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ことのは

初めに言葉があった。言葉は神とともにあった。言葉は神であった。と、ヨハネは言う。まことに、言葉とは不可思議なものである。

2025-08-25 08:23:09 | 日記・エッセイ・コラム
これまで何度も言ってきた。
人間は言葉を持ったがゆえ「私」が突出した。
そも個体の主体としての「私」があるは、
それを起点に生きる生き物には当然。
ゆえ植物にもあろうし、
おのずから動く動物ならそれは明白。
特に哺乳類ならもう疑いの余地なし。
してもそれはイをシキしないものの有様。
そこは決定的に違うのです。
では生き物以外ならどうか。
あるとしてもそれはもはや識別不能
ゆえ人間が謂う「私」はないとしか。
それを思う。
・・・・・
人はなぜ「私」が突出したのか。
答は初めから分かっている。
言葉を持ったからです
言葉は違いを知るもの、
為に繋がっていてもそこに線を引く、
人はまず自分と世界の間に線を引く、
ときに鮮やかに世界が写し出される、
そのときから始まるのです、
てかそれが言葉を持たせた。
言葉を持つことと私が表に出るは同時である。
同じ「こと」の裏表なのだ。
これが又神との出会いのときでもあろう。
言葉・私・神、これはもうあきらかにワンセット。
ヨハネの言はまさにこれか。
ゆえ言葉が以って語り出すのは先ず神話から。
そこから始まり宗教・哲学・科学他もろもろ。
神とは現実に潜む根本的な力のこと、
これを捉えている限り私は暴走せず。
これを手放せばときに私が暴走する。
現下はそんな突出した「私」のせめぎあいに。
見るも無残なその姿はまことに浅ましい限り。
問題は線にある。
これが「私」を世界から切り離した。
ちなみに以下は世界を(ことの)場と言い換える。
さすれば話は分かりやすくなるから。
てか線を引いたがそれは方便である。
線を引いても私は場に在る。
いつだって場とともにある。
なのに引いた線を強く意識して、
いつしかそこから離れることに。
それを取り戻すのが宗教である。
それは「場」への祈りをもってなされる。
それは私を「場」へ引き戻すものでそれを信仰と言う。
ここまではいいのです。
でもここに無理がある。
宗教とは教とあるように人の言葉である。
神の事の場へかえるに人の事の場を以ってするは、
逆に人の事の場が神の事の場を仕切ることになる。
これが「私」を暴走させる原因。
目的がそうであっても、
体裁はそうであっても、
結局のところ人の事の場を仕切るものになり、
それは人を仕切るもの、つまりは政治になる。
無理とはこのことです。
それに枝分かれした宗教が、
私の「場」だけが本当の場であると主張して、
もう収拾がつかない状態に。
ゆえに一方ではその「場」を忌避する者、
てか逆に自らが「場」になろうとする者、
また一方ではその「場」をあっけらかんと忘失する者、
そんな輩が白昼堂々と闊歩している。
これが今次世界の有様。
てか「場」のことだがお察しの通り神のこと。
これまでの大方の私の言からすれば、
結局以下のようになる。
強い味方はヨハネの言です。
彼の言葉の順序を換えれば、
神は言葉であり、言葉は事端であり、
事端はその事場にあり、
事場は縮めれば「場」、
ゆえ「場」とは神のことである。
てかヨハネの言葉と私得意の親父ギャグ、重宝してます。
ちなみにこの項の初めに、
鮮やかに世界が写し出される、と記した。
この世界とはこの「場」のこと。
ゆえ神に出会ったとはこのことを指している。
てか分からんことを分かったように言う。
呵々!
・・・・・
また「私」に戻る。
人は私と世界の間に線を引いた。
ゆえ私が表に出て来た。
でもその線は方便だと。
ところが欧米はそれを方便としなかった。
そこに違いがある。
ゆえに日本人は線を引いてもなお世界に留まった。
厳として私はあるがそれは「場」とともにあった。
そこが同じ聖書の民でも欧米人とは違う。
所謂ユダヤ人とも違う。
ゆえにときに、
犬猫鳥に木や花それに山や川などの自然とも会話する。
それに人形や道具などとも会話する。
そういう感性を持っている。
してもヨハネの言葉の中にある、
言葉は神とともにあった、というくだり。
そこにある「ともに」という言い方、
これもまた日本語をよく現わす。
これは漢字で記せば共であり伴であり友でもある。
そこには共通の含意がある。
ゆえ人に限らず場を共有するものらは皆友であり、
そも基本的に存在するものに差別意識は持たない。
だから日本人はリベラルを嫌う。
差別やハラスメントとか言う言葉をやたら持ち出す輩。
であるが騙されている人も結構いる。
騙されやすいのは知識人や善良な人、
そんな人らを除いても尚それに続く。
まあ酷い有り様である。
てか上で「場」とともにと言ったが、
それは欧米的な「私があって場がある」ではなく、
順序は逆で「場があって私がある」とするのが日本人。
そこはお間違えなき様。
それゆえ日本語には主語がない。
私はあるがそれを必ずしも明示しないし、
明示するときは「は」や「が」を付ける。
かわりにあるのが「主題」です。
私や彼などはゆえ場に従属する。
場が先にあるから当然であろう。
このことをほとんどの人が分かってない。
多分学者先生方も。
それは広島の原爆死没者慰霊碑にあらわれている。
そこには、
「安らかに眠って下さい 過ちは繰返しませぬから」
とある。
よく言われるのはここには主語がないと。
誰が言ってるのか分からないと、
そこに主語がないから。
てか敢えて言うならそれは全人類である。
てかそこにあるのは主題である。
それはかかる惨禍を招いたこと、
そしてそんな戦争を起こしたということ、
それが主題である。
そしてそのこと(主題)に対して言及しているのである。
この碑は日本人が起草しかつ日本人がそれを良しとした。
心ある日本人は分かっているのです。
そも欧米流の責任など問う気はない。
問うてるのは、
こんなことを二度としてはいけないと謂うこと。
これが勝手ながらに思うこの碑の言外の言かと。
それはそれとして、
日本人がよく言われること、
民度が高いとか思いやりがあるとか、
おもてなしが素晴らしいとかなどは、
すべてはこれらから来ているのです。
知識や教養があるとか、
教育がどうとかはその後のこと、
ともにあるという無意識の意識がその根っこにある。
そう言うことであって、
それを覚える。
・・・・・
それにしてもこの日本人の感覚は唯一無二かも。
それは生き方の総体としての文化に現れており、
なによりその言語に仕組まれている。
自然と共に生きていた人らは持っていたかも知れないが、
今やもうこの地上から消えてしまったか。
でも日本人は持っているのです、
文化文明を以ってなお持っているのです。
てかむしろその文化文明に染み込んでいるのです。
それを想うのです。
てか最近のYouTubeを見ていれば、
欧米の人らも気付き始めているようです。
今はともかく彼らは神への信仰に生きていたから。
始末に負えないはシナ人に半島人である。
彼らには信仰と祈りの記憶がなぜか欠落している。
その様にしか見えない。
てか日本人にもそんな輩がいる、そんなモドキが。
歯がゆくも情けない限りである。
嗚呼!

私の神話

2025-08-18 09:07:09 | 日記・エッセイ・コラム
毎年この時期になると感慨に浸る。
あの8月15日、終戦の日である。
若い頃はまったく関心がなかった。
しかし余りの自虐史観に疑問を持ちはじめ、
歴史好きもありその種の資料を見るように。
てかそんな訳だからまともな書物も少なく。
してもこのことにも作為を感じて確信する。
もうほとんどが嘘だと。
そこにあるのは政治的プロパガンダばかり。
そんなこともあり、
若い?ころは靖国神社によく参拝していた。
8月15日かその前日~あたりで。
てかインバウンドの隆盛や例のコロナ騒動もあって、
てかてかそれに何より遠いこともあり、
昨今は近場の靖国(護国)に参拝している。
それにしても真に感慨深く思うのです、この時期は。
真夏の陽光のなか、
木々を越えて鳴動する蝉しぐれを聞きながら、
枝葉を揺らし吹き抜ける涼やかな風を受ける、
それらはまさに命の波動であり神風か、
まことにまことに。
・・・・・
ここでこの靖国を基にし、
私だけの神話を創ります。

初めに神は天と地を創造された。
次に光あれ、と言われた。
するとそこに光があった。
ときに山川が光と出会う。
さても山川は光と交わりて草木を為す。
これは大地と水と光らによる命の発動。
水は岸辺のほとりに。
更にそのほとりから動くものが現れる。
ここで和歌を一首、
海恋し潮の遠鳴り数えては乙女となりし父母の家、
(与謝野晶子)
その動くものを生むのは乙女の力。
その動くものがやがて言葉を持つ。
ときに言葉には魂がやどっていた。
ここで和歌を二首、
敷島の大和心を人問わば朝日に匂う山桜花、
(本居宣長)
身はたとい武蔵の野辺に朽ちぬとも止め置かまし大和魂、
(吉田松陰)
ここにその「こころ」が現れる。
そして人(日の本の人)が成る。

その日の本に靖国の杜がある。
今その靖国にいる。
8月15日である。
そこは命の波動で満ちている。
暑いのになぜかさわやかな風。
ここで俳句を二句。
静かさや岩にしみ入る蝉の声、
夏草や兵どもが夢のあと、
(松尾芭蕉)
黙祷!

ごく短い私の神話である。
てか手前勝手なコピペの、
なんちゃって神話でした。
ハイ!
・・・・・
私はときにその人に魂がないと言うことがある。
靖国はときの試験紙のひとつ。
あのリトマス試験紙に例えて。
思うのです。
人はそれぞれゆえ、
それを良しとしないのはまだいい、
ならそこは中立だろう、
なのになぜかイチャモンを付けてくる。
外交問題という口実はまったくのウソ。
てか理屈と膏薬は何処にでも付く、
そんなリベラル的論議はそも不要、
問題にしなければいいだけのこと。
彼らの言ってることは、
もはや毒を塗った膏薬、
そも負の心は全ての病の素、
その負の心を育てるばかり。
ゆえにそんな人には魂がないと言うのです。
例えばハシシタさんである。
そのフンである維新もまた。
てか言い出せばキリがない。
これは八つ当たりだが、
ゆえ大阪府市民らにも。
おまけに東京都民にも。
もう自分がいやになる。
てか御免なさい!

ものごと

2025-08-11 08:14:08 | 日記・エッセイ・コラム
以前から折に触れ言っている。
この世界は「もの」と「こと」で出来ていると。
これらは一体のもので実態は「ものごと」だと。
そこで思うことがある。
物だけで事がなければ、
物は色形運動振動波動もなくただあるだけ、
このとき永遠と一瞬は同じものしかもそこに違いはなくすべて同じ。
そしてゆえに部分と全体の区別もなし。
しかして最早「ある」ことも儘ならず。
てかそこに「こと」があれば、
そのとき物は色形を見せそれに運動振動波動も。
ときに「とき」が現れて、
それが違いを見せ始める。
時とはそう言うものです。
すべてはそこから始まる。
あらゆる違いがはじまる。
そこでまた思うのである。
この世界は始まりも終わりもない世界だと。
始まりがあるならその前にあったものは?。
終わりがあるならその後はどうなるのか?。
事はそも初めもなく終わりもなくあるもの。
でもこれではどうにも決まりがつきません。
そこで仮の始まりと終わりを想定する。
これが人の語りの始まりです。
その最初のものが神話である。
・・・・・
分けるが言葉の技である。
為には違いを知る必要が。
ヒトの目の前にある世界(宇宙)はひとつ。
そこには「ものごと」がある。
それを見るのである。
それは動きばかりでなく、前後での色や形の変化も。
てか見てるのは事である、物ではなく事なのである。
物だけで事がなければそれは見えない。
それは多分何もないのと同じ。
てか物がなければ事もないが。
その物事を初めは見えるがままに見ている。
ヒトはそれをイをシキして見るようになる。
これが言葉の始まりとはずっと言ってきた。
言葉はゆえに違いを知るもの、
てか違うと想えて初めてシキする、
ゆえに同じを知るは言葉の技ではない。
そも同じはないのである、同じようなものはあるが。
あるとすれば究極の粒子だろうか。
物と事が完膚なきまで溶け合った。
実として見ることはなく、虚として知るより他ない。
しかして思っている、
ヒトの「ことば」は事の端であり言の葉であり、
そしてそれは事の場とともにある。
だからそれを「ことば」と謂うが、
これ以上の相応しい言い方を私は知らない。
てかこれらは当方のいつもの言葉遊び。
その実態は親父ギャグと屁理屈である。
にしてもこれらのことは日本語でこそ。
ゆえこの日本語の中で生きる日本人は、
知らず知らずにその思いを身に付ける。
文化文明という言葉もこの延長にある。
文が化けるそれが又先への明りとなる。
だから言うです、
日本語は私の様に口に出して言う前に、
既にその言葉の内にそれを抱えている。
面しろくも畏ろしい、
そんな言語なのです。
・・・・・
人間はその言葉に力があるのを知った。
ゆえ場にある根源の力を想うとき、
その力をもまた言葉に擬えた。
ゆえそれを発するものにも名を付けた。
ここに神が登場する。
名とは思えば上位の者が付けて与えるもの。
人が神に名を与えるのは不遜。
これが宗教に妙な影を落とす。
てか神は音読みは「しん」ですがこれを「かみ」と読む。
かみとは上とか天ということかと。
それを漢字で神とあてた。
これは「示して申す」であり言葉という謂いに合致する。
てかこの辺りの字義と読みの整合性を考えれば、
どう考えても漢字は日本の文字としか思えない。
てかこのことはさて置き、
これらを踏まえ思うこと。
聖書もほぼ同じことを言っている。
・旧約聖書創世記・
初めに神は天と地を創造された、
次に光あれと言われたらそこに光があった、
そこから次々と物事が創られていく、
その言葉に依って、

日本語訳の神は一般名詞でありしかもその力を表象している。
・マタイの福音書・
イエスは悪魔の誘惑に答えて言った、
人はパンだけで生きるものではない、
神の口から出る一つひとつの言葉で生きる、

一つひとつとはすべての「こと」に繋がるそれぞれの現象のこと。
・ヨハネの福音書・
初めに言葉があった、
言葉は神とともにあった、
言葉は神であった、

一つひとつの言葉は勿論だが、
そこに通底して潜む力こそが神であると。

日本語はその内に聖書の思想が厳としてある。
ゆえ日本人は聖書の民であると。
てかこれは前から言っているが、
それは旧約聖書創世記の極初め、
新約聖書はその全般に見られる、
てか拾い読みしかしていないが。
・・・・・
そこでまた思うのである。
日本人が聖書の民と雖も、
それは旧約聖書の極一部、
罪を背負っての楽園追放からは最早ほとんど関わりなし。
聖書はユダヤ人が伝えたもの。
そのユダヤ人と日本人は同祖と言う人がいる。
てか人類はそもすべてが同祖であろう。
それはさておき、
てか日猶が同祖としても、
それは大方聖書以前のことでそこからすぐに離れた。
しかも離れたのは日本人ではなくユダヤ人の方です。
日本人は未だ原聖書の世界に留まっている。
そう思うのです。
それにイエスの言葉はまさに言霊の思想であり、
ヨハネは「ゴッド・ヤウエ・アラー」ではなく、
たぶん「神」のことを言っている。
そもイエスはときのユダヤを糾弾していた、
そして原点である聖書のかえれと、
そして又ユダヤの崩壊を見通し弟子たちに、
そのときは東にむかえと。
ここで私は確信する。
人種は知らず、でもイエスもヨハネも日の本の人であろうと。
してもときに東へ行った人らは行方知れず、
西へ行った人はそこでキリスト教をつくる。
そして人々に罪を背負わせた。
まったく罪つくりな話である。
てか、

