ことのは

初めに言葉があった。言葉は神とともにあった。言葉は神であった。と、ヨハネは言う。まことに、言葉とは不可思議なものである。

絶対と相対

2018-05-28 15:17:34 | 日記・エッセイ・コラム
個人主義と謂うは、
自分が在るから世界(場)がある、
自分が無ければ世界(場)はない、
であり、
デカルトの言を借りれば「我思う故に我あり」であって、
我思う(認識)がすべてである。
だから世界とは我が見る(創る)ものであり、
その中に我は無いのです。
それは我が絶対ということです。
唯一神を好む所以である。
同時にこれは利己主義と紙一重である。
・・・・・
全体主義と謂うは、
自分が在っても無くても世界(場)はあり、
我の思いとは関わりなく世界(場)はある、
であり、
我思う(認識)は当然あるのだが、
それは世界の一面でしかなく、
それに我も世界の一部であることから、
その中に我も在るのです。
我は絶対ではなく、
あくまでも相対なのです。
昨今は悪の権化のように言われている。
・・・・・
これはガリレオの話と通じるところがある。
ガリレオは天動説を否定して地動説を唱えた、と言われている。
当時は地球を軸にその周りを天が動いている、と思われていた。
それがもとで裁判に訴えられた。
そこで有名な言葉を残している。
曰く「それでも地球は動いてる」と…。
でも、その話は勘違いされてるかも知れない。
彼は地球は動いてるとは言ったが、
天は動いていないとは言ってない。
現下の人間は皆知ってるだろうが、
地球だけが動いているのではなく、
天の動きと共に動いていることを。
地球は天の外に在るのではない、天(の一部だが)そのものである。
だからである。
ガリレオは天動説を否定したのではない、
正しい天動説を唱えただけだ。
私はそう思っている。
・・・・・
これはアインシュタインの相対性理論とも通じる。
相対性理論とはまさに字義の通りであり、
それは相対ということである。
相対の対極は絶対であり、
それを中心と読み替えるとして、
では天に中心があるのか。
太陽系は太陽が中心である。
太陽系を含む銀河系は当然その内に中心がある。
さらにその上の系でも…。
さらにさらにその上の系でも…。
どこまでいってもきりがない。
部分的には中心は幾らでもあるだろう。
では本当の中心は?
それは分からない、不明と言うしかない。
これが人間の限界である。
・・・・・
ここで注意が必要だ。
絶体とは人間には捉えられないものであり、
つまり現実ではないということ、
それは頭の中の概念でしかなく、
空想・妄想の類でしかないのだ。
俗に「世の中に絶対はない」という言辞の通り。
相対とは人間にとって見たまんまであり、
つまり現実そのものであり、
その言葉自体は概念であっても、
その概念は現実に寄り添うのである。
欧米の文明は壁に当たったと言われて久しい。
絶体を追い求める限り、その壁は越えられないだろう。
空想・妄想の間を彷徨うばかりで。
日本の文明はそも相対を指向している。
どこまでも現実的なのである。
だから壁などない、初めから。
この世界(の現実)に只々寄り添うのみ。
・・・・・
絶体は一神教を生み、一神教が混乱を生む。
一神教(絶対)が多数あれば衝突あるのみ。
相対は多神教であり、多神教は安寧を生む。
そも神様どうしで衝突しない。
棲み分けできるのだ。
さて、あなたはどちらが好きですか。

