ことのは

初めに言葉があった。言葉は神とともにあった。言葉は神であった。と、ヨハネは言う。まことに、言葉とは不可思議なものである。

いよいよか

2022-02-28 08:33:56 | 日記・エッセイ・コラム
物とか事とかと言って、
遊んでる場合ではない。
大変なことが起こった。
きな臭くなってきたとは思ったが、
さすがにドンパチはないだろうと。
その期待ははずれた。
始まってしまったのだ、
戦争が。
どこで治まるのか。
さらに飛び火するのか。
世界をまたぐ大きな花火にならなければいいが。
それにしても、
ウクライナの人々は気の毒だ、
何とかせねば。
・・・・・
私にはバイデンが呼び込んだとしか思えない。
そもリベラルは信用できない。
平和を叫ぶのは熱心だが、
それも平和な時だけ。
いざ雲行きが怪しくなればダンマリ
結局何もできないのだ。
それに敵が攻めてきても、
一緒に酒でも飲めば何とかなるとか、
それでもダメなら逃げたらいいとか、
てか一体どこへ逃げるつもりなのか。
これはどこかの国の人間の戯言だが、
世界もまた大して変わらない。
国連という立派な建付けはあっても、
中身は張子の虎。
なお中身であって中国ではない、
念のため。
それに五大国という嘘、
さらにそこに拒否権を設定、
つまり戦勝国の仲良しクラブで、
そこで諍いが起きれば、
もう何もできない。
他の国は寄り集まって愚痴をこぼすのみ、
只のガス抜き場なのだ。
こんなこと、
先刻承知だろう。
・・・・・
たらればは無いのだが、
つい愚痴が出てしまう。
トランプ大統領なら軍を動かしていただろう。
アメリカの力が多少落ちてはいても。
勿論戦争をするためではない。
戦争を避けるためです。
そう思うのです。
それがアメリカの利益であり、
それがアメリカファーストだから。
ちなみに習近平は張子の虎だ。
それに眠れる獅子でもある。
虎と獅子が合体、もう最強である。
おまけにプーさん(熊)なのだ。
もう笑うしかない。
それにリベラルの上をいく超リベラルである。
中華思想と共産主義が合体してのだ。
虚言では太刀打ちできない。
断固としてほっとけばいい。
怖いのはプーチンである。
彼は旧ソ連を志向しているようだが、
現実主義者である。
だから相手がトランプなら、
自制していたかも知れない。
しかし今はバイデンである。
それに現下アメリカは弱っている。
もうガタガタである。
だから動いたと。
ロシアは領土に対するこだわりが強い。
それが根底にあるとはいえ、
それだけで侵略したとは思えない。
親露派政権がほしかったのか。
ウクライナが欧米に付くのを嫌ってる。
徹底的に嫌っている。
にしては今回の件はむしろ逆効果だが。
プーチンはそれをあきらめたか。
だからの侵略なのか。
相当準備もしていたようだし。
と思うのだが、
だから怖いのである。
良し悪しは別にしてそこに覚悟が見える。
簡単に治まりそうにない。
非常に心配である。
・・・・・
もう一つ心配がある。
戦争を望んでる輩がいることです。
先の大戦も仕組まれていたとしか思えない。
仕組まれた事実は現にある。
盧溝橋事件がそうである。
真珠湾攻撃もその匂いがする。
どちらも嵌められたのである。
それも日本だけではない。
国民党もアメリカ軍もだ。
今回は今のところそういう勢力は見えない。
あくまでプーチンの戦略だ。
でもこれからどうなるかは予断を許さない。
そこが心配である。
これ以上の大きな花火にならなければいいが。
それを願うだけ。
それにしても、
プーさんはお笑いだが
プーチンは怖い。
切れたのはそうかも知れないが、
芯は冷徹である。
さりながら、
これで戦後体制が終わるかも。
トランプ大統領が開けた小さな穴に、
プーチンが大きなひびを入れたのだ。
幕は上がってしまった。
・・・・・
ちなみにこれで、
リベラルの言辞が遊びだと明白になった。
それも質の悪い遊びだと。
曰く、
地球温暖化に脱炭素、ウイルスにワクチン、
男女同権に男女共同参画それにLGBTとか…。
これらは皆脳内の妄想に過ぎない。
現実を前にしたらすべて吹っ飛ぶ。
現実がすべてなのだ。
言うのもバカバカしいが。
だから現実に帰ろう。
それしかないと。
どちらにしても最後は、
人類(国民)の覚醒しかない、
言葉を取り戻すための。

