初めに神は天と地を創造された。
これは聖書(創世記)の最初の行である。
余談だがときの地には水があった、すでにあったのである。
次に「光あれ」と言われた。すると光があった。
ここに聖書は始まる。
最初に創られた天と地は、
言葉で創られたとはしていない。
ときの神の力とは何だったのか。
それは分かりません。
分からないのが答か。
知る必要がないのか。
ともかくも、
・・・・・
天は地を抱え、地は天にある。
そも天地は一つのものか。
それは創るものではなく、初めからそこに在るもの。
始まりもなく、終わりもなく。
ただただ在るもので在り続けるもの。
私にはそれこそが神だと。
そして次に「光あれ」である。
光とは波動である、想えば言葉も波動である。
そこで思うのです、光と言葉は同期同調していると。
そこからすべてが始まる。
「ものごと」のすべてが。
ちなみにここにも例外がある。
それは先にも言った水である。
水はそも始めからあったのだ。
それはさておき、
天と地だが天は天として、地のこと。
地とはここでは地球のことだろうが、
してもそれはつまりは星のことだと。
我々に見える星はみんな光っている。
それはときに光が与えられたからで、
そのとっておきのものが太陽である。
それが最も身近にある光る星である。
そこで想うのです、
星信仰と太陽信仰は結局は同じかと。
太陽系に於いては、
就中この地球に於いては、
余りにも太陽は圧倒的なだけで、
しても他の星なくして太陽もなかろう、
と謂うことで私的には同じもの。
で私の世界観だが。
この世界は天と地で出来ている。
それは一つの器であり場である。
自分で言っておいてだが、
器とは形を浮かべるからちょっと不適。
だから「場」がいいと思ってる。
この世界にはともかく場がある、
そして、そして、
そしてそれこそが神だと、
・・・・・
ここまでは導入である。
ここからが本目である。
日本語には主語がない、
省略してるのではない。
あくまで無いのである。
これが分かっていない。
このことの意味合いが。
欧米の論理に惑わされ。
人間が生きる条件は大きく二つある。
それは自然環境と人間環境であると。
大古は自然環境がほぼすべてだった。
しても住みやすい所が少なくなってからは、
その場所の奪い合いに。
所謂縄張り争いである。
ときに人間環境が大きな問題に。
その軋轢の中で奴隷が作られる。
それが文明社会の有様。
少し前まであった未開社会では、
縄張り争いはあったが、奴隷はいなかったろう。
しかして文明社会の代表の欧米、
これがまさに奴隷社会であった。
ここでは人間環境がほぼすべて、
自然はその利用にのみ関心が向かう。
ゆえ言葉は多くが人間関係へと傾く。
だからそこを明瞭にすべく腐心する。
それがその主語の用い方に表われる。
人間以外が主語になることは少ない、
てか勝手に思っている。
日本は歴史的に文明国であった。
してもその根本に自然を置いた。
それがまさに「場」と言うもの。
しかしてここが肝心である。
私があって場があるのではない、
場があって私があるのです。
疑問の余地はないかと。
にしても人間関係も結局は場である。
場の一部分に違いなし。
その混然一体となった場こそすべて、
そこに私があるだけのこと。
私もそして誰も彼も場の要素に過ぎない。
物語りの中には主題と要素があるだけだ。
主語と謂う発想はほとんどない。
日本語で人称を主語的にする助詞として、
「は」と「が」がある。
「は」は一般的に語るとき、
「が」は特定的に語るとき、
それだけのことである。
それは何を示してるかと言えば、
それは話題の素を示すだけ、
そういうもんでしょう。
ちなみに「Ⅰ」に相当する言葉には、
私、俺、僕、手前、当方など色々と。
これはその場に相応しいものを選ぶ、
ときの場に相応しいものを。
人称が色々あるのは紛らわしいのにです。
それは主語ではなく要素だからです。
ちなみに、
話し言葉と書き言葉とでは、
基本的には同じであるが、
少し様子が違ってくる。
・・・・・
私は世界の言語のほとんどを知りません。
それでも敢えて言っている。
日本語は唯一無二の言語である、と。
一音一意、一字一意、
母音中心の少ない音で多くを表わす、
それを漢字が縦横無尽に補っている。
それゆえに同音異義語が多いのだが。
してもそれは音と光(絵)の二つの波動を駆使する。
まことに類まれな言語なのです。
そこでの文字の多さは正に脅威。
お遊びではあろうが絵文字まで。
だからその造語能力は凄いもの。
てかこのことは既に言っている。
で今回は「主語がない」である。
それは省略ではなく無いである。
これは一般的には晴天の霹靂か。
でも私はこれを確信しています。
勿論私のオリジナルではないと。
先人がいるのです。
初めて知ったときの驚きと感動、
まさにまさにです。
そして今ハッキリ自覚している。
主語から主題にそして人間から「場」に。
そして尚その「場」は「神」にまで。
これが日本人の魂となっている。
それを知ろう!
きっと知ろう!
これは聖書(創世記)の最初の行である。
余談だがときの地には水があった、すでにあったのである。
次に「光あれ」と言われた。すると光があった。
ここに聖書は始まる。
最初に創られた天と地は、
言葉で創られたとはしていない。
ときの神の力とは何だったのか。
それは分かりません。
分からないのが答か。
知る必要がないのか。
ともかくも、
・・・・・
天は地を抱え、地は天にある。
そも天地は一つのものか。
それは創るものではなく、初めからそこに在るもの。
始まりもなく、終わりもなく。
ただただ在るもので在り続けるもの。
私にはそれこそが神だと。
そして次に「光あれ」である。
光とは波動である、想えば言葉も波動である。
そこで思うのです、光と言葉は同期同調していると。
そこからすべてが始まる。
「ものごと」のすべてが。
ちなみにここにも例外がある。
それは先にも言った水である。
水はそも始めからあったのだ。
それはさておき、
天と地だが天は天として、地のこと。
地とはここでは地球のことだろうが、
してもそれはつまりは星のことだと。
我々に見える星はみんな光っている。
それはときに光が与えられたからで、
そのとっておきのものが太陽である。
それが最も身近にある光る星である。
そこで想うのです、
星信仰と太陽信仰は結局は同じかと。
太陽系に於いては、
就中この地球に於いては、
余りにも太陽は圧倒的なだけで、
しても他の星なくして太陽もなかろう、
と謂うことで私的には同じもの。
で私の世界観だが。
この世界は天と地で出来ている。
それは一つの器であり場である。
自分で言っておいてだが、
器とは形を浮かべるからちょっと不適。
だから「場」がいいと思ってる。
この世界にはともかく場がある、
そして、そして、
そしてそれこそが神だと、
・・・・・
ここまでは導入である。
ここからが本目である。
日本語には主語がない、
省略してるのではない。
あくまで無いのである。
これが分かっていない。
このことの意味合いが。
欧米の論理に惑わされ。
人間が生きる条件は大きく二つある。
それは自然環境と人間環境であると。
大古は自然環境がほぼすべてだった。
しても住みやすい所が少なくなってからは、
その場所の奪い合いに。
所謂縄張り争いである。
ときに人間環境が大きな問題に。
その軋轢の中で奴隷が作られる。
それが文明社会の有様。
少し前まであった未開社会では、
縄張り争いはあったが、奴隷はいなかったろう。
しかして文明社会の代表の欧米、
これがまさに奴隷社会であった。
ここでは人間環境がほぼすべて、
自然はその利用にのみ関心が向かう。
ゆえ言葉は多くが人間関係へと傾く。
だからそこを明瞭にすべく腐心する。
それがその主語の用い方に表われる。
人間以外が主語になることは少ない、
てか勝手に思っている。
日本は歴史的に文明国であった。
してもその根本に自然を置いた。
それがまさに「場」と言うもの。
しかしてここが肝心である。
私があって場があるのではない、
場があって私があるのです。
疑問の余地はないかと。
にしても人間関係も結局は場である。
場の一部分に違いなし。
その混然一体となった場こそすべて、
そこに私があるだけのこと。
私もそして誰も彼も場の要素に過ぎない。
物語りの中には主題と要素があるだけだ。
主語と謂う発想はほとんどない。
日本語で人称を主語的にする助詞として、
「は」と「が」がある。
「は」は一般的に語るとき、
「が」は特定的に語るとき、
それだけのことである。
それは何を示してるかと言えば、
それは話題の素を示すだけ、
そういうもんでしょう。
ちなみに「Ⅰ」に相当する言葉には、
私、俺、僕、手前、当方など色々と。
これはその場に相応しいものを選ぶ、
ときの場に相応しいものを。
人称が色々あるのは紛らわしいのにです。
それは主語ではなく要素だからです。
ちなみに、
話し言葉と書き言葉とでは、
基本的には同じであるが、
少し様子が違ってくる。
・・・・・
私は世界の言語のほとんどを知りません。
それでも敢えて言っている。
日本語は唯一無二の言語である、と。
一音一意、一字一意、
母音中心の少ない音で多くを表わす、
それを漢字が縦横無尽に補っている。
それゆえに同音異義語が多いのだが。
してもそれは音と光(絵)の二つの波動を駆使する。
まことに類まれな言語なのです。
そこでの文字の多さは正に脅威。
お遊びではあろうが絵文字まで。
だからその造語能力は凄いもの。
てかこのことは既に言っている。
で今回は「主語がない」である。
それは省略ではなく無いである。
これは一般的には晴天の霹靂か。
でも私はこれを確信しています。
勿論私のオリジナルではないと。
先人がいるのです。
初めて知ったときの驚きと感動、
まさにまさにです。
そして今ハッキリ自覚している。
主語から主題にそして人間から「場」に。
そして尚その「場」は「神」にまで。
これが日本人の魂となっている。
それを知ろう!
きっと知ろう!
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