以前に、DNAは命の設計図である、と言った。
それは今も変わりません。
ですが別の言い方もある。
それは、命の記憶である、と。
記憶を記録と言換えても、同じようには思える。
だがここでは記憶を取る。
憶は「心偏に意」であり、
録には心偏がなく無機質。
憶これはまさに命の発露。
命は事であり流れである。
それはゆえに歴でもある。
そこに史を付ければ歴史。
そうこと、
・・・・・
命は細胞ひとつから始まった。
それが多細胞になって種が現われる。
それを大きくとらえれば植物と動物の二つ。
その動物にも種がある。
人を考えるは念頭に哺乳類を。
もっとも人に近い命の種ゆえ。
その命の記憶はDNAにある。
それは細胞一つひとつにある。
最初に受精した一つの細胞が、
分裂を繰り返して増えていく。
そしてその種の體が造られる。
これは生命の発生から、その種の成立ちまでの、
すべての順を辿るとか。
これはまさにDNAが持つ記憶の発現そのもの。
この流れは一服の歴史である。
そしてついに誕生する。
ここまでは種に関わらず同じだろう。
もっぱらDNAに基づいて行われる。
勿論これ以降も関りは続くでしょう。
でもその後は少し距離を置くことに。
それは学びと教育が必要になるから。
そしてようやく種として完成される。
この学び(教育)は誕生後にしかできない。
これは體が持っている能力に基づくのだが、
それを本能というならそれがあってのこと。
しても生まれる前とは大きな違いが。
学びには同種の存在が基本的に必要。
つまり親兄弟らに育てられることが。
その関りの中で培われるものである。
そしてその生き方(文化)を身に付ける。
これはその種の誕生から今に至るまでをなぞるが如し。
これもまた一服の歴史である。
して見れば、
誕生までは生命進化の歴史を、
誕生後はそこにその種の歴史が乗る、
と言うことかと。
まあそう言うことだろう。
・・・・・
人類も哺乳類だからそこは同じです。
だがひとつ異なることがある。
それは言葉を持つこと。
しても、
ときには言葉を持っていない。
DNAは言葉を創らないのだ。
それはための部位を脳の中に用意するだけ。
ここに花がある。
秘すれば花、の花である。
(そうと言うしかないもの)
すべての生物には記憶がある。
でなければ己を維持できない。
それは存在の記憶です。
それは事場の記憶とも謂える。
それが全細胞(DNA)にあるが、
ときにその集約を脳に持つことも。
そのとき意識と謂うものが現れる。
とは言ってもそれは目に見えない。
それは行動に現れるが、それとは分かりません。
それを尚顕在化させるものがある。
それを呼ぶものを上で花と言った。
人にはそれが體に造られたのです。
その脳の中に。
ゆえ言葉が得られる。
それには学びが必要である。
ここに一つの例がある。
狼少年の話である。
理由は知らず生まれた直後に捨てられたか、
しても運よく生き延びた少年がいた。
彼は狼に育てられたのである。
それがその後人間界に戻ったのだが、
人間の様にはなれなかった。
終生狼として生きたのです。
體だけでは無理なのである。
ときを狼として生きたから。
言葉を持てなかったのです。
それはDNAだけでは不足。
誕生後はそこに加えねばなりません。
それは人類誕生以降の記憶であると。
これは生身の人間が伝えるしかない。
それを歴史という。
付け加えて詳らかに言えば、
神話と歴史または歴史・伝統・文化と謂う。
それは言葉で出来ている。
それは言葉である。
・・・・・
いま世界が壊れているのはまさにここに。
冒頭の話にもどる。
記憶の憶は心に意であり、
記憶とはそのしるしです。
これが人の言葉の始まり。
始まりの言葉に嘘はなく、
それは実に思いそのもの。
嘘とは心の構えのことで、
それが事実でないのに事実だと言うこと、
それを事実だと信じてるなら嘘ではない。
それを踏まえて思う。
歴史に嘘があれば世界は壊れるしかない。
過去の記憶を身にまとい未来を輝かせる、
それが今の今で、その今を生きるのが命。
それが壊れる。
当然でしょう。
ゆえ歴史を取り戻しましょう。
嘘のない歴史を。
事実だとか正義だとか言うレッテルはどうでもいい、
そこに嘘がなければ。
思いに嘘がなければ。
でも勿論事実の確認は大切である。
それは思いの始まるところだから。
人間は言葉の生き物、
言葉に始まり、言葉にかえる。
ゆえ私はリベラルを嫌う。
彼ら彼女らは、
歴史・伝統・文化を一顧だにせず、
こころのない意を振りまわすだけ。
