これは映画の題名である。
まだ公開されてはいない。
時々暇に任せて映画に行くのだが、
その時、予告編で見たのだ。
舞台は日本なのだが、監督は欧米人のようだ。
ともかく本編を見るつもりはない。
私には合わない。
・・・・・
欧米人の発想にはいまいち馴染めない。
言葉過多で理屈っぽいところが、どうも…。
この映画の筋書きはよく知らないのだが、
沈黙とはどうも神の沈黙らしい。
命を懸けての信仰であるのに、
神は何も答えて下さらないと。
それだけの単純な筋ではないだろうが、
発想そのものが馴染めない。
聖書にもあるが神は時々人を試す。
極めつけは怒りで人を滅ぼす。
その聖書にヨブ記という編がある。
そこに出てくるヨブは信仰の人である。
ありとあらゆる災いに合いながらも神への信仰を捨てない。
恨んでもおかしくない程のことなのに。
それが本当の信仰だと、聖書は言ってるのだろう。
ならばである。
神の沈黙を嘆くとは…。
こんなに信仰してるのに何も答えて下さらない、と。
まことに畏れ多いことだ。
これはつまり人が神を試すことになる、はたまた疑うことになる。
信仰とは真逆のことだ。
本当の信仰は神を試さない、疑わない。
たとえ棄教することになってもだ。
その時もし神が現れれば、何も言わずただ立てばいい。
素の魂で。
それでいいと思うのだが。
・・・・・
この映画の原作は日本人である。
日本では数少ないクリスチャンである遠藤周作氏である。
だからか発想が欧米的なのは。
もうすでに故人ではある。
あの世で思いの胆を聞いてみたいものだ。
それにしても矛盾だ。
イエスは人類のすべての罪を背負って生贄となられた。
その時、人類は救われている。
なのに一々個々に救いを求めるのは、
ダブルブッキングではないのか。
私はクリスチャンではないのでよく分からない。
勿論祈るのは自由だ。
祈りは神との繋がりを確認する手段であり、
それはそれを通して自らを救うことである。
祈りは神への要求ではない。
だから思う。
人のことは人で決着を付けよう。
そういうことだ。
まだ公開されてはいない。
時々暇に任せて映画に行くのだが、
その時、予告編で見たのだ。
舞台は日本なのだが、監督は欧米人のようだ。
ともかく本編を見るつもりはない。
私には合わない。
・・・・・
欧米人の発想にはいまいち馴染めない。
言葉過多で理屈っぽいところが、どうも…。
この映画の筋書きはよく知らないのだが、
沈黙とはどうも神の沈黙らしい。
命を懸けての信仰であるのに、
神は何も答えて下さらないと。
それだけの単純な筋ではないだろうが、
発想そのものが馴染めない。
聖書にもあるが神は時々人を試す。
極めつけは怒りで人を滅ぼす。
その聖書にヨブ記という編がある。
そこに出てくるヨブは信仰の人である。
ありとあらゆる災いに合いながらも神への信仰を捨てない。
恨んでもおかしくない程のことなのに。
それが本当の信仰だと、聖書は言ってるのだろう。
ならばである。
神の沈黙を嘆くとは…。
こんなに信仰してるのに何も答えて下さらない、と。
まことに畏れ多いことだ。
これはつまり人が神を試すことになる、はたまた疑うことになる。
信仰とは真逆のことだ。
本当の信仰は神を試さない、疑わない。
たとえ棄教することになってもだ。
その時もし神が現れれば、何も言わずただ立てばいい。
素の魂で。
それでいいと思うのだが。
・・・・・
この映画の原作は日本人である。
日本では数少ないクリスチャンである遠藤周作氏である。
だからか発想が欧米的なのは。
もうすでに故人ではある。
あの世で思いの胆を聞いてみたいものだ。
それにしても矛盾だ。
イエスは人類のすべての罪を背負って生贄となられた。
その時、人類は救われている。
なのに一々個々に救いを求めるのは、
ダブルブッキングではないのか。
私はクリスチャンではないのでよく分からない。
勿論祈るのは自由だ。
祈りは神との繋がりを確認する手段であり、
それはそれを通して自らを救うことである。
祈りは神への要求ではない。
だから思う。
人のことは人で決着を付けよう。
そういうことだ。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます