個人主義と謂うは、
自分が在るから世界(場)がある、
自分が無ければ世界(場)はない、
であり、
デカルトの言を借りれば「我思う故に我あり」であって、
我思う(認識)がすべてである。
だから世界とは我が見る(創る)ものであり、
その中に我は無いのです。
それは我が絶対ということです。
唯一神を好む所以である。
同時にこれは利己主義と紙一重である。
・・・・・
全体主義と謂うは、
自分が在っても無くても世界(場)はあり、
我の思いとは関わりなく世界(場)はある、
であり、
我思う(認識)は当然あるのだが、
それは世界の一面でしかなく、
それに我も世界の一部であることから、
その中に我も在るのです。
我は絶対ではなく、
あくまでも相対なのです。
昨今は悪の権化のように言われている。
・・・・・
これはガリレオの話と通じるところがある。
ガリレオは天動説を否定して地動説を唱えた、と言われている。
当時は地球を軸にその周りを天が動いている、と思われていた。
それがもとで裁判に訴えられた。
そこで有名な言葉を残している。
曰く「それでも地球は動いてる」と…。
でも、その話は勘違いされてるかも知れない。
彼は地球は動いてるとは言ったが、
天は動いていないとは言ってない。
現下の人間は皆知ってるだろうが、
地球だけが動いているのではなく、
天の動きと共に動いていることを。
地球は天の外に在るのではない、天(の一部だが)そのものである。
だからである。
ガリレオは天動説を否定したのではない、
正しい天動説を唱えただけだ。
私はそう思っている。
・・・・・
これはアインシュタインの相対性理論とも通じる。
相対性理論とはまさに字義の通りであり、
それは相対ということである。
相対の対極は絶対であり、
それを中心と読み替えるとして、
では天に中心があるのか。
太陽系は太陽が中心である。
太陽系を含む銀河系は当然その内に中心がある。
さらにその上の系でも…。
さらにさらにその上の系でも…。
どこまでいってもきりがない。
部分的には中心は幾らでもあるだろう。
では本当の中心は?
それは分からない、不明と言うしかない。
これが人間の限界である。
・・・・・
ここで注意が必要だ。
絶体とは人間には捉えられないものであり、
つまり現実ではないということ、
それは頭の中の概念でしかなく、
空想・妄想の類でしかないのだ。
俗に「世の中に絶対はない」という言辞の通り。
相対とは人間にとって見たまんまであり、
つまり現実そのものであり、
その言葉自体は概念であっても、
その概念は現実に寄り添うのである。
欧米の文明は壁に当たったと言われて久しい。
絶体を追い求める限り、その壁は越えられないだろう。
空想・妄想の間を彷徨うばかりで。
日本の文明はそも相対を指向している。
どこまでも現実的なのである。
だから壁などない、初めから。
この世界(の現実)に只々寄り添うのみ。
・・・・・
絶体は一神教を生み、一神教が混乱を生む。
一神教(絶対)が多数あれば衝突あるのみ。
相対は多神教であり、多神教は安寧を生む。
そも神様どうしで衝突しない。
棲み分けできるのだ。
さて、あなたはどちらが好きですか。
自分が在るから世界(場)がある、
自分が無ければ世界(場)はない、
であり、
デカルトの言を借りれば「我思う故に我あり」であって、
我思う(認識)がすべてである。
だから世界とは我が見る(創る)ものであり、
その中に我は無いのです。
それは我が絶対ということです。
唯一神を好む所以である。
同時にこれは利己主義と紙一重である。
・・・・・
全体主義と謂うは、
自分が在っても無くても世界(場)はあり、
我の思いとは関わりなく世界(場)はある、
であり、
我思う(認識)は当然あるのだが、
それは世界の一面でしかなく、
それに我も世界の一部であることから、
その中に我も在るのです。
我は絶対ではなく、
あくまでも相対なのです。
昨今は悪の権化のように言われている。
・・・・・
これはガリレオの話と通じるところがある。
ガリレオは天動説を否定して地動説を唱えた、と言われている。
当時は地球を軸にその周りを天が動いている、と思われていた。
それがもとで裁判に訴えられた。
そこで有名な言葉を残している。
曰く「それでも地球は動いてる」と…。
でも、その話は勘違いされてるかも知れない。
彼は地球は動いてるとは言ったが、
天は動いていないとは言ってない。
現下の人間は皆知ってるだろうが、
地球だけが動いているのではなく、
天の動きと共に動いていることを。
地球は天の外に在るのではない、天(の一部だが)そのものである。
だからである。
ガリレオは天動説を否定したのではない、
正しい天動説を唱えただけだ。
私はそう思っている。
・・・・・
これはアインシュタインの相対性理論とも通じる。
相対性理論とはまさに字義の通りであり、
それは相対ということである。
相対の対極は絶対であり、
それを中心と読み替えるとして、
では天に中心があるのか。
太陽系は太陽が中心である。
太陽系を含む銀河系は当然その内に中心がある。
さらにその上の系でも…。
さらにさらにその上の系でも…。
どこまでいってもきりがない。
部分的には中心は幾らでもあるだろう。
では本当の中心は?
それは分からない、不明と言うしかない。
これが人間の限界である。
・・・・・
ここで注意が必要だ。
絶体とは人間には捉えられないものであり、
つまり現実ではないということ、
それは頭の中の概念でしかなく、
空想・妄想の類でしかないのだ。
俗に「世の中に絶対はない」という言辞の通り。
相対とは人間にとって見たまんまであり、
つまり現実そのものであり、
その言葉自体は概念であっても、
その概念は現実に寄り添うのである。
欧米の文明は壁に当たったと言われて久しい。
絶体を追い求める限り、その壁は越えられないだろう。
空想・妄想の間を彷徨うばかりで。
日本の文明はそも相対を指向している。
どこまでも現実的なのである。
だから壁などない、初めから。
この世界(の現実)に只々寄り添うのみ。
・・・・・
絶体は一神教を生み、一神教が混乱を生む。
一神教(絶対)が多数あれば衝突あるのみ。
相対は多神教であり、多神教は安寧を生む。
そも神様どうしで衝突しない。
棲み分けできるのだ。
さて、あなたはどちらが好きですか。