王の道は祈りの道

2018-05-21 12:29:44 | 日記・エッセイ・コラム
聖書曰く、この世界は神が創ったと。
だから世界はそも神的なのだ。
存在するものすべてが神的なのだ。
神的とはつまり神と同義である。
神の子はすなわち神なのだから。
彼方も私も木や石も神の賜物はすべてがそうである。
ただそれでは余りに取り止めがない。
だから聖別して祀る。
ところが人は往々にして自分を聖別したがる。
すべてが神的だといえども、個は神そのものではないのに。
しかしてそのように振る舞えば、それは滅びの道となる。
傲慢が大敵な訳である。
・・・・・
世界とは存在のすべてであり、その有様を場(自然)と言う。
「場に生き、場に生かされ、場とともに在る」という日本人の思いは、
それはまことに現実に則っている。
観念に遊ぶのではなく、現実に生きるのである。
近頃メディアで闊歩してる左派・リベラルの思想とは真逆のものです。
だから日本人は場を大切にしてきた。
そして場に感謝してきた。
その心こそ祈りである。
自我の発露が先ず自分だというのは当然だが、
だからといって自分が在るから世界が在るのではない、
むしろ自分はその一部だと思うのである。
ここが欧米(やシナ・朝鮮)とは違うところだ。
そういう思いの日本だから在るのである。
その中心で祈り続ける存在が。
それが天皇である。
天皇の道は祈りの道である。
・・・・・
昨今は天皇に無関心な者や、否定的な者もいるようだ。
日本人でありながら何と日本知らずであろうか。
情けない話である。
これは戦後教育の悪弊の最たるものだ。
だからと言って、それほど心配はしていない。
明らかに支えている力があるからだ。
何度でも言う。
天皇は人間である。
その始めより。
だが天皇(正しくは天皇陛下)は最も神の近くにおられる。
それにその立居・振舞も尋常ではない。
庶民から見れば、まさに神のごときである。
それを現人神と言った。
それは今も変わらない。
来年予定の譲位も大きな力になるだろう。
否定的な者は論外だが、
無関心な者にとっては、
その存在の大きさを思い知らされるであろう。
為の大きな機会になる。
・・・・・
それは何も日本人にだけではない。
この情報社会にあっては、自ずと世界に発信される。
そして世界はあらためて知る。
日本の姿を、日本のあり様を。
今世界に発信されているクールジャパンは、
つまりはすべてそこに根があると。
日本人が発信下手だということは気がかりだが。
でも何とかなるだろう。
親日外国人が助けてくれかも。
それにそれを吹き飛ばす何かが現れるかも、
…。

王の道

2018-05-14 13:35:59 | 日記・エッセイ・コラム
場に生きる日本人は言葉をそのように使ってきた。
俗に日本語は主語が表示されないことが多いと言われる。
明治以降の日本人はそれを主語の省略だと言う。
学校教育ではそう指導してきた。
欧米の知識を取り入れた時、そこを誤解してしまったのだ。
主題(場)に言及するのを旨とする日本語は、
主語を表示しないのは当然で、
主語を入れれば場が霞んで特定の行動のみが強調されるが、
それは欧米の個人主義にはふさわしいが、
日本語にはそぐわないのである。
ゆえに私などという人称が出てきても、
それは主語ではなく場の一部として敢えて明示するだけで、
だからこそ表示されないことが多いのだ。
人称は時に助長でしかなくなるのが日本語である。
勿論場ではなく人を強調するときは、
そのように表現する方法はある。
ついでだが、
だから昨今の英語教育の推進は危険であり、
先ず日本語(国語)をしっかり学ぶことだ。
そして、違いを知ったうえで外国語を学べばいい。
・・・・・
日本は天皇が知ろしめす王国である。
だが所謂ピラミッド型社会ではない。
天皇は三角形の頂点に坐すのではない。
円環(輪)の中心に坐すのである。
上下関係ではなく、平明な輪(和)の世界である。
その中心に坐すということだ。
それが日本(という場)である。
私が在るのは、私一人の力ではない。
場が在ってこそである。
そんな当たり前を旨としているのだ。
だから自分を大事にするとは、場を大事にすることでもある。
場とは父母兄弟友達他すべての人々であり、
山川草木など自然のすべてである。
だから日本では我(が)が突出するのを嫌う。
我は所詮場あってのものだから。
勿論我は当然にあるもので、それ自体悪いものではない。
我の出し方が問われるだけである。
自己主張が苦手な訳である。
・・・・・
天皇は頂点ではなく、中心の在られる。
だから命令はしない、示すのみである。
それは歌で、それはお言葉で、そして行動で。
あくまで示すのみである。
その根底にあるのは祈りです。
場にある国民ひとり一人の幸せを祈るのです。
祈り続けるのです。
だからである。
戦前も今も日本に覇道はない。
どこまでも王道なのです。
天皇に私はない、いつでも天皇である。
すごいことだ。
尋常の技ではない。
こんなことは普通の人にはさせられない。
金や地位・名誉、徳などで計れるものではないのだ。
昨今は女性天皇とか女系天皇とかで喧しいことだが、
まことに胡乱なことである。
天皇の所以は男系・男子による万世一系である。
男系の女性も過去にはあるが、これはあくまで一時しのぎである。
天皇の本意は祈り続けることです。
ここが肝要である。
女性にはできないのだ。
もっと大事なことがあるから。
それは命を繋ぐことである。
この大事をないがしろにしては祈りも意味がなくなる。
だから男性なのである。
女性が立つ場合は、その大事から遠ざかざるを得ない。
一時しのぎの所以である。
・・・・・
勘違いしないでほしい。
これは男が上で女が下と言うことではない。
勿論その逆でもないが。
どこまでも対等なのだ。
天皇と言われるのは確かに一人だけだが、
天皇が在るのは皇后あってのものである。
両者そろってこそである。
知っての通り、陛下と呼ばれるのはお二人おられる。
天皇陛下と皇后陛下である。
ここに意味があるのです。

