漫画本ではもう終わったと聞く。
「鬼滅の刃」である。
そう言えば以前から、ネットでは話題になっていた。
頭の隅にはあったが、それほど気にしていなかった。
それが只今映画館で上映されている。
これが初めてではないようだ。
今回の上映に合わせて、
過去の作品がテレビで放映されていた。
実はそれを見たのです。
これが大変面白かった。
アニメ大国・日本にはいろんな作品があって、
私も結構見ているのだが、
スタジオジブリはもとより、
最近では新海監督の作品や、
それにドラえもんやワンピースなど。
でもこの映画は知らなかった。
それにしても日本のアニメは世界的である。
この作品群も大きな反響があると聞く。
そんなこんなで、
久しぶりに映画館で見ようと思った。
ちょうど時間を持て余していたので。
ところがである。
ほぼ満員であった、平日だと言うのに。
このコロナ騒動の中でもだ。
席は相当間引かれていたが。
仕方なく後日ということにした。
当分は上映してるようだし。
・・・・・
物語の背景は大正時代であり、
鬼と人間の戦いの物語である。
鬼とはつまり心を失った人間であり、
それは皆悲しい過去を背負っている。
もともと日本では鬼と神は別物ではなく、
同じもの(の別位相)と捉える。
すべては神に返るのだが、
返りそこねたものを鬼と言い、
祟り神もその一つだろう。
しかして退治されれば神に返る。
日本人にとって、
世界とはつまり神の世界であり、
人間世界はその一面に過ぎない。
死生観もその中にある。
地獄も極楽もなく、すべては神に返る。
生まれる前にいた場所に必ず帰る。
じっちゃんばっちゃんやご先祖様もいる。
千年万年後の子孫らもそこに帰る。
そこから来て、そこに帰る。
しかして今いる世界もまた神の世界なり。
そういう感覚である。
これは宗教ではない。
むしろ文化(生き方の総体)と言うべきか。
この映画には神社もお寺も出てこない。
少なくとも意味あるものとしては。
つまり宗教的ではないのです。
あくまでも人間の物語なのだ。
てか、
作者の意図は知らず、
勝手に思っているだけです、
御免なさい。
・・・・・
それにしても日本人は、
地獄とか極楽とかは信じていない、
たぶん。
それは方便だと見抜いている。
方便とは生きる上のやむを得ずの知恵である。
そういう知恵は持っている。
そして方便は方便として仕舞っている。
それを真理だとは言わない。
ここが大事です。
言葉を得た人間にとって、
初めの頃は赤子のごとく、
言葉と現実は密接不可分であったろう。
でもそこには隙間がある。
それが言葉の本質だから。
その隙間を己が存在の核心をもって写す。
明鏡止水、歪みなき曇りなき心(魂)で。
そのとき言葉は「まこと」となる。
さりながら往々にして歪みが入る。
それも又やむを得ぬ仕儀なのです。
だから注意が必要なのだ。
だがさらに問題が起こる。
その歪みが不可抗力ならまだしも、
故意に歪みが加えられる。
嘘の始まりです。
そして嘘にまみれてしまう。
神(現実)を冒涜するのだ。
聖書を残した人々はそれを知っていた。
だから諫めたのです。
楽園からの追放という物語で。
それは罪だと。
大きな罪だと。
・・・・・
アニメーションの語源はアニマだと謂われる。
アニマとはラテン語で魂を意味する。
日本人にとって、
この世界は神の世界であるから、
存在のすべてが神的であり、
だから当然すべての存在にアニマは宿る、
つまり森羅万象(物事)にアニマは宿る、
と考える。
それが日本です。
そんなアニマ(魂)に満ちた日本である。
アニメ大国になるは必然か。
私の勝手な妄想ではあるが、
結構自身のある妄想なのだ。
エヘン!
「鬼滅の刃」である。
そう言えば以前から、ネットでは話題になっていた。
頭の隅にはあったが、それほど気にしていなかった。
それが只今映画館で上映されている。
これが初めてではないようだ。
今回の上映に合わせて、
過去の作品がテレビで放映されていた。
実はそれを見たのです。
これが大変面白かった。
アニメ大国・日本にはいろんな作品があって、
私も結構見ているのだが、
スタジオジブリはもとより、
最近では新海監督の作品や、
それにドラえもんやワンピースなど。
でもこの映画は知らなかった。
それにしても日本のアニメは世界的である。
この作品群も大きな反響があると聞く。
そんなこんなで、
久しぶりに映画館で見ようと思った。
ちょうど時間を持て余していたので。
ところがである。
ほぼ満員であった、平日だと言うのに。
このコロナ騒動の中でもだ。
席は相当間引かれていたが。
仕方なく後日ということにした。
当分は上映してるようだし。
・・・・・
物語の背景は大正時代であり、
鬼と人間の戦いの物語である。
鬼とはつまり心を失った人間であり、
それは皆悲しい過去を背負っている。
もともと日本では鬼と神は別物ではなく、
同じもの(の別位相)と捉える。
すべては神に返るのだが、
返りそこねたものを鬼と言い、
祟り神もその一つだろう。
しかして退治されれば神に返る。
日本人にとって、
世界とはつまり神の世界であり、
人間世界はその一面に過ぎない。
死生観もその中にある。
地獄も極楽もなく、すべては神に返る。
生まれる前にいた場所に必ず帰る。
じっちゃんばっちゃんやご先祖様もいる。
千年万年後の子孫らもそこに帰る。
そこから来て、そこに帰る。
しかして今いる世界もまた神の世界なり。
そういう感覚である。
これは宗教ではない。
むしろ文化(生き方の総体)と言うべきか。
この映画には神社もお寺も出てこない。
少なくとも意味あるものとしては。
つまり宗教的ではないのです。
あくまでも人間の物語なのだ。
てか、
作者の意図は知らず、
勝手に思っているだけです、
御免なさい。
・・・・・
それにしても日本人は、
地獄とか極楽とかは信じていない、
たぶん。
それは方便だと見抜いている。
方便とは生きる上のやむを得ずの知恵である。
そういう知恵は持っている。
そして方便は方便として仕舞っている。
それを真理だとは言わない。
ここが大事です。
言葉を得た人間にとって、
初めの頃は赤子のごとく、
言葉と現実は密接不可分であったろう。
でもそこには隙間がある。
それが言葉の本質だから。
その隙間を己が存在の核心をもって写す。
明鏡止水、歪みなき曇りなき心(魂)で。
そのとき言葉は「まこと」となる。
さりながら往々にして歪みが入る。
それも又やむを得ぬ仕儀なのです。
だから注意が必要なのだ。
だがさらに問題が起こる。
その歪みが不可抗力ならまだしも、
故意に歪みが加えられる。
嘘の始まりです。
そして嘘にまみれてしまう。
神(現実)を冒涜するのだ。
聖書を残した人々はそれを知っていた。
だから諫めたのです。
楽園からの追放という物語で。
それは罪だと。
大きな罪だと。
・・・・・
アニメーションの語源はアニマだと謂われる。
アニマとはラテン語で魂を意味する。
日本人にとって、
この世界は神の世界であるから、
存在のすべてが神的であり、
だから当然すべての存在にアニマは宿る、
つまり森羅万象(物事)にアニマは宿る、
と考える。
それが日本です。
そんなアニマ(魂)に満ちた日本である。
アニメ大国になるは必然か。
私の勝手な妄想ではあるが、
結構自身のある妄想なのだ。
エヘン!