違いを知る

2025-08-04 08:24:30 | 日記・エッセイ・コラム
違いを知る、
これは言葉の始まりであり、本義でもある。
世界は宇宙はすべての「ものごと」が繋がっている。
私はそう思っている。
そこでである、
私は私の細胞の連合体である。
命の初めと言われる細胞のその連合体、
それが60兆個もあると言われている。
そこでの一つひとつの細胞は概ね同じもの。
でもどこにあるかでその役割は違うのです。
同じと言えば同じ、違うと言えば違う、そのように。
でも細胞は多分みんな私だとしている。
そこで他の人の細胞を考える。
その細胞と私の細胞は、細胞としては変らない。
ならそれも私なのか?、そんなアホな。
てかその細胞の元である有機化合物ならどうか。
てかその化合物の元の分子原子ならどうか。
分ければ分けるほど違いが消えてゆく。
でも分けるとは逆方向に向かうと、
つまり大きく見ていくならば、
例えばヒトという種なら、
その点から見ると私と彼方は同じヒト、
てかときに私と彼方は同じものなのだ。
さらにその先に向うと同じ動物に、
さらにその先に向うと同じ生物と、
そして超最後は宇宙と一体化する。
そう言うことだから、
人の言葉に於いては「同じ」と「違う」は言葉の綾、
見る位置見る方向が違うだけ。
ときに起点になるのはいつも「私」である。
しても言葉の本義は「違いを知る」ことに。
それは分けて分けて分け入るもの。
ゆえそれを分別とも言う。
それは「同じ」を知ることではありません。
同じはそも存在自体の本義か、
究極に至ればそれは一となる。
にしても言葉の本義は違いを知ること、
イをもってシキしその違いを知ること、
それを覚える。
それがヒトに力を与える。
それは人にとっては吉にも凶にもなる、
それをずっと言っている。
てかその力はいつも中立、
吉凶はすべて自分の都合、
そこにはいつも私がいる。
故日本は私の突出を嫌う。
故日本は無私の心を求む、
明るく歪みなき鏡のごとき心、
言葉を持つ前のあの心である。
まあそんなことです。
・・・・・
言葉は違いを知るものですが、
それは脳に大いに依っている。
これは言わずもがな。
でも脳が言葉を作ったのではない。
結果から見ればそういうことだが、
要は最後の取り纏めをしてるだけ。
源の情報は體の細胞から寄せられるのです。
脳が現実から直接情報を得てる訳ではない。
しかしてその機能を発揮しているだけ。
これも言わずもがな。
てか脳が言葉をつくっているは一面の事実、
でもその大元は體にあるってこと。
であるが人間は変に勘違いする生き物、
てか脳を取り出してそれを生かし続ければ、
永遠の命が得られると考える人がいる。
それも知の最先端で。
知とはそんな厄介なものです。
脳だけを生かしてもそれは脳であったものでしかない。
なのになぜかそれほどの勘違いを。
話が換わるが、てか変わらないが、
今映画館では人が一杯である。
そこではアニメ「鬼滅の刃」が上映されている。
同じ館内で複数上映されているのに皆満員状態。
ビックリの人気である。
それがどうしたですが、
そこで思うのはあの炭治郎の言葉です。
鬼との必死の戦いのなかでのあの言葉、
考えろ考えろ、考えろ考えろ、そして終に、
考えるな感じろ…、と。
考えるとはまさに言葉の技、
これに固執するとその内なる無限ループから出られなくなる。
これが私の言う閉じ込め状態、
ここから解放せねばならない。
それはそも言葉を生んだその大元、
體が得た実の情報が集約されるその一瞬の閃き、
それを直感と謂う。
それに戻るのです。
でもである、
重要なのはそれが考えに考えた後でのこと、
その直感である。
考え抜いた後の直感こそです。
これが心魂を開放するのです。
ときに終に炭治郎は鬼を倒す。
ゆえ上でこれは話が変わっていないと。
にしても、
最近私はテレビ番組のアニメもよく見るように、
これも同じこと。
それらのアニメは須らく日本人の心を表現している。
それはもう漏れなくである、大なり小なりだが。
てかそれらはリベラルにおかされていない。
そこが素晴らしい。
ゆえにかときに海外からの攻撃が。
それでも動じない、まったく。
そこがまた素晴らしい。
それにおもしろい。
うん!
・・・・・
世界は今、日本のエンタメが席巻している。
てか私はそう思っている。
なにしろ日本は歌う国・語る国・舞う国である。
言葉は現実(神の事の場)に感応した心魂の振るえ。
ときに事の場と一体になり、歌い語り舞う。
ときにそこは共振共鳴の場となる。
そこにあるのは「まこと」である。
ゆえに言葉は霊を帯びて吹き渡る。
そんな言葉を大切にする国である。
ゆえに言葉を私しすることがなく、
ゆえに言葉はみなに開かれている。
ときの言葉はイのリに満ちており、
ときにそれはイのリを捧げるもの。
祈りの言葉その願いは人それぞれ、
只「まこと」があればそれでいい。
後はすべてあるがままなるがまま。
それに比べて今のハリウッドは行き詰っている。
現実(神の事の場)を見失い、
人の事の場に作った概念に閉じこもり、
その内なる無限ループから出られない。
これでは鬼にやられるばかり。
てか今のままでは無理だろう。
方途はひとつ、
體を以って事の場に向き合い、
しかして遠い記憶を取り戻す、
楽園にいたまさにあのときの。
ときにそこはときの事の場に。
てか今の状況に鑑みれば、
そんな気は更々なさそう。
なんとももどかしい限り。
うう~ん、