何とかせねば、
と思うのだが、
それは今も変わりません。
ですが別の言い方もある。
それは、命の記憶である、と。
記憶を記録と言換えても、同じようには思える。
だがここでは記憶を取る。
憶は「心偏に意」であり、
録には心偏がなく無機質。
憶これはまさに命の発露。
命は事であり流れである。
それはゆえに歴でもある。
そこに史を付ければ歴史。
そうこと、
・・・・・
命は細胞ひとつから始まった。
それが多細胞になって種が現われる。
それを大きくとらえれば植物と動物の二つ。
その動物にも種がある。
人を考えるは念頭に哺乳類を。
もっとも人に近い命の種ゆえ。
その命の記憶はDNAにある。
それは細胞一つひとつにある。
最初に受精した一つの細胞が、
分裂を繰り返して増えていく。
そしてその種の體が造られる。
これは生命の発生から、その種の成立ちまでの、
すべての順を辿るとか。
これはまさにDNAが持つ記憶の発現そのもの。
この流れは一服の歴史である。
そしてついに誕生する。
ここまでは種に関わらず同じだろう。
もっぱらDNAに基づいて行われる。
勿論これ以降も関りは続くでしょう。
でもその後は少し距離を置くことに。
それは学びと教育が必要になるから。
そしてようやく種として完成される。
この学び(教育)は誕生後にしかできない。
これは體が持っている能力に基づくのだが、
それを本能というならそれがあってのこと。
しても生まれる前とは大きな違いが。
学びには同種の存在が基本的に必要。
つまり親兄弟らに育てられることが。
その関りの中で培われるものである。
そしてその生き方(文化)を身に付ける。
これはその種の誕生から今に至るまでをなぞるが如し。
これもまた一服の歴史である。
して見れば、
誕生までは生命進化の歴史を、
誕生後はそこにその種の歴史が乗る、
と言うことかと。
まあそう言うことだろう。
・・・・・
人類も哺乳類だからそこは同じです。
だがひとつ異なることがある。
それは言葉を持つこと。
しても、
ときには言葉を持っていない。
DNAは言葉を創らないのだ。
それはための部位を脳の中に用意するだけ。
ここに花がある。
秘すれば花、の花である。
(そうと言うしかないもの)
すべての生物には記憶がある。
でなければ己を維持できない。
それは存在の記憶です。
それは事場の記憶とも謂える。
それが全細胞(DNA)にあるが、
ときにその集約を脳に持つことも。
そのとき意識と謂うものが現れる。
とは言ってもそれは目に見えない。
それは行動に現れるが、それとは分かりません。
それを尚顕在化させるものがある。
それを呼ぶものを上で花と言った。
人にはそれが體に造られたのです。
その脳の中に。
ゆえ言葉が得られる。
それには学びが必要である。
ここに一つの例がある。
狼少年の話である。
理由は知らず生まれた直後に捨てられたか、
しても運よく生き延びた少年がいた。
彼は狼に育てられたのである。
それがその後人間界に戻ったのだが、
人間の様にはなれなかった。
終生狼として生きたのです。
體だけでは無理なのである。
ときを狼として生きたから。
言葉を持てなかったのです。
それはDNAだけでは不足。
誕生後はそこに加えねばなりません。
それは人類誕生以降の記憶であると。
これは生身の人間が伝えるしかない。
それを歴史という。
付け加えて詳らかに言えば、
神話と歴史または歴史・伝統・文化と謂う。
それは言葉で出来ている。
それは言葉である。
・・・・・
いま世界が壊れているのはまさにここに。
冒頭の話にもどる。
記憶の憶は心に意であり、
記憶とはそのしるしです。
これが人の言葉の始まり。
始まりの言葉に嘘はなく、
それは実に思いそのもの。
嘘とは心の構えのことで、
それが事実でないのに事実だと言うこと、
それを事実だと信じてるなら嘘ではない。
それを踏まえて思う。
歴史に嘘があれば世界は壊れるしかない。
過去の記憶を身にまとい未来を輝かせる、
それが今の今で、その今を生きるのが命。
それが壊れる。
当然でしょう。
ゆえ歴史を取り戻しましょう。
嘘のない歴史を。
事実だとか正義だとか言うレッテルはどうでもいい、
そこに嘘がなければ。
思いに嘘がなければ。
でも勿論事実の確認は大切である。
それは思いの始まるところだから。
人間は言葉の生き物、
言葉に始まり、言葉にかえる。
ゆえ私はリベラルを嫌う。
彼ら彼女らは、
歴史・伝統・文化を一顧だにせず、
こころのない意を振りまわすだけ。
何とかせねば、
と思うのだが、