奇妙・不可思議

2022-02-21 09:57:08 | 日記・エッセイ・コラム
「もの」と「こと」は一体であり、
「もの」なければ「こと」もなし。
無の世界に「こと」はない。
有であっても変化がなければまた同じ。
言葉ではどうとでも言えるが、
現実は見ての通りで、
「もの」があり、
すべての「もの」は繋がっており、
すべての「もの」は変化している。
そこには「こと」がある。
あらゆる「こと」がある。
・・・・・
ここに妙がある。
ここに不可思議がある。
言葉である。
言葉はすぐれて「こと」である。
それは「もの」から離れた「こと」である。
「こと」単独で存在する。かの如し。
これが妙である。
これが不可思議である。
とはいえ厳密に言えばやはり「もの」と伴にある。
その初めには「もの」がある。
言葉はそも音である。
人の口から出る音(声)である。
そこに思いが乗る。
音には空気が必要です。
空気(の振動)がそれを伝えるから。
だから「もの」と伴にある。
だがいづれからか、
音がなくても存在する。
文字がそのひとつ。
それはそうだが、
文字もあきらかに「もの」を必要とする。
それを留める紙などが必要なのだ。
だからこれも「もの」と伴にある。
思念ならどうか。
これは「もの」から離れてるようだ。
でもやはりダメだ。
脳(を含む身体)が必要である。
と言うことで結局堂々巡り。
それにしても、
「もの」から離れてるように見える。
本当に離れてるのか。
離れてるとすればどこに有るのか。
それは何なのか。
ここに妙がある。
・・・・・
言葉は「もの」ではない。
だから当然「もの」としては存在しない。
上記のように在るのは媒体だけ。
媒体とともに有るのみ。
想えば「もの」には「今」しかない。
それが「もの」の世界である。
だがそれは常に動いている。
言葉はその今を記憶(記録)として残す。
ときに「とき(時)」が創られた。
現代過去未来の登場である。
これは計り(尺度)となる。
人間の最大の発明品である。
これで「こと」が捉えられるようになった。
これが人類の始まりと言ってもよい。
ときに始まりの様が語られる。
物語の登場である、
それが神話。
神話とは如何なるものか。
言うまでもないが人間の原点である。
科学など目ではない。
それにしてもだ、
今まで何度も言ってきたが、
言葉を持った経緯が分からない、
人類(の始まり)としても、
個人(の始まり)としても。
そのうえ言葉は空気のようなもので、
当たり前のようにあって、
その実がよく分からない。
にしても言葉は人を縛る。
それも恐ろしいほどにだ。
しかもそれに気付かない。
ものすごく有用だが同時に猛毒なのである。
毒と薬は同じものだが、
言葉はまさにそれ。
・・・・・
その言葉を人間は持ったのだ。
聖書は初めにその経緯を記す。
人間が禁忌を犯したゆえだと、
だから楽園を追われたと。
物語として象徴的に記しているのだ。
ちなみにその前に、
「こと」の力の基は神の言葉だと、
大前提として神を想定する。
想定と言ったがそれを疑う理由はない。
現に実があって「こと」がある。
そこに基としての力があるのは当然。
それは否定できない。
それを神の力としてもおかしくない。
よって神も否定できない。
信じなくてもいいが、
否定もできないのだ。
そういうこと。
そこで神の言葉と人の言葉の違い、
それはあきらか。
神の言葉は力そのものであり、
「こと」の本源の力である。
人の言葉はそれを知るもの、
知ればその後追いができる、
つまりはなぞっているだけ。
実は何も創らない。
ただ知ることによって再現はできる。
そしてそこに少しは手を加えられる。
ということなのだが、
でもそれが人の力である。
・・・・・
にしても、
今世界は毒が回っている。
それもものすごい勢いで。
典型的にはこのウイルス問題。
ウイルスは人類登場以前から存在する。
もとより神の手の中にある自然物であって、
存在するものはそも共生しており、
ときにその境界で軋轢はあっても。
このこと私は疑わない。
それを人は言葉の力(技術)で弄んだ。
そしてそれが流出した。
そういうことだろうと。
でもそれは人間が創ったものではない、
そもウイルスを創ることなどできない、
結局は自然物なのだ。
それを知ろう。
だから恐れる必要はない。
むしろ怖いのはワクチンである。
どうも従来のものとは相当違うらしい。
自然から離れて弄んだ挙句の、
怪しくも得体の知れないもの。
だから怒っている。
それも怒り心頭だ。
それにしても、
すべては言葉の問題であり、
言葉の毒である。
問題がないのに問題だと騒ぎ立て、
それを理由に問題を創り出す。
もう処置なしである。
私には如何ともし難い。
さなれば最後は神頼み。
でも心配はしていない。
神は必ず成る。

「こと」わり

2022-02-14 09:11:09 | 日記・エッセイ・コラム
「ことわり」には「ことわり」たいものがある?
「理」には「断り」たいものがある、ということだが、
「ことわり」とは「こと」を「わる」ことである。
 つまり事を割るのである。
「こと」とは現象(すべて)である。
 それは神の口から出る言葉により成るのだが、
「こと」とは「もの」の変化の様であり、
 それはすべて繋がっている。
 もとは「ひとつ」なのだ。
 それを割るのである。
 それを知ると謂う。
 知るとは割った間の僅かな違いに着目して、
 心を現実に馴染ませる人間の技である。
 その道具が言葉である。
 神の言葉を真似て創ったもの。
 にしても断りたいとは。
 現実は神の理(ことわり)であり断れない。
 それを忘れて、
 現実を人の理(ことわり)で埋め尽くせば、
 現実を見失う。
 それを断りたいのです。
 うん!
・・・・・
禅問答ではある。
禅問答はなかなかに良い。
現実を否定しない。
現実と伴にある。
言葉過多言葉過信の欧米人らはそれが分からない。
だからつまづく。
言葉につまずくのだ。
今そんな世界が広がってる。
典型的な言葉が「平等」である。
平等はもともと在るもの。
存在の平等に疑問の余地はない。
生き物であってもだ。
生き物は生まれる前にいた場所に必ず帰る。
そこに違いはない。
完膚なきまでの平等なのだ。
さりながら生まれる時や場所などは異なる。
だから違いは避けられない。
しかも一つとして同じものはない。
皆それぞれなのだ。
その違いこそ貴方であり、
その違いこそ私である。
それを否定すれば、
そのとき貴方は消える。
その存在が消える。
今「ジェンダーフリー」とか言って、
違いを否定して世を惑わす者がいる。
バカな話だ。
違いを否定すれば、
貴方も私も消える、
しかない。

犬に生まれれば犬を生き、
猫に生まれれば猫を生きる。
男に生まれれば男を生き、
女に生まれれば女を生きる、
身が男で心が女ならばそれを生きる、
貴方は貴方、
私は私、
そして貴方も私も在る。
・・・・・
日本は「こと」を知る。
だから「こと」を祀る。
「もの」と「こと」は一体だが、
なぜか「こと」を祀る。
「もの」はむしろその依代とする。
にしても祀っているのは、
単に「こと」というのではない。
その奥にある基としての力であろう。
ときに神道は神ではなく人を祀っていると。
例えば天満宮。
そこには菅原道真が祀られている。
だからそう言えなくもない。
でもそこに遺体はない。
墓ではないのだ。
祀っているのは物ではなく事なのだ。
道真という「もの」の変化の様(生きた様)であり、
それはまさに「こと」である。
それは心魂と言ってもいいが、
心魂とは「こと」ではあるが、
むしろ「こと」の本源である。
ここに妙がある。
本源とは、
神の口から出る言葉であり、
それが「こと」の本意なら、
結局は神を祀っているのだ。
・・・・・
思えば欧米らの一神教には闇がある。
彼らは神はすべてだと言いながら、
神を人の言葉の中に閉じ込める。
聖書(出エジプト記)の中で、
モーセは荒野を彷徨っているとき、
神に会合し神から言葉を預かった。
ときに神に名を問うた、
神は応えた「我は在りて在るもの」だと。
これはつまり、神はすべてだと、
存在(ものごと)のすべてだと。
なのにである。
彼ら一神教徒らは、
自分も含めてすべてが神的な存在なのに、
自分の外に神を置くのだ。
これが神を閉じ込めるとの意で、
ときに自分の居場所が見えなくなる。
そして闇を彷徨い神をも超えようとする。
彼の世界では、
そういう闇が広がっている。
厄介なこと限りなし。

黒い嘘

2022-02-07 09:27:14 | 日記・エッセイ・コラム
御身黒ん、
尾身クローン、
何のことかと言えば一目瞭然。
ここに嘘が固まっている。
黒と言えば脱炭素もそうですが、
その象徴として石炭がやり玉に上がっている。
昔は黒いダイヤとも言われたのに。
これは下手に燃やしたら公害にもなる。
そこは少しは納得。
でもその後は嘘の固まり。
とうことで、
やっぱり黒い嘘。
・・・・・
少なくとも百年単位で眺めれば、
嘘は確実にばれる。
それがともに魔女裁判だったと。
科学はそれほど柔ではない。
科学は現実を解き明かすもので、
現実からは決して離れない。
現実に背くことはできないのだ。
ときに解き明かすとは言葉にすること、
つまり人の言葉に換えること。
勿論人に伝える為。
その点では科学者は預言者と言える。
神から言葉(現実)を預かり、それを人に伝えるという。
まさに現代の預言者なのだ。
私はそう思っている。
勿論本物の科学者だけだが。
だが今の今科学者は沈黙している。
言葉を封じられているのだ。
本物の科学者は…。
そして似非専門家がはびこっている。
これは、
たびたび言うようだが、
イエスがオリブ山にいるとき、
弟子たちに問われて語ったこと、
終わりの時には何が起こるのですかとの、
その中での一つ、
それを簡明に言えば、
多くの者が私を名を騙り人々を惑わす、
そして不法が蔓延り人々の愛が冷える、
と。
まさにそのことか。
ちなみに、
イエスは人であり神であるが、
また預言者でもあった。
なお、
私はクリスチャンではない、
自称ですが神道の者です。
・・・・・
もう一年以上前のことだが、
某大国の大統領選挙で、
バイデン氏当選確実の文字が躍っていたが、
今にして思えば、
初めから当選確実に決まっていたのだろう。
それはさておき、
トランプ氏が当選していたら、
世界は今とはガラリと変わっていたろう。
コロナは只の風邪それに有炭素の世界に。
今の状況から思えば考えられないことだ。
だからこそ初めから決まっていたと。
嘘を通すためには嘘が必要なのだ。
まあそう言うことかと。
でも今更の愚痴は止めよう。
これも現実だから。
魔女裁判と言えばグレタちゃんだが、
見た目にはグレタちゃんが魔女なのかと。
逆ですよね。
グレタちゃんこそ魔女殺し側にいる。
本当は魔女なんていないのに、
濡れ衣をかぶせて生贄にする。
そんなことが起こっていたのだが、
当時は本気だったんでしょうかね、
よく分からんが。
今回濡れ衣を着せられているのは、
人ではなくウイルスと炭素ですが。
とは言え結局その先には人がいる。
「まこと」を語る人がいる。
「まこと」がそんなに邪魔なのか。
「まこと」に生きれば楽なのに。
思えば、
グレタちゃんは悪い役回りを引き受けたもんだ、
可哀そうに。
でもグレタちゃんに責任はない。
周りの大人がいけない、
と言うことかと。
・・・・・
嘘は怖いのです。
最初に嘘を付けば次ぎ次ぎと嘘を重ねることになる。
それは破滅するまで続くのです。
だからこそ終わりの時なのです。
でも嘘と方便や仮想とは違う。
そも人には真はつかめない。
現象(現実)が神の言葉の顕現だと思うも、
或いはそうは思わなくとも、
現実は現実だ。
目の前に茫洋としてあるが、
奥行きも内実も実に分からない。
虫たちのように「まんま」の世界を、
「まんま」に生きるなら知る必要もない。
でも人間は言葉を持ってしまった。
だから知ろうとする。
でも知ることはできない。
少しは分かったような気になれるだけ。
だから言うのです。
人の言葉は方便であり仮想であると。
それを心得ていれば、それを嘘とは言わない。
そのことを覚悟せよと。
それだけのこと。
それだけ。