ことのは

初めに言葉があった。言葉は神とともにあった。言葉は神であった。と、ヨハネは言う。まことに、言葉とは不可思議なものである。

記憶

2024-05-27 09:40:26 | 日記・エッセイ・コラム
以前に、DNAは命の設計図である、と言った。
それは今も変わりません。
ですが別の言い方もある。
それは、命の記憶である、と。
記憶を記録と言換えても、同じようには思える。
だがここでは記憶を取る。
憶は「心偏に意」であり、
録には心偏がなく無機質。
憶これはまさに命の発露。
命は事であり流れである。
それはゆえに歴でもある。
そこに史を付ければ歴史。
そうこと、
・・・・・
命は細胞ひとつから始まった。
それが多細胞になって種が現われる。
それを大きくとらえれば植物と動物の二つ。
その動物にも種がある。
人を考えるは念頭に哺乳類を。
もっとも人に近い命の種ゆえ。
その命の記憶はDNAにある。
それは細胞一つひとつにある。
最初に受精した一つの細胞が、
分裂を繰り返して増えていく。
そしてその種の體が造られる。
これは生命の発生から、その種の成立ちまでの、
すべての順を辿るとか。
これはまさにDNAが持つ記憶の発現そのもの。
この流れは一服の歴史である。
そしてついに誕生する。
ここまでは種に関わらず同じだろう。
もっぱらDNAに基づいて行われる。
勿論これ以降も関りは続くでしょう。
でもその後は少し距離を置くことに。
それは学びと教育が必要になるから。
そしてようやく種として完成される。
この学び(教育)は誕生後にしかできない。
これは體が持っている能力に基づくのだが、
それを本能というならそれがあってのこと。
しても生まれる前とは大きな違いが。
学びには同種の存在が基本的に必要。
つまり親兄弟らに育てられることが。
その関りの中で培われるものである。
そしてその生き方(文化)を身に付ける。
これはその種の誕生から今に至るまでをなぞるが如し。
これもまた一服の歴史である。
して見れば、
誕生までは生命進化の歴史を、
誕生後はそこにその種の歴史が乗る、
と言うことかと。
まあそう言うことだろう。
・・・・・
人類も哺乳類だからそこは同じです。
だがひとつ異なることがある。
それは言葉を持つこと。
しても、
ときには言葉を持っていない。
DNAは言葉を創らないのだ。
それはための部位を脳の中に用意するだけ。
ここに花がある。
 秘すれば花、の花である。
(そうと言うしかないもの)
すべての生物には記憶がある。
でなければ己を維持できない。
それは存在の記憶です。
それは事場の記憶とも謂える。
それが全細胞(DNA)にあるが、
ときにその集約を脳に持つことも。
そのとき意識と謂うものが現れる。
とは言ってもそれは目に見えない。
それは行動に現れるが、それとは分かりません。
それを尚顕在化させるものがある。
それを呼ぶものを上で花と言った。
人にはそれが體に造られたのです。
その脳の中に。
ゆえ言葉が得られる。
それには学びが必要である。
ここに一つの例がある。
狼少年の話である。
理由は知らず生まれた直後に捨てられたか、
しても運よく生き延びた少年がいた。
彼は狼に育てられたのである。
それがその後人間界に戻ったのだが、
人間の様にはなれなかった。
終生狼として生きたのです。
體だけでは無理なのである。
ときを狼として生きたから。
言葉を持てなかったのです。
それはDNAだけでは不足。
誕生後はそこに加えねばなりません。
それは人類誕生以降の記憶であると。
これは生身の人間が伝えるしかない。
それを歴史という。
付け加えて詳らかに言えば、
神話と歴史または歴史・伝統・文化と謂う。
それは言葉で出来ている。
それは言葉である。
・・・・・
いま世界が壊れているのはまさにここに。
冒頭の話にもどる。
記憶の憶は心に意であり、
記憶とはそのしるしです。
これが人の言葉の始まり。
始まりの言葉に嘘はなく、
それは実に思いそのもの。
嘘とは心の構えのことで、
それが事実でないのに事実だと言うこと、
それを事実だと信じてるなら嘘ではない。
それを踏まえて思う。
歴史に嘘があれば世界は壊れるしかない。
過去の記憶を身にまとい未来を輝かせる、
それが今の今で、その今を生きるのが命。
それが壊れる。
当然でしょう。
ゆえ歴史を取り戻しましょう。
嘘のない歴史を。
事実だとか正義だとか言うレッテルはどうでもいい、
そこに嘘がなければ。
思いに嘘がなければ。
でも勿論事実の確認は大切である。
それは思いの始まるところだから。
人間は言葉の生き物、
言葉に始まり、言葉にかえる。
ゆえ私はリベラルを嫌う。
彼ら彼女らは、
歴史・伝統・文化を一顧だにせず、
こころのない意を振りまわすだけ。
何とかせねば、
と思うのだが、

