ことのは

初めに言葉があった。言葉は神とともにあった。言葉は神であった。と、ヨハネは言う。まことに、言葉とは不可思議なものである。

怪走電気自動車

2021-12-27 08:46:25 | 日記・エッセイ・コラム
先に本田技研が舵を切った。
今回トヨタ自動車が本格的に取り組むと言う。
電気自動車のことである。
それでもトヨタを含め全方位ではあろうが。
これはそも自動車の問題ではない。
地球温暖化の問題である。
根っこには大嘘があるのだが、
だからこそどうにもならない。
話せば分かるという状態ではないのだ。
この圧力は半端ではない。
部外者の私も感じるほど。
地球温暖化が嘘だと言ってる訳ではない。
地球は温暖化も寒冷化も繰り返している。
今までもそしてこれからも。
存在するものは互いに影響を与え、
まったくの無関係で無いのは当然。
だから人も影響を与えてるだろう。
とはいえ、
その影響は有って無きが如し。
・・・・・
電気自動車の肝はモーターとバッテリーである。
モーターは既に解決されている。
問題はバッテリーである。
ここには根本的な無理がある。
と思っている。
確かに今ある乾電池や蓄電池は有効です。
大いに利用している。
それは小さいからであって、
だからこそそのエネルギーを扱えるのだ。
自動車になるとそれが大きくなる。
だから難しい。
もっと大きくなればこれは無理だろう。
根本的には無理だろうと。
エネルギーとは「こと」なのだ。
存在するものは「もの」であり、
「もの」は常に変化している。
その変化の様を「こと」と謂う。
その変化の様には、
静的変化(形質)と動的変化(運動)がある。
でもそれは人間の目から見ての話であり、
本質的には変わらない。
分子原子の中では粒子などが激しく動いてる。
エネルギーとはその「こと」なのだ。
なお、さりながら、だからこそ、
存在するものは「もの」としても、
「もの」と「こと」は一体であり、
「ものごと」と謂うべきである。
で初めに戻って考えれば、
モーターは「もの」でバッテリーは「こと」、
と言うことができる。
確かにモーターは物である。
でもバッテリーも物である。
物であるバッテリーがまんま「こと」を兼ねる。
難しいのは故である。
・・・・・
人間の人間たる所以は言葉にある。
それがすべてだが、
それこそが人間に「こと」の利用を促してきた。
そして今がある。
その利用の端緒は火だろうか。
技術という面から見て分かりやすいのは、
水車や風車であろう。
これは分かりやすい。
水車は水の流れをエネルギーとする。
風車は風の流れをエネルギーとする。
水は堰き止めれば貯められる。
ダムを造ればより強い流れが得られるのだ。
まあ水はそれ自体が貴重なものだが。
だからそれを造ってきた。
風はどうだろう。
これは貯められそうにない。
文字通り風まかせだ。
思えば蓄電池はダムに似てる。
ダムと言えば、
昨今話題になってたのが三峡ダムである。
大雨による洪水が心配された。
小さいダムには決壊もあったようだが、
三峡ダムはなんとか持ちこたえた。
でも大きすぎるのは問題である。
そも維持・管理が難しい。
それに壊れた時を思えば。
その被害は想像を絶する。
そうなればシナが大国だと雖もたぶん持たない。
政権は確実に崩壊するだろう。
聞けばアメリカはそのダムに照準を合わせてるとか。
先制攻撃で潰せば勝負あり、てか。
それはさておき、
バッテリーが難しいとは先に言ったが、
それは大きくすればするほどにである。
ちなみにちなみに、
再生可能エネルギーの難しさも同様である。
ニッチ(随時かつ少量)には大変有効だが。
・・・・・
だから電車は素晴らしい。
「こと」を「もの」にして利用せず、
「こと」を「こと」として利用する、
 流れるままに。
そこが電気自動車とは違う。
でも自動車ぐらいなら何とかなるかも。
だからトヨタ自動車も舵を切ったのか。
本田技研もそうだが、
ともに世の圧力と技術の壁を越えてほしい。
そう思っている。
その素地はある。
何と言っても日本は物作りの国である。
職人の国であり、
心魂の国である。
底力に期待!

