これまで何度も言ってきた。
人間は言葉を持ったがゆえ「私」が突出した。
そも個体の主体としての「私」があるは、
それを起点に生きる生き物には当然。
ゆえ植物にもあろうし、
おのずから動く動物ならそれは明白。
特に哺乳類ならもう疑いの余地なし。
してもそれはイをシキしないものの有様。
そこは決定的に違うのです。
では生き物以外ならどうか。
あるとしてもそれはもはや識別不能
ゆえ人間が謂う「私」はないとしか。
それを思う。
・・・・・
人はなぜ「私」が突出したのか。
答は初めから分かっている。
言葉を持ったからです
言葉は違いを知るもの、
為に繋がっていてもそこに線を引く、
人はまず自分と世界の間に線を引く、
ときに鮮やかに世界が写し出される、
そのときから始まるのです、
てかそれが言葉を持たせた。
言葉を持つことと私が表に出るは同時である。
同じ「こと」の裏表なのだ。
これが又神との出会いのときでもあろう。
言葉・私・神、これはもうあきらかにワンセット。
ヨハネの言はまさにこれか。
ゆえ言葉が以って語り出すのは先ず神話から。
そこから始まり宗教・哲学・科学他もろもろ。
神とは現実に潜む根本的な力のこと、
これを捉えている限り私は暴走せず。
これを手放せばときに私が暴走する。
現下はそんな突出した「私」のせめぎあいに。
見るも無残なその姿はまことに浅ましい限り。
問題は線にある。
これが「私」を世界から切り離した。
ちなみに以下は世界を(ことの)場と言い換える。
さすれば話は分かりやすくなるから。
てか線を引いたがそれは方便である。
線を引いても私は場に在る。
いつだって場とともにある。
なのに引いた線を強く意識して、
いつしかそこから離れることに。
それを取り戻すのが宗教である。
それは「場」への祈りをもってなされる。
それは私を「場」へ引き戻すものでそれを信仰と言う。
ここまではいいのです。
でもここに無理がある。
宗教とは教とあるように人の言葉である。
神の事の場へかえるに人の事の場を以ってするは、
逆に人の事の場が神の事の場を仕切ることになる。
これが「私」を暴走させる原因。
目的がそうであっても、
体裁はそうであっても、
結局のところ人の事の場を仕切るものになり、
それは人を仕切るもの、つまりは政治になる。
無理とはこのことです。
それに枝分かれした宗教が、
私の「場」だけが本当の場であると主張して、
もう収拾がつかない状態に。
ゆえに一方ではその「場」を忌避する者、
てか逆に自らが「場」になろうとする者、
また一方ではその「場」をあっけらかんと忘失する者、
そんな輩が白昼堂々と闊歩している。
これが今次世界の有様。
てか「場」のことだがお察しの通り神のこと。
これまでの大方の私の言からすれば、
結局以下のようになる。
強い味方はヨハネの言です。
彼の言葉の順序を換えれば、
神は言葉であり、言葉は事端であり、
事端はその事場にあり、
事場は縮めれば「場」、
ゆえ「場」とは神のことである。
てかヨハネの言葉と私得意の親父ギャグ、重宝してます。
ちなみにこの項の初めに、
鮮やかに世界が写し出される、と記した。
この世界とはこの「場」のこと。
ゆえ神に出会ったとはこのことを指している。
てか分からんことを分かったように言う。
呵々!
・・・・・
また「私」に戻る。
人は私と世界の間に線を引いた。
ゆえ私が表に出て来た。
でもその線は方便だと。
ところが欧米はそれを方便としなかった。
そこに違いがある。
ゆえに日本人は線を引いてもなお世界に留まった。
厳として私はあるがそれは「場」とともにあった。
そこが同じ聖書の民でも欧米人とは違う。
所謂ユダヤ人とも違う。
ゆえにときに、
犬猫鳥に木や花それに山や川などの自然とも会話する。
それに人形や道具などとも会話する。
そういう感性を持っている。
してもヨハネの言葉の中にある、
言葉は神とともにあった、というくだり。
そこにある「ともに」という言い方、
これもまた日本語をよく現わす。
これは漢字で記せば共であり伴であり友でもある。
そこには共通の含意がある。
ゆえ人に限らず場を共有するものらは皆友であり、
そも基本的に存在するものに差別意識は持たない。
だから日本人はリベラルを嫌う。
差別やハラスメントとか言う言葉をやたら持ち出す輩。
であるが騙されている人も結構いる。
騙されやすいのは知識人や善良な人、
そんな人らを除いても尚それに続く。
まあ酷い有り様である。
てか上で「場」とともにと言ったが、
それは欧米的な「私があって場がある」ではなく、
順序は逆で「場があって私がある」とするのが日本人。
そこはお間違えなき様。
それゆえ日本語には主語がない。
私はあるがそれを必ずしも明示しないし、
明示するときは「は」や「が」を付ける。
かわりにあるのが「主題」です。
私や彼などはゆえ場に従属する。
場が先にあるから当然であろう。
このことをほとんどの人が分かってない。
多分学者先生方も。
それは広島の原爆死没者慰霊碑にあらわれている。
そこには、
「安らかに眠って下さい 過ちは繰返しませぬから」
とある。
よく言われるのはここには主語がないと。
誰が言ってるのか分からないと、
そこに主語がないから。
てか敢えて言うならそれは全人類である。
てかそこにあるのは主題である。
それはかかる惨禍を招いたこと、
そしてそんな戦争を起こしたということ、
それが主題である。
そしてそのこと(主題)に対して言及しているのである。
この碑は日本人が起草しかつ日本人がそれを良しとした。
心ある日本人は分かっているのです。
そも欧米流の責任など問う気はない。
問うてるのは、
こんなことを二度としてはいけないと謂うこと。
これが勝手ながらに思うこの碑の言外の言かと。
それはそれとして、
日本人がよく言われること、
民度が高いとか思いやりがあるとか、
おもてなしが素晴らしいとかなどは、
すべてはこれらから来ているのです。
知識や教養があるとか、
教育がどうとかはその後のこと、
ともにあるという無意識の意識がその根っこにある。
そう言うことであって、
それを覚える。
・・・・・
それにしてもこの日本人の感覚は唯一無二かも。
それは生き方の総体としての文化に現れており、
なによりその言語に仕組まれている。
自然と共に生きていた人らは持っていたかも知れないが、
今やもうこの地上から消えてしまったか。
でも日本人は持っているのです、
文化文明を以ってなお持っているのです。
てかむしろその文化文明に染み込んでいるのです。
それを想うのです。
てか最近のYouTubeを見ていれば、
欧米の人らも気付き始めているようです。
今はともかく彼らは神への信仰に生きていたから。
始末に負えないはシナ人に半島人である。
彼らには信仰と祈りの記憶がなぜか欠落している。
その様にしか見えない。
てか日本人にもそんな輩がいる、そんなモドキが。
歯がゆくも情けない限りである。
嗚呼!
人間は言葉を持ったがゆえ「私」が突出した。
そも個体の主体としての「私」があるは、
それを起点に生きる生き物には当然。
ゆえ植物にもあろうし、
おのずから動く動物ならそれは明白。
特に哺乳類ならもう疑いの余地なし。
してもそれはイをシキしないものの有様。
そこは決定的に違うのです。
では生き物以外ならどうか。
あるとしてもそれはもはや識別不能
ゆえ人間が謂う「私」はないとしか。
それを思う。
・・・・・
人はなぜ「私」が突出したのか。
答は初めから分かっている。
言葉を持ったからです
言葉は違いを知るもの、
為に繋がっていてもそこに線を引く、
人はまず自分と世界の間に線を引く、
ときに鮮やかに世界が写し出される、
そのときから始まるのです、
てかそれが言葉を持たせた。
言葉を持つことと私が表に出るは同時である。
同じ「こと」の裏表なのだ。
これが又神との出会いのときでもあろう。
言葉・私・神、これはもうあきらかにワンセット。
ヨハネの言はまさにこれか。
ゆえ言葉が以って語り出すのは先ず神話から。
そこから始まり宗教・哲学・科学他もろもろ。
神とは現実に潜む根本的な力のこと、
これを捉えている限り私は暴走せず。
これを手放せばときに私が暴走する。
現下はそんな突出した「私」のせめぎあいに。
見るも無残なその姿はまことに浅ましい限り。
問題は線にある。
これが「私」を世界から切り離した。
ちなみに以下は世界を(ことの)場と言い換える。
さすれば話は分かりやすくなるから。
てか線を引いたがそれは方便である。
線を引いても私は場に在る。
いつだって場とともにある。
なのに引いた線を強く意識して、
いつしかそこから離れることに。
それを取り戻すのが宗教である。
それは「場」への祈りをもってなされる。
それは私を「場」へ引き戻すものでそれを信仰と言う。
ここまではいいのです。
でもここに無理がある。
宗教とは教とあるように人の言葉である。
神の事の場へかえるに人の事の場を以ってするは、
逆に人の事の場が神の事の場を仕切ることになる。
これが「私」を暴走させる原因。
目的がそうであっても、
体裁はそうであっても、
結局のところ人の事の場を仕切るものになり、
それは人を仕切るもの、つまりは政治になる。
無理とはこのことです。
それに枝分かれした宗教が、
私の「場」だけが本当の場であると主張して、
もう収拾がつかない状態に。
ゆえに一方ではその「場」を忌避する者、
てか逆に自らが「場」になろうとする者、
また一方ではその「場」をあっけらかんと忘失する者、
そんな輩が白昼堂々と闊歩している。
これが今次世界の有様。
てか「場」のことだがお察しの通り神のこと。
これまでの大方の私の言からすれば、
結局以下のようになる。
強い味方はヨハネの言です。
彼の言葉の順序を換えれば、
神は言葉であり、言葉は事端であり、
事端はその事場にあり、
事場は縮めれば「場」、
ゆえ「場」とは神のことである。
てかヨハネの言葉と私得意の親父ギャグ、重宝してます。
ちなみにこの項の初めに、
鮮やかに世界が写し出される、と記した。
この世界とはこの「場」のこと。
ゆえ神に出会ったとはこのことを指している。
てか分からんことを分かったように言う。
呵々!
・・・・・
また「私」に戻る。
人は私と世界の間に線を引いた。
ゆえ私が表に出て来た。
でもその線は方便だと。
ところが欧米はそれを方便としなかった。
そこに違いがある。
ゆえに日本人は線を引いてもなお世界に留まった。
厳として私はあるがそれは「場」とともにあった。
そこが同じ聖書の民でも欧米人とは違う。
所謂ユダヤ人とも違う。
ゆえにときに、
犬猫鳥に木や花それに山や川などの自然とも会話する。
それに人形や道具などとも会話する。
そういう感性を持っている。
してもヨハネの言葉の中にある、
言葉は神とともにあった、というくだり。
そこにある「ともに」という言い方、
これもまた日本語をよく現わす。
これは漢字で記せば共であり伴であり友でもある。
そこには共通の含意がある。
ゆえ人に限らず場を共有するものらは皆友であり、
そも基本的に存在するものに差別意識は持たない。
だから日本人はリベラルを嫌う。
差別やハラスメントとか言う言葉をやたら持ち出す輩。
であるが騙されている人も結構いる。
騙されやすいのは知識人や善良な人、
そんな人らを除いても尚それに続く。
まあ酷い有り様である。
てか上で「場」とともにと言ったが、
それは欧米的な「私があって場がある」ではなく、
順序は逆で「場があって私がある」とするのが日本人。
そこはお間違えなき様。
それゆえ日本語には主語がない。
私はあるがそれを必ずしも明示しないし、
明示するときは「は」や「が」を付ける。
かわりにあるのが「主題」です。
私や彼などはゆえ場に従属する。
場が先にあるから当然であろう。
このことをほとんどの人が分かってない。
多分学者先生方も。
それは広島の原爆死没者慰霊碑にあらわれている。
そこには、
「安らかに眠って下さい 過ちは繰返しませぬから」
とある。
よく言われるのはここには主語がないと。
誰が言ってるのか分からないと、
そこに主語がないから。
てか敢えて言うならそれは全人類である。
てかそこにあるのは主題である。
それはかかる惨禍を招いたこと、
そしてそんな戦争を起こしたということ、
それが主題である。
そしてそのこと(主題)に対して言及しているのである。
この碑は日本人が起草しかつ日本人がそれを良しとした。
心ある日本人は分かっているのです。
そも欧米流の責任など問う気はない。
問うてるのは、
こんなことを二度としてはいけないと謂うこと。
これが勝手ながらに思うこの碑の言外の言かと。
それはそれとして、
日本人がよく言われること、
民度が高いとか思いやりがあるとか、
おもてなしが素晴らしいとかなどは、
すべてはこれらから来ているのです。
知識や教養があるとか、
教育がどうとかはその後のこと、
ともにあるという無意識の意識がその根っこにある。
そう言うことであって、
それを覚える。
・・・・・
それにしてもこの日本人の感覚は唯一無二かも。
それは生き方の総体としての文化に現れており、
なによりその言語に仕組まれている。
自然と共に生きていた人らは持っていたかも知れないが、
今やもうこの地上から消えてしまったか。
でも日本人は持っているのです、
文化文明を以ってなお持っているのです。
てかむしろその文化文明に染み込んでいるのです。
それを想うのです。
てか最近のYouTubeを見ていれば、
欧米の人らも気付き始めているようです。
今はともかく彼らは神への信仰に生きていたから。
始末に負えないはシナ人に半島人である。
彼らには信仰と祈りの記憶がなぜか欠落している。
その様にしか見えない。
てか日本人にもそんな輩がいる、そんなモドキが。
歯がゆくも情けない限りである。
嗚呼!