方便もある。
社交辞令もある。
下世話には下世話の言葉があるのだ。
天皇の言葉は祈りである。
絶対に政治利用してはいけないのだ。
言葉を汚すことになる。
ただ言えることがある。
この日本においては言葉は呪具なのである。
祈りの呪具なのである。
それは「まこと」でなければならない。
それが根底にある。
だから下世話の言葉もその延長にある。
言葉はすべからく真言なるべしである。
・・・・・
ついでに言うが、
神に捧げる言葉は神に捧げるだけではない。
先ずは己に問うものである。
己に問うて「まこと」なるべしである。
だからこそ、
その上でこそ、
神に捧げるのである。
それが世界平和であれ、
自身の健康長寿であれ。










三者三様

2016-06-24 10:10:10 | 日記・エッセイ・コラム
言葉は実際不可思議なものである。
言葉が無ければ現実しかない。
身体が感得する現実しかない。
過去も未来も無く今しかない。
過去と未来を包含した野太い今しかない。
・・・・・
言葉が世界を創っている。
人間は脳の中に世界を創っている。
聖書(創世記)は言う。
この世界は神が創ったと。
神が「光あれ」と言ったらそこに光があった。
神は言葉で世界を創ったのだ。
すべてのものを、そして人間も。
しかし人間は楽園から追放された。
禁断の木の実を食べて。
それは知恵の実と言われるものであった。
それゆえに言葉を手にしたのか。
だから今、この世界は人間が創っている。
言葉という道具を使って。
その脳の中で。
それが人間社会である。
・・・・・
聖書はまた記している。
それは掠め取ったものか預かったものかはともかく、
言葉を弄んだとき、
それゆえの傲慢に囚われ己を顧みなくなったとき、
神は怒りを発する。
そして人類は滅ぼされる。
ということを。
ただ信仰の者だけが生かされる。
それが大洪水でありソドムとゴモラである。
私は思う。
聖書の精神は一貫している。
言葉を弄ぶな。
謙虚であれ。
…と。
もとよりキリスト教徒ではない私である。
本当のところはよく分からない。
聞きかじりのつまみ食いである。
それだけなのだが、
そう思っている。
・・・・・
三者三様とは言葉に対する姿勢である。
欧米と日本、そしてシナ・朝鮮との。
リベラルな欧米の言動、
嘘と本当の区別がないシナ・朝鮮の言動、
まことの日本、
などを見ていると、
そこに明らかな違いがある。
どうしようもない違いがある。
そのことを痛感する。














纏わりつくもの

2016-06-21 12:49:42 | 日記・エッセイ・コラム
残念ながら逃げられない。
身に纏わりついて離れない。
どうしようもない。
それは言葉である。
これは仕方のないことだ。
それが人間だから。
それが人間たる所以だから。
・・・・・
言葉と意識や記憶とは密接な関係がある。
人間はすぐれて意識と記憶の生物である。
それは言葉に大きく依存している。
でも動物にも意識や記憶はある。
言葉が無くとも意識や記憶はあるのだ。
犬や猫などを見れば分かるだろう。
何より飼い主を覚えている。
それに餌のある場所も、排泄すべき場所も。
仲間がいればその個体も。
当然に意識や記憶はある。
言葉が無くともである。
その意識や記憶の根は何だろう。
匂いや映像などと結びついてるのだろうか。
そうとしか思えない。
人間も動物だからその点では同じだろう。
だが決定的に違うのは言葉があることだ。
だから意識や記憶は概念となる。
概念として明瞭になる。
そして動物的なものはどんどん後退する。
成長すればするほど。
・・・・・
欧米人は言葉に纏われることを好む。
纏われるという点では日本人も同じなのだが。
彼らはより積極的なように見える。
何でも言葉で表現しようとする。
表現できないものを良しとしない。
しかも論理的かつ明晰であることを求める。
それこそ近代文明を開化させたのだが。
そこは確かに素晴らしい。
だが欠点もある。
言葉で表現できないものは認めないのである。
有っても無きがごとくである。
日本人は曖昧なものは曖昧なままでも良しとする。
彼らはそれができない。
曖昧なものは認めないのだ。
世にファジー理論というのがある。
これもだから彼らの発想である。
つまり曖昧さを科学するのである。
そして理論として言葉にする。
そこで初めて分かるのである。
曖昧なものを曖昧なままでは認められないのだ。
どうもそういう気質なのだ。
世界は曖昧で満ちていると言うのに。
・・・・・
日本は言霊の国である。
言葉に纏われていると言えば、
それはその通りである。
だが纏われ方は違うようだ。
それは言葉の表し方・捉え方の中に現れる。
つまり、
言外の言、
行間を読む、
余白を活かす、
など。
論理的なことや明晰さを必ずしも求めない。
伝えようとするのは思い(魂の発露)である。
とはいえ日本人は論理的なことが苦手なのではない。
今の日本を見れば分かる。
近代文明の最先端にいるのだから。
・・・・・
日本の歴史・伝統・文化は稀有である。
今の世界では日本だけかも知れない。
言葉から離れられない人間だからこそ、
その纏われ方を考えねばならない。
日本は一つの標である。
世界には無いかもしれない標である。
纏わりつくものと上手に付き合う術を持つ、
まことに稀有な国である。
そんな言霊の幸はふ国である。












やっとである

2016-06-17 11:23:21 | 日記・エッセイ・コラム
東京都知事がやっと辞任表明をした。
マスコミは総バッシング状態であったが、
かくゆう私も同様であった。
普段はマスコミを批判的に見てるのだが、
今回ばかりは違った。
内心同調していたのである。
・・・・・
日本人には限らないが、
すぐれて日本人の特性だと思うのだが、
どうしても気に入らないことがあった。
それはである。
やっていることすべてに言えるのだが、
批判されてる問題も、
その問題への対応も、
すべからくそこに「おごり」や「傲慢」を見たのだ。
確かに、
出されていた問題は、
せこいことが多く、
法的にも問いにくいものであった、
ようである。
だが、
問題は金額の多寡ではない、
法律の問題でもない、
人間としての矜持である、
人間としての品格である。
政治は極めて泥臭いものである。
目の前にある世を仕切るものだから。
それは時に生臭く胡散臭いものになっても仕方ない。
きれいごとでは済まないのだ。
だからである。
根底には矜持・品格がなければならない。
それを保つのに一番の敵は「おごり」と「傲慢」である。
政治家の失脚は概ねそこにある。
否、政治家に限らない。
すべからくそうである。
・・・・・
唐突ながら言えば、
聖書はそれを語っている。
ひたすら謙虚であれと。
傲慢が支配したとき、人類は滅ぼされると。
大洪水やソドムとゴモラのように。
傲慢は滅びを惹起する。
神の怒りによって。
聖書はそう語っている。
世界最古の書物にして、
世界最大のベストセラーである。
そして今も厳として在る。
ちなみに、
その精神は日本の歴史・伝統・文化の中に生きている。
武士道はそれである。
茶道もそれである。
道と付くものすべてがそうである。