閑話休題

2021-12-20 09:57:15 | 日記・エッセイ・コラム
いつもの通り何気なく、
YouTube を見ていたら、
興味深い話が出ていた。
日本ではなぜか韓国製品が売れないと。
確かにそのようである。
自動車がその代表だが、
家電などもそうだろう。
その他でも余り見かけない。
知らないだけかもだが。
一時はスマホが大いに売れていたが、
今も売れてはいるようだが、
韓国製とかサムスン製とかは隠している。
商品名だけで国籍不明状態である。
ちなみに中国製も余りかわらない。
衣料品や雑貨等は溢れてるが、
ブランドとしては見ない。
・・・・・
実に私がそうである。
でも私だけではないようだ。
だからの結果であろう。
理由は分かる。
それは文化である。
生き方の総体としての文化である。
お互いを信用し、助け合いを旨として生きてきた。
あの東日本大震災時の状況を見ても明らか。
それは普段でも基本的に変わらない。
その中に物作りや商いもある。
良いものを作る、そしてそれを売る。
その中で儲けが発生する。
でなけりゃ詐欺師と変わらない。
江戸時代の商人道もそれである。
売り手良し買い手良し世間良し。
なお悪人もときにはいる。
ここではそれは除いてる。
そういう文化である。
そういう文化であることに最近まで気づかなかった。
日本人にとっては日本が世界だったから。
でも世界を知ってしまった。
でも中韓を知ってしまった。
そういうことです。
それが今の日本である。
その中心に皇室があり陛下がおられる。
その上(天)に天皇がおられる。
その中で互いを尊重して生きる。
それが人の道であり、
人の道は神の道から来ており、
神の道を倣いとする。
そういう生き方です。
それを支えているのが天皇陛下の祈りです。
祈りに満ちた国それが日本(やまと)です。
・・・・・
水と油とはこのこと。
中華思想を旨とし、
自分中心で他を顧みない。
そんな生き方をせずにはおられない。
それが今の中国であり韓国である。
彼の国にも良き人はいるだろう。
むしろその方が本流であろう。
でも朱に交われば赤くなる。
生き方の総体としての文化からは逃れられない。
そこで生きるより他ないのです。
所謂悪人は多くはなくとも、
生き方の総体からは免れる筈もなく、
「まこと」の良き人ほど苦しくなる。
そんな社会を作ってしまった。
しかもそれに気づかない。
文化の文化たる所以。
そのしるし(印・徴・験)が顕著なのは、
祈りが無いことである。
まったく無いとは思えないが、
私の知る限りでは見えない。
シナは共産党を看板とし、そも否定している。
韓国には宗教はあるのだが、
私が言うのは宗教ではなく祈りである。
教というプロパガンダではなく、
存在への畏敬である祈りなのだ。
彼らには他国・他者への敬意が感じられない。
昨今の政治問題はそれが因である。
現状を見れば明らか。
諄いようだがそれが中華思想なのだ。
日本人(庶民)はそれを知ったのだ。
だからの現下の状況。
当然の帰結か。
・・・・・
ちなみに、
ここで表題の閑話休題。
今言ったことは前から言っている。
繰り返し言っていることです。
現下の私の思いのひとつ。
誹謗中傷等ではない。
ところで私はツイートをしていた。
それが凍結されてしまったのです。
なにが癇に障ったのか?
よく分からないが、
ひとつ、
韓国人には「まこと」がない、
と言ったことらしい。
まあ仕方ない。
それにしても、
あのトランプ大統領も凍結されたのだ、
一国の大統領なのに。
ときに同じ扱いを受けたとは
まことに光栄なことではある。
良しとしよう。
うん!

2021-12-13 07:03:16 | 日記・エッセイ・コラム
前回「念と占」について記したが、
占とは念を持ってしまったが故に、
未来に向き合うには必要不可欠となったもの。
その占とは、
目の前の現象や兆候に対して、
その大元である宇宙の根源的な力にこれを問い、
今後の成り行きや吉凶を予知するものである。
占とは大和言葉で「うらない」と言うが、
これは非科学的とか迷信とかではなく、
むしろ人間存在の核心にあるのです。
・・・・・
ちなみに宇宙の根源的な力を、
その力の大元を日本では神と謂っている。
他の国でも言い方はそれぞれだが、
同様の言葉はあります。
その経緯で言えば神は在るのです。
信じるとか信じないの話ではない。
神は在るのです。
勿論信じないと言う人を否定する気はない。
そこは自由です。
念を持たない生物は、
てか、持続する念を持たないというか、
てか、変化する念しか持たないというか、
そんな生物は、
まんま神の手の中で生きている。
そこからハミ出ることはない。
その場を聖書は楽園という。
でも人間はハミ出てしまった。
だから成り行きを知ろうとする。
それはどうしても気になるからで、
良きにつけ悪しきにつけ。
定まればともかくも心魂が鎮まるのです。
占とはその所作のこと。
でも結果が悪しき場合はどうだろう。
それでも鎮魂になるのか。
それはなるのです。
だから吉が出るまで占い続けるとか、
だから凶の避け方を占うとか、
また凶の先には必ず吉があると思うのも一興。
ともかくも未来に向き合える。
ゆえに鎮魂はなる。
にしても分からぬことを知るとは有り得ない。
当たるも八卦当たらぬも八卦なのです。
つまり見えたことにするのです。
たわいないことならそれでOK。
大ごとならそうはいかない。
命を懸けることになるから、
それもときには多くの命を。
これは一筋縄ではいかない。
だからどうしても頼ることになる。
占の根っこにある神に。
人の意思で決めたのではなく、
神の意思で決められたのだと。
それをとことん信じる。
そして信じて疑わない。
為に祈るのです、
為に祈り続けるのです。
それしかない。
人はそうして生きてきた。
そして今がある。
・・・・・
今や占は迷信等と伴に否定されている。
気休めやお遊びとしては残っているが。
これが大間違いなのだ。
思えば未来が白紙なのは今も変わりません。
人間にとってはですが。
宇宙はその限りでない。
千年後万年後の星の位置は決まっている。
計算すればその位置関係は特定できる。
現代過去未来を包含した絶対的大枠、
そこでは神の意思は決まっている。
人のように短期に存するものは、
どうも白紙のままのようです。
それは昔もそして当然今も。
政治はまさにそこにある。
だから予め定めておき、
その中で人を動かす。
力による独裁も話し合いによる民主も、
ともかくも定めるから動けるのです。
矛盾するようだがそれが現実です。
これは占いそのものではないが、
形を変えた占いの在り方です。
即ち「まつりごと」である。
科学もその類です。
それは自然科学である。
これは自然現象を解き明かすもの。
聖書では神の言葉によって創られるもの、
それが自然の現象です。
それを解き明かすとはまさに神の声を聴くこと。
だから私は科学者を現代の預言者だと謂う。
ただし本物だけだ。
現今はどうもそこが怪しげである。
なぜか偽預言者がもてはやされる。
胡散の臭いが芬々。
・・・・・
例えばこのコロワク騒動に、
例えば気候変動とか脱炭素とかに、
すべからく関与している、
偽預言者らが。
こんなにも地球や宇宙を股にかけた与太話を、
臆面もなく堂々と言えるのです、
参ってしまいます。
でも時が必ず正体を暴くだろう。
それもそれほど時を置かず。
それはさておき、本当の預言者は、
分からないものは分からないとし、
どこまでも現実に寄り添う、
金銭や名誉に拘らず。
このご時世では超希少価値か。
それでも間違いなくいる、
見えないところには。
それを信じてる。