文字

2024-05-20 08:39:32 | 日記・エッセイ・コラム
言葉は音(声)である。
波動にて思いを伝える。
であるが、ここに文字が登場する。
これが又言葉を大きく変貌させる。
言葉はそも魔法である、と言った。
それは他の生き物にはビックリの、
摩訶不思議な力を持つ。
文字はその力を更に大きくさせた。
近代以降はそれが顕著である。
それを科学と言っている。
まあそんなことです。
・・・・・
でも基は音という波動である。
それを大事にするのが日本であり、
ゆえに50音表がある。
にしても言葉は思いを伝えるもの。
それはやはり音(声)がすぐれている。
そこには思いが乗るのである。
その音は場につつまれている。
場のあらゆる情報と共にある。
ゆえに目の前の相手に伝わる。
でもその場限りであり一過性。
たとえ深奥に残ったとしても。
文字はそこが違うのです。
文字はそれが消えにくい。
一過性ではなく長く残り、
記録としては非常に有効。
てかこれが決定的な違い。
その言葉には生身の波動がないのです。
あるのはその記憶あるいは残滓である。
だから伝わり方ははなはだ心もとない。
それは読み手の読み方次第なのである。
しかも読み手を選ばずその数も無制限。
ゆえ当の言葉を離れて勝手に独り歩き。
それにそれは時と場所を軽々と超える。
これがその魔法を飛躍させる。
でもここに魔(間)がひそむ。
例えば歴史。
文字がなければ口伝しかない。
神話も含めすべては口伝から。
そも口伝は実は凄いのである。
それは特化した能力が必要で、
その能力に依って継承される。
それも言葉尻より思いが重要。
言葉は時と伴に変化するもの、
ゆえ言葉尻より思いなのです。
口伝えはそこがすぐれており、
一子相伝となるも止むを得ず。
それが文字ならどうだろうか。
これは一度記せば後は手が掛からない。
しかしそこに書き手の波動はない。
読み手の波動が往復するのみ。
だからもっぱら読み手に依存。
原本であれば正確は正確だが。
でも言葉は変わっていくもの。
言葉にはそういう問題もある。
結局すべて読み手任せとなる。
文字情報にはそういうクセが。
そも本人への直接確認は非常に難しい。
それを知っておこう。
もうひとつ、
例えば科学。
科学は神の事の場を問うもの。
そして基本的に今を問うもの。
人の思いには左右されません。
とはいえこれも人の文字で記述される。
なら文字が持つ魔をどうする。
ゆえに科学は定義にこだわる。
これでその魔が取り除かれる。
しかも常に神の事の場(現実)に帰る。
それがなされれば、
そこで科学はなる。
ここで先に記した歴史をもう一度。
歴史とは人類の生きた記憶である。
それは時の思いの流れを追うもの。
時の波動は時の波動として捉える。
その波動の置き換えは基より論外。
ところがその論外絶えることなし。
またもどる。
人は言葉を持って初めて人になる。
ゆえ人類の歴史とは言葉を得て以降のこと。
だから口伝もまた歴史に違いなし。
でも通常は文献記録を指している。
つまり文字である。
だから注意が必要。
さきに記したが歴史は曲げられる。
それはそれが政治とは裏表だから。
その政治とは時の政治のこと。
時は常に過去と繋がっている。
ゆえ時に都合の悪いものは変えられる。
これが常に繰り返されてきた。
ちなみにこれを避けたいなら、
一子相伝の口伝しかない。
だから想うのです、
日本にはそれがあるだろうと、
或るところに有るだろううと、
あるところにです、
………。
・・・・・
日本語は難しい、とよく言われる。
その一つは文字数が多いこと。
その数もだがその種類もです。
日常会話だけならむしろ易しいのでは。
しかしてその種類は主には三っつ、
漢字、ひらがな、カタカナである。
算用数字やアルファベットもそうだが、
文章が基本縦書きだからそこは不向き、
数学での必要性はもう圧倒的であるが。
なんやかんやだが、
中でも難しいのは漢字であろうか。
それは一つひとつの字もそうだが、
なんといってもその数が多いから。
それにその読み方が一つではない。
音読みと訓読みの二種類があって、
しかも訓読みが一つでないことも。
例えば「上」、これは音読みは「じょう」、
訓読みには「うえ」と「かみ」がある。
逆に和語に漢字を宛てるのも常道。
例えば「みる」に宛てるのは、
見る、視る、観る、診る、看るなど等と。
そんなことですが、
ともかく尋常ではありません、
その取り扱い方が。
だからか日本語はその造語能力が圧倒的、
それは主に漢字のお陰ですが。
幕末期における欧米語に宛てた夥しい漢字熟語、
しかもその文字選びの絶妙さ、
そして安直で能天気なカタカナ和製英語の氾濫、
これは戦後それも最近のこと。
そしてそこでの文章の書き方、
漢字かな交じり文にカタカナ語かな交じり文等、
もう変幻自在である。
ちなみにひらがなとカタカナの使い分けも絶妙。
漢字はそも記号化した絵なのだが、
文章も記号化を超えて絵的になっている。
だから文字を一々追わなくても何となく分かる?
ようなところがある。
これはもう言葉のブラックホール。
おそろしい言語です。
それはそうなのだが、
そもその始まりは音(波動)です。
その音を概ね50音として捉える。
ゆえ基本語彙はそれほど多くない。
それらを「てにをは」と語尾の活用で賄う。
これが和語であり祝詞の大本はここにある。
この始まりの言葉は、
音(波動)に始まり、音(波動)にかえる、
神(事場)に始まり、神(事場)にかえる、
それが日本語である。
まことに、まことに。

色は匂へど

2024-05-13 09:34:27 | 日記・エッセイ・コラム
日本語の50音表に似たもので、
イロハニホヘト~、があります。
かな文字47を一度だけ使用し、
ひとつの歌をうたいあげている。
まことに趣のあるいい歌である。
ゆえ所謂50音表とともに、
字母表として使われてきた。
ここでこれを持ち出すのは、
前に記した「あえいおう」の続きとしてです。
心が驚き「あ」、
心が惑い「え」、
心を収め「い」、のこの「い」を思うのです。
この歌はその「い」から始まる。
ところで、
普通目次の標題前には一二三などを使う。
それをイロハとすることもある。
最近は見ることがなくなったが。
それほどに重宝されていた。
てかそれがどうした?

・・・・・
私は思うのです。
言葉の初めは心の驚きか、驚きの震えか。
それが流れで合図となり、
終には意味を持つことに。
それは口から出る音(声)として。
そのときそれは単なる音ではない。
それが「い」である。
それは言(い)うの「い」である。
ここに「い」があり、
ここに言葉が始まる。
そこでこの「い」を思う。
これは「あえいおう」の真ん中にあって、
その謂は、
息の「い」であり、命の「い」であり、生きるの「い」である。
そこで聖書を思う。
旧約聖書エゼキエル書三七章。
・・
谷間に枯れた骨が満ちていた。
神はエゼキエルに言われた。
これらの骨に預言して言え。
エゼキエルはそれに従った。

しかして骨は繋がりそこに肉皮がついた。
しかしまだ生きてはいなかった。
息がなかったのである。
そこでさらに預言をすれば、
そこに息がはいった。
そしたらそれらは生き返り、
はなはだ大いなる群衆になった。
・・
ここでは命は息だと言っている。
ところで日本では、
亡くなることを「息を引き取る」という。
現下の死亡判定とは違うが。
息とは「い」の気であり、命とは「い」の血である。
かくて「いきる」は息することでつまり生きること。
行きるとも逝きるとも書けるが、
行きて逝きるが生きるに如かず。
良く出来ている、
出来過ぎている。
ところで漢字語の音読みに「いみ」というのがある。
意味と記すもの。
これも一応「い」ではあります。
でも一音一意からはズレている。
訓読みではないから。
しても妙に合致しているような。
まあ思い過ごしか、
それとも偶然か?
てかともかく「い」とはそんな音である。
それを思うのです。
・・・・・
それにしてもイロハ歌これは素晴らしい。
根底に仏教思想があるようだが、
そこに日本的情緒無常感が漂う。
弘法大師の作と言われていたが、
今は作者不詳とされている。
弘法大師は傑出した人物だから、
その作であっても不思議はない。
ところで、
今の学校ではどうなってるのだろう。
教材として残ってるのだろうか。
消されているのではと思う。
思えば言葉は音である。
その波動が伝わりそれが身体(特に耳)に届く。
後に文字が出来るがこれは実は届きにくいもの。
文字は波動を伝えない。
身体にはまったく響かない。
専らその一部(脳)で回るだけ。
そこは実に情緒情感には欠ける世界。
だからです、
イロハ歌の素晴らしさはここにある。
一音一意の心を歌にして届ける。
それは音韻・響きとして届ける。
しかも「い」から始まるのです。
何を思ったか「い」から始まる。
言葉の初めだと私が思う音。
もう感心するしかない。
それが字母表にもなる。
・・
イロハニホヘト
チリヌルヲワカ
ヨタレソツネナ
ラムウヰノオク
ヤマケフコエテ
アサキユメミシ
ヱヒモセス

ん!
・・・・・
人類は魔法使いである。
無類の魔法使いである。
してもこのことに無頓着です。
しかして戦後世界、
神は追いやられた。
魔法も非科学的と言われて追いやられた。
でも少しだが復権の兆しあり。
映画やアニメなどではその様である。
しても魔法使いとは又面妖な。
そう思うなら、他の生き物に聞けばいい。
彼らから見れば人類はまさに魔法使いである。
誰よりも速く走り、空を飛び、水に潜む。
山を砕き谷を埋め、見えない物さえ操る。
これが魔法でなくて何なのか。
この魔法には種がある。
それは言葉である。
これが種のすべて。
でもいま人類は危うい。
自分が魔法を持っているのに、
それを持っているのを知らず、
その魔法に憑りつかれている。
その有様は、
もはや夢遊病者の如し。
嗚呼!

あいうえお

2024-05-06 09:20:22 | 日記・エッセイ・コラム
この標題では意味が分からない。
初めは「日本語の不思議」にしようと思っていた。
私はそも言葉に不思議を感じていた。
ここにきて、てかもう随分前からか、
日本語が始まりの言葉、
あるいは始まりに近い言葉だと、
そう思うようになった。
それを根拠をもって言っておられる方がいる。
少し前に YouTubeで知ったのですが、
その人はある一つの確信を持って、
日本語はもっとも古い言語だと。
それもあって、
なおさらにそう思うのです。
それに私には私なりに、
思うところがある。
そんなことで、
・・・・・
言葉はそも音です。
それを基として成っている。
それを想うのです。
学問的根拠はないのですが、
それ以外は考えられません。
ゆえそれを手掛かりとする。
だからの標題(あいうえお)である。
日本語は音を50音として扱う。
そこでの母音は五つである。
それが「あいうえお」。
この五つは残りの音すべてについてきます。
てか「ん」は除く。
音韻には母音と子音がある。
母音は音として明瞭、また長く発せられる。
子音はそも一瞬の音、すぐに消えてしまう。
だから言葉が音であり、
そこに思いを乗せて伝えるとすれば、
その初めは母音としか考えられない。
子音が用いられるのはその後である。
それは音の多様化には必要であろう。
それに発話のしやすさをも加味して、
日本語には濁音拗音促音などがある。
 (「〝」「゜」「っ」「ん」)
ちなみに母音の数は五つと決まってる訳ではない。
五つ以上や五つ以下のこともままあるようで。
それは喉から口元にかけての形で決まる。
数が多ければそこが複雑微妙になる。
少なければ用を足すのに不十分。
どうも五つがいいようです。
日本語はその様である。
・・・・・
ところで、
日本語は一音一意と謂われる。
それが50(音表として)あるのだと。
そのように聞いている。
てかどこで聞いたのか。
学校教育でないのは確かだが。
それはそれとして、
私は大いに興味を持っている。
言葉の不思議の一貫でもあり、
そのことをつとに思うのです。
そんなことで…。
言葉の始まりは音として、
なおそれは母音一音から。
それがまずは五つあると。
それが「あいうえお」である。
でもこれは、
喉から口元までの形状からすれば、
不自然なのです。
これは「あえいおう」の方が、
その形が自然に流れると。
だから「あえいおう」とする。
ひとつは「あ」、これは感嘆をあらわす。
これは心が驚くときに発する。
ひとつは「え」、これは疑問をあらわす。
これは心が惑うときに発する。
ひとつは「い」、これは納得をあらわす。
これは心が収まるとき発する。
ひとつは「お」、これは応答をあらわす。
これは心が答えるとき発する。
ひとつは「う」、これは始末をあらわす。
これは心が構えたとき発する。
と思うのですが、
勝手ながらのこじつけである。
自分では結構気に入っている。
ところで、
ここでオノマトペが出て来る。
これは日本語の得意技である。
他の言語にもあるが日本語にはそれが溢れてる。
想えばオノマトペは音が意を持つ初めのような。
となると言葉はここに始まるのかも。
そんな風にも思える。
それはさておき、
ここでもう一度うえの「あえいおう」を。
その順番が妙に現実に合致する。
「あ」っと驚き、
「え」っと惑う、そして
「い」で収めて、納得
「お」で答えて、
「う」で構える、始末
これって突然の事態に対する反応そのものか、
そしてそのときのオノマトペである。
まあ「こじつけ」である。
でもまあそこそこの、
・・・・・
そも日本語はその系統が不明である。
もっとも古いならそれは当然のこと。
それに冒頭でも言ったが、
確信を持ってそう言ってる方がいる。
それを得た方法とは、
ある言葉の語源を世界中で調べた結果であり、
成程という説得力がある。
また古代シュメールには、
日本語のような音韻表があったとか。
そういう資料が出土しているらしい。
あれやこれやあり、
そこに私には私の思いがあり、
ゆえ私にもそれなりの確信が。
中でも大きなしるしがふたつ。
ひとつはその音韻表。
ひつとはオノマトペ。
てかそれがどうした、
どうもしません、
それだけのこと。
ハイ!