ことのは

初めに言葉があった。言葉は神とともにあった。言葉は神であった。と、ヨハネは言う。まことに、言葉とは不可思議なものである。

民進党のゴタゴタ

2016-09-26 17:39:26 | 日記・エッセイ・コラム
代表選びから党役員決定、
そして今に至るまでの民進党を見ていると、
これは前途多難と言わざるを得ない。
・・・・・
代表選挙で蓮舫氏が選ばれたのだが、
二重国籍問題等でゴタゴタしていた。
蓮舫氏は日本生まれで日本語を母語としているので、
紛れもなく日本人である。
と思うのだが、この問題での説明や過去の発言を見るとちょっと怪しい。
日本人としては妙に歯切れのいい発言をする。
それに万事上から目線である。
これはどう考えてもシナ人の文化である。
日本人特有の控えめなところがない。
当人も自分の核は台湾(というよりシナ)だと言っていた。
どうも胡散臭い匂いがする。
でも、それなりのやり方で選ばれたのである。
とやかく言っても仕方ない。
・・・・・
党役員で幹事長に野田佳彦氏が選ばれた。
選んだのはもちろん蓮舫代表である、表向きは。
野田氏はそもそも総理大臣の時、
負けると分かっていて解散・総選挙をした。
これもよく分からない。
本当に本人の決断だろうか。
それまでの民主党の外交は日本にとって最悪であった。
それを覆す力は民主党にはなかったと思う。
だからこそ解散したのか。
あえて自由民主党に政権を譲るために。
結果として自民党安倍政権ができた。
見ての通り、目を見張る外交を展開している。
外交においては大転換である。
それを望んでのことなら、これは野田氏の英断である。
私や党を越えた大英断である。
とても彼一人の技とは思えない。
なにか別の大きな力が働いたのか。
不可思議である。
・・・・・
蓮舫代表が幹事長にその野田氏を選んだ。
野田氏を選んだのは本当に蓮舫氏なのか。
これもどうも…である。
蓮舫氏も代表という役割を演じてるだけかも知れない。
そう思えば、
一連のゴタゴタも興味深い、
実に興味深い。
なお私は国籍の件は問題にしていない。
今の民進党は台湾の民進党日本支部と言われてもおかしくない状況だ。
なら、別に台湾籍でもよかったのに。
なおなお、
同じ民進党でも私は、
蓮舫氏よりも祭英文氏の方が好きだ、
文句なしに。

築地市場移転のゴタゴタ

2016-09-23 13:46:11 | 日記・エッセイ・コラム
なかなか終息しそうにない。
どうなってるのだろう。
小池知事のやり方は素晴らしい、と思っている。
具体的なことは余り知らないが。
まあ、野次馬である。
・・・・・
これまでは政治家がやり玉に上がっていた。
それは今後も変わらないだろう。
だが今回はどうも役人にも風当たりが強くなりそうだ。
東京都庁職員にである。
主に上級職員のことだろうが。
実際に事に当たるのは役人である。
決められたことをやるだけだと言っても、
それを責任をもってやる必要がある。
一つづつ着実に。
それを実践していれば、問われて説明できないことはないだろう。
でも、どうもはっきりと説明できないようだ。
そこが問題である。
その無責任体質が問題なのだ。
これは何も東京都庁だけに限らないが。
・・・・・
人は誰でも当事者として覚悟を持ってしたことは、
当然に責任を取る。
取らざるを得ないのである。
それが人間というものだ。
泥棒か詐欺師などなら別だが。
はなから悪意だから。
善意であるのに責任を取らないのには理由がある。
それは当事者としての覚悟がなかった、ということである。
それはそうだろう。
自分のしてないことに責任は取れない。
取りようもない。
してみると、役人というのは何もしてないのか。
だから責任を取らないのか。
もちろんそんなことはない。
災害時