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ことのは

初めに言葉があった。言葉は神とともにあった。言葉は神であった。と、ヨハネは言う。まことに、言葉とは不可思議なものである。

日本的経営

2016-01-31 13:15:16 | 日記・エッセイ・コラム
だいぶ以前は、
終身雇用・年功序列賃金が日本的経営だと、
言われていた。
今も基本的には変わらない。
でも、それらは現象面のことである。
日本的経営を行なえば、
概ね終身雇用となり、
それゆえ賃金は年功序列的になる、
ということだ。
・・・・・
日本的経営の根幹は人である。
人を大切にする経営である。
人とは会社の役職員、取引先、顧客それにその他の協力者などである。
つまりは社会に存する人ほぼすべてである。
会社が公器であると言われる所以である。
ところが、現下の社会では会社は株主のものだと言われる。
それがすべての歪みの原因である。
私に言わせれば、株主はその他の協力者でしかない。
最も重要な協力者ではあるが。
確かに、土地や建物及び設備等は株主のものである。
それは認める。
でも、それらの資産はただ在るだけでは何もしない。
それを利用し付加価値を生むことこそが重要なのである。
それを為すのは人である。
人なのである。
だから、経営とは人である。
そこに尽きる。
所以、企業は人なり。
・・・・・
人間は社会的動物だと言われる。
群れて生きることを選んだのである。
一人で生きるのは困難だし、今となってはもう無理だろう。
一時的にはできるかも知れない。
ロビンソン・クルーソーの物語のように。
それに、人がここまで蔓延っているのは正に群れているからだ。
群れて協力すればこそ優位に立っている。
だが群れを作るのは簡単ではない。
自分だけ良ければいい、ということでは作れない。
助け合わなければならないのだ。
それが嫌なら一人で生きるしかない。
しかし、それはもうできない。
だから、人を大事にしなければならない。
それが大前提となる。
個人主義などと個人を強調しても、
所詮その事は免れない。
・・・・・
日本的経営はそれを知っている。
バブル期以降は欧米流経営がもてはやされ、
見失う者も相当いたようだが。
とりわけ知識人には。
「繁栄とは一部の者が栄えることではない、
 皆が栄えることである」
とは幸之助翁の言辞である。
まことに、
まことに…

不祥事

2016-01-25 11:02:56 | 日記・エッセイ・コラム
不祥事が尽きない。
ビル建設の基礎作りでの杭打ち結果の偽装、
東芝の不適切会計、
廃棄食品の横流し、
等々。
・・・・・
だからと言って、社会が壊れてるという程ではないだろう。
普通はまともにやってるのだと思う。
もちろん、隠れてるだけで他にもあるかも知れない。
それが人の世というものだ。
かかる事態になるのは、結局最後は人による。
人の思いによる。
人の思いは歴史・伝統・文化に育まれる。
日本には本来真っ当な思いがある。
堅い言葉で言えば思想・信条・哲学と謂うが。
その確かな思いがある筈だ。
・・・・・
バブル期とその後の経営においては、
時にそれを見失うことがあった。
その最たるものは、成果主義という罠に嵌まったことだ。
成果を求めるのは当然なのだが、
問題は結果に拘り過ぎることである。
結果に拘って数字を求める。
とことん求める。
これが問題なのだ。
結果は終わりではない。
結果は次の始まりである。
結果を求めて無理をすれば歪みが現れる。
その歪みが不祥事を生むのだ。
何事も達成できればいいのだが、
そうでなければ体裁を繕いたくなる。
それが人の倣いである。
どんな結果でも真摯に受け止めれば、
そこからまた始められるのだが。
・・・・・
結果とは途中経過でしかない。
途中経過の一断面である。
折節の確認であり「けじめ」である。
そうであっても、
そうであるから、
結果を求めて奮闘する。
そこまではいい。
いい結果なら万々歳である。
そうでなければ、どうする。
その時、問われる。
人間としての器が。
日本的経営はその点を心得ていた。
結果を問わない、
姿勢を問う。
もちろん、結果はどうでもいいのではない。
結果は求めるのだが、
それは姿勢を問う中で求めるのである。
結果とは常に経過なのだから。
何しろ日本は、
長い時に育まれた歴史・伝統・文化を持つ、
継続の国なのである。