宗教

2025-07-28 09:14:51 | 日記・エッセイ・コラム
欧米人は無宗教というのが分からないらしい。
そんな人はいないと思っているようで。
てか宗教は皆持っているものと。
最近はでもないようだが。
てかそこにそも勘違いがあった。
彼らは無宗教=無神論と捉えている節がある。
てか無宗教と無神論は別物なのにです。
でもそうは考えてないようです。
そも宗教とは教(言葉)を宗(尊ぶ)とするもの。
彼らはその教を神の言葉とする。
でも現にあるのは人の言葉です。
元は神の言葉としても現にあるのは人の言葉です。
それを思うのです。
てか私は神の言葉を聞いたことがない。
それがあるとすれば、
(てかそれはある)
それは現に現れた実にこそある。
人がイをシキして現実を見た時、
最初にそれ(神≒言葉)を見る。
ときにあるのは無条件の信仰か、
現実に潜む大いなるその力への。
その力を聖書は(神の)言葉としたのです。
この譬えはいろんな意味で素晴らしい。
それが日本語の「ことば」なら尚。
そのことがよく分かるのです。
であるがそこでである。
宗教の基としての神の言葉だが、
なのに神を捨てる或いは神を忘れるのです、
てかもう一つ、閉じ込めると謂うのもある。
ときに宗教が変質する。
宗の教が神の言葉から人の言葉にかわるのです。
そしてゆえその言葉が暴走する。
このこと現下の世界が示す通り。
・・・・・
そこで勝手ながらに思うのです、
宗教は神への信仰から始まると。
しても人はその神に名を付ける。
ここから実際の宗教が始まるが、
同時にこれが混迷の種にもなる。
宗教はこの因果から出られない。
それはそも言葉の因果なのだが。
思うに「かみ」はすべてである。
なのにそれに名を付ける。
ときにそれは全てではなくなる。
ここに矛盾がある。
そこは一神教も二神教も多神教も同じ。
多神教は多いというだけでなく無数と言うなら、
それはすべてに繋がらるからまだしも。
なら神道はどうか。
これは宗教だとは思っていない。
でも宗教とするならどうだろう。
一般的には多神教と言われてる。
これに異論はない。
でもその多神が有限なら一神二神とかわらない。
てかその多神は無限です。
ゆえ神道を宗教とすれば、
それは多神教ではなく全神教とでも言うべきか。
てかこの言は馴染みがないから多神教でもいいかと。
ということです。
現実の神道はそのようにあるし。
それを想う。
全神教である神道はゆえ一々の言葉には捉われない。
てか言葉に捉われることを嫌う。
だからか教義がない。
だから宗教ではない。
それは生き方の総体である文化と言ってもいい。
てかそれも一寸違う。
てかそれ以前のこと、
それは在り方の根本とでも。
ゆえ人を差別しない、
どころかすべての生き物と対等に在ろうとする。
世に自由平等友愛ってのがある。
これはあくまで人の間でのこと。
てか欧米人には友の間でのこと。
でも神道ではすべてに通じると。
てか自由とは既に言ったとおり。
てか平等はてかてかそのまんま。
友愛とは繋がっているとの認識。
ゆえ日本ではそれを博愛とする。
その心で生きるのが神道である。
そういうものだと思っています。
補足、平等について。
平等とは究極の存在の在り方である。
でも現実は無限の違いでなっている。
そこに「同じ」はないのである。
と思うのだが、
今物理学の最先端では語られている。
もし究極の粒子があるとすれば、
その粒子は完全にフリーかつ自由なもの。
その粒子は皆同じであり、そこから何にでもなれる、
そういう存在であるとか。
存在するものを「もの」と「こと」に分けるが、
それすら最早分けられないもの。
イメージとしては光がその様である。
物理学に無知な私が勝手なことを言ってるようだが、
言いたいことは一つ、
平等とは「同じ」ということではない、ということ。
究極を想定して想像はできても、
決してそれは現実にはならない、
それは現実の奥から出て来ない。
・・・・・
標題に戻る。
ヒトは現実から今そこにある気を受け取る。
それを全細胞の気を結集して対応する。
その気の総体のことを心魂という。
つまり心魂にうつすのである。
しかしてそれに応えて口から声として出す。
その過程で脳に「念(今の心)」がつくられる。
この念(波動)は自己の中で何度も何度も反復する。
それがときに私を表舞台に出す。
思うに最初に出す声は受け取った気(波動)へのまこと。
ときの声はまことにまことで返すもの。
ときの心魂を鏡に譬えれば、
歪みの無いフラットなもの。
これがあの祀られている鑑、
明鏡止水あかるくもフラットに写すあの鑑です。
天照大神が天下る孫の瓊瓊杵尊に与えたもので、
この鏡を我を見るように拝めと。
この我とは天照大神であるが同時に私でもある。
ときのその心魂には「まこと」がうつるのです。
その鑑(心魂)を祀って拝めと。
てか勝手ながら私はそう思っている。
てかここでも日本語の素晴らしさが。
うつす、とはオトであるが、
それは写すとも映すとも移すとも書けるのです。
音は音として絵は絵としてそのイのシキをする。
いつものことだが、それを又思うのです。
てかこの項の初めのつづき、、
最初にイをシキして現実を見たときの心、
ときの心で応答すれば、それはまこととまことの応酬となる。
だからです、
その心で木や花に向えば、木や花とも会話ができる。
そこにある自然のすべてと会話ができる。
でも神の事の場を見失えば、
人の言葉に絡めとられれば、
そこは陰影もイロも消えた無機質な世界となる。
今そんな世界になろうとしてる。
宗教を信仰を守る盾とするなら、
宗教が本来の盾に戻るなら、
世界はまた開かれる。
それも新たな世界が。
うん!