覇の道と王の道

2018-05-07 12:32:28 | 日記・エッセイ・コラム
欧米の個人主義は覇道に陥りやすい。
自分が在って世界が在る、のだから。
自分中心になりやすいのだ。
てか、自分中心である。
だからこそ、所謂近代革命が起こったとも謂える。
王侯貴族だけが特権を享受し、他は奴隷か奴隷のごとしなのだから。
一般市民が力を持ってくれば、疑問が出てくるのは必定である。
結果「自由・平等・友愛」や「人権」という言葉が出てきたのである。
キリスト教という宗教的風土もあって。
でも注意すべきは博愛ではなく友愛であるということだ。
あくまで仲間内だけである。
根が個人主義だから、そこが限界である。
・・・・・
だから、苛烈な植民地支配も意に介さない。
何しろ自分が在って、世界が在るのだから。
力があれば世界は自分の思いのままである。
征服したもの勝ちなのだ。
だから覇権争いが起きる。
力のない被植民地はもっぱら蹂躙されるまま。
力のある者同士では争いが絶えない。
時に妥協して適当に支配領域の線を引く。
個人主義の当然の帰結である。
何度でも言うが、自分が在って世界があるのだ。
世界は自分の為に在るのだ。
その意識から逃れられない。
・・・・・
シナ(や朝鮮)はもっと酷い。
彼らも個人主義であるのだが、その上に中華思想があるのだ。
自分中心の上に更に自分中心なのである。
まったき力の世界であり、力のない者はひたすら従うのみ。
事大主義も韜光養晦もそれであり、常に日和見なのである。
だから中央に力がある間は何とか治まるが、力がなくなれば泥沼となる。
それが彼らの歴史である。
もともとは彼らにも信仰があったのだろうが、
今や欧米のような信仰の根もなく、
自由や平等などという言葉は使っても、
そこに意味などまったくない。
あるのはもっぱら自分の都合だけ。
その点は欧米より始末が悪い。
・・・・・
日本は違う。
個人主義ではないのだ。
なら集団主義なのか。
そうとも言えるが、
それよりも、
場中心主義とでも言ったほうがいいだろう。
自分が在るのは自分の力によるのではない。
場があってこそである。
場から生まれ、場に生かされ、そして場に立つ。
自分と場は一体なのだ。
場とは世間や自然を含む、この世界のすべてである。
考えたら分かるだろう、
欧米やシナの発想こそ偏っているのであり、
日本の発想は現実であり真理である。
ゆえにこそ日本に覇道はない。
王道あるのみ。
その象徴(心柱)が天皇である。
・・・・・
先の戦争では欧米は誤解をしていた。
いやむしろ知ってて誤解したのかも。
日本には覇道がないのに。
大東亜共栄圏とは覇道による支配ではない。
棲み分けによる共生とその上での緩やかな連帯、
そんな王道の世界を目指したのである。
戦前の日本人はそれを理解していた。
だからこそ硫黄島や沖縄などで命を賭して戦ったのである。
自分(命)を守ると場(国)を守るとは同義であり、
そのことに殉じたのである。
祈念あるのみ。