寺宝

2016-01-18 10:42:33 | 日記・エッセイ・コラム
国に国宝があるように、
個人や家族にもお宝はある。
どれほどの価値かはともかく。
これは寺の宝の話である。
信憑性はよく分からないが、
それは西本願寺にあるという。
門外不出の重要なもので、
漢字で書かれた聖書だという。
にわかには信じられない。
・・・・・
本願寺といえば浄土真宗であり、開祖は親鸞である。
親鸞の言葉に有名なものがある。
「善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をや」。
教えとしては衆人救済であり、自力ではなく他力を頼る。
他力とはつまり仏の力であり、仏の慈悲である。
仏の慈悲にすがり、
ひたすら「南無阿弥陀仏」と唱えていれば、
極楽浄土に行けると。
所謂他力本願である。
・・・・・
「善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をや」。
この言葉は聖書の言葉に通ずると思う。
悪人とは自らの罪を自覚するものであり、
聖書で言えば、人の原罪を知る者である。
罪を知らない脳天気な善人が天国に行けるなら、
罪を自覚して生きる者が天国に行けない筈がない。
なのだが、この親鸞の言葉には別の解釈もある。
悪人を文字通りに解釈するものである。
私見は両方とも是とするのだが。
本当のところは親鸞に聞かなければ分からない。
もう一つ、「南無阿弥陀仏」も聖書に通ずるのではと。
「南無阿弥陀仏」と唱えて、
ひたすら仏の慈悲にすがれば、
極楽浄土へ行けるというが、
それはキリスト者が「アーメン」と唱えて、
ひたすらイエスを信じていれば、
天国へ行けるというのと、
基本的に同じである。
・・・・・
と言う訳で、
私はこの寺宝の話は眉唾だとは思っていない。
それはともかく、
アフリカから拡散したという現在の人類・ホモサピエンスが、
その根底に持っている思い、
つまり信仰・宗教の根は同じであろうことに疑いはなく、
その点で言えば、
そもそも繋がっているのである。









日本人の危機管理

2016-01-13 10:00:20 | 日記・エッセイ・コラム
昨今、リスク管理という言葉がよく使われる。
何か事が起これば、リスク管理はどうなっていたのか、
…と必ず言われる。
で、想定外とかむにゃむにゃ。
あらかじめすべてのことが想定できる筈もない。
さりながら結果が問われるのは仕方ない。
それは当然であり、そこから反省も生まれる。
でも、現下は無用の非難が多すぎる。
残念なことである。
・・・・・
人間にとって究極のリスクとは死ぬことだ。
その因として病気や事故さらに戦争やテロなどがある。
農作物の不作やお金がなくて食べ物を得られない、ということも同じだ。
ともかく死ぬことがリスクなら、如何にしてそれを回避するか。
それがリスク管理の要諦である。
でもこれは矛盾だ、絶対的矛盾である。
そもそも死は不可避である。
生ある者は必ず死ぬ。
それを回避することはできない。
死は絶対平等であり、まったき人知の及ばない世界である。
就中、大いなる最後の救いだともいえる。
ならば死はリスクではない。
リスクとは死と隣り合わせの生にこそある。
生きることこそリスクなのだ。
そのことを知って初めてリスク管理ができる。
ほんとうのリスク管理が。
日本人の危機管理はそこにある。
・・・・・
「武士道と謂うは死ぬことと見つけたり」。
武士道を語る象徴的な言葉である。
この武士道こそリスク管理である。
まったきリスク管理である。
死を恐れて、死から逃げ回って、そしてそれでも結局最後は死ぬ。
そこにまことの生はない。
生死は裏表、死を背負ってこそ生である。
そのことが分かっているのだ。
考えれば当たり前のことだが。
これは戦国時代を生きた武士によって大いに培われた。
この思想は武士だけにとどまらない。
広く日本人の思想となっている。
・・・・・
戦前は現今より分かっていたと思う。
戦後は教育の不毛であろうか、
知識人の不実か、
分からなくなってしまった。
むしろ否定的に扱われる。
それでも無くなることはなかったのだ。
阪神淡路大震災もそうだが、
先の東日本大震災がまさにそうだった。
危機に瀕すれば必ず現れる。
自分の生を目一杯使う、命を懸けてとことん使う。
自分の為でもあろうが、なべてすべての人の為に。
そういう魂が現れる。
それが日本人である。















テロと空爆、そして特攻

2016-01-10 10:14:46 | 日記・エッセイ・コラム
北朝鮮の演技は見ものだが、
それは横に置いて、
シリアの問題である。
ISのテロとISへの空爆である。
・・・・・
テロはもちろん容認できないが、
命を懸けて抗議するのは「よし」とする。
文字通り命を懸けているのだから。
その覚悟は敬服する。
如何せん、抗議する相手を間違えてはダメだ。
ただの八つ当たりでしかない。
それは決して容認できない。

非道を行なう者を排除するため、
彼らを攻撃するのは理解できる。
空爆というものである。
厳密に非道者だけへの攻撃ならだが。
区別の付けがたい状況もあるだろうし、
誤爆もあるだろう。
民間人の犠牲も少なくないようだ。
それにそこには覚悟がない。
自分を安全な場所に置いて、やみくもに殺傷するのみ。
実に身勝手なご都合主義である。
・・・・・
それにである。
テロと特攻を一緒にするな、
である。
特攻はまったくの別物だ。
守るべき者たち、
すなわち家族や同朋のために命を懸けるのだ。
お国の為とはそれであり、
その何よりの象徴が、
天皇陛下万歳なのである。
しかも相手を間違えない。
攻撃する者のみを攻撃する。
まったき覚悟である。

先の東日本大震災を見ても分かることだ。
自分の命もかえりみず、
逃げて下さいと放送し続けた、
その心と同じだ。
まったく変わらない。
まさに日本人の魂の発露である。

それを狂気だとしか言えない人がいる。
戦後の日本人は未だ洗脳の中にあるのか。
まあ一部の者だけだろうが。
それにしても、いい加減「気が付けよ」。
と、随分前から思っている。