念と占

2021-12-06 10:01:58 | 日記・エッセイ・コラム
松本清張の小説「点と線」ではない。
「念と占」である。
ちょっと似ている。
内容は無関係なのだが、
でも少しはかすってる、
かな?
・・・・・
言葉の話である。
言葉には音韻と記号がある。
元よりその本貫は音である。
それも単なる音ではなく声である。
全細胞が現実に感応して声として発する。
でも声は長くは留まらない。
それを留めたく記号が作られる。
それを文字という。
本貫が音だから音を写せばいい。
それが当然に主流となっている。
それとは別に実を伝える方途に絵がある。
でもそも音の方が命には響く。
臨終のとき最後まで届いてるのは音である。
絵は生きていてこそ。
それに目を開いていなければ届かない。
実に制約があるのだ。
でも音は24時間一時も塞くことがない。
そこが違うのである。
それにである。
耳の悪い人もいるが、音は響きであるから、
微妙な聞き分けはできなくとも届いている。
身体には届いているのだ。
言葉が音(声)なのも必然なのだ。
そう謂うことだと。
・・・・・
それにしても、
絵から始まる文字(言葉)も必然か。
現実を伝えるにはやはり便利なのだ。
世界には絵文字もいろいろあっただろうが、
今に残っているのは漢字である。
なかなかに面白くも有用なのだ。
シナが発祥だと言われる。
まあそうだろう。
でも大きく育てたのは日本人だろうか。
少なくともシナ人は捨てた、のも同然。
簡体字を見ればそう思わざるを得ない。
余りにも思い入れがなさ過ぎる。
今や日本こそ漢字の国かも。
その証の一つが書道である。
字を芸術として嗜み楽しむ。
それに漢字の元になったとも言われる卜占、
その卜占を今も密かにやっているとも聞く。
さらにである。
近代欧米の概念を漢字に置き換えたのは日本です。
そのお陰で国語でそれらを捉えられるのだ。
その恩恵はシナも大いに受けている。
漢字の国だから当然でしょう。
それが現実です。
にしても彼らには感謝がない。
謝々はどこへ行った。
茂木さんには有ったようだが。
・・・・・
漢字は元々は絵であったという。
絵で意を伝えていたと。
それが音韻である言葉と重なる。
そして絵文字となる。
でも文字は元来が記号です。
結局簡略化されて「点と線」(の組合せ)になる。
それが偏や旁として定着する。
その組合せで文字になるのですが、
組合せを替えれば別の文字となる。
そこに創り手の思いが反映される。
文字の一つひとつに思想があるのです。
更に文字を連ねてそこに深みを入れる。
面白い。
そこには記号を越えた識が現れる。
なおこの「点と線」は小説とは関係ない。
たまたまの語呂合わせです。
ちなみに日本語は実に驚くべき言語です。
基本語彙はそれほど多くはないが、
同じ音で多くの意を伝える、
それも一音一意です。
それを可能にするのが語尾の変化だが、
なにより「てにをは」の存在です。
それらを駆使するのだ。
さらに書き言葉がまた凄い。
表音文字と表意文字を併用して表現する。
だから文字の数が半端なく多い。
漢字かなカナ数字アルファベット他ときに梵字までも。
SNSで使われる絵文字もそうです。
もう際限がない。
そして実際に話すときは、
たぶん脳内では絵的な視覚野も使ってる。
日本語ならではの芸当です。
そう思っている。
・・・・・
本題「念と占」について。
念とは「今」の「心」である。
さりながら今は即ち過去、常に置き去りにされる。
でも生き物(特に動物)は未来に向かうもの。
今つまり念に囚われていては向かえない。
未来はいつも白紙なのだから。
ゆえ他の生き物は今しかなく、
念を持たないのだ。
そしてもっぱらに今を生きる。
過去と未来を包含した野太い今をです。
野太い今をです。
だが人は念を持ってしまった。
だから動きにくいのです。
そこで「占」が必要となった。
即ち未来を仮に設定する。
それが占です。
今もそれは変わらない。
言い方を変えてるだけ、
予定や予測とか言って。
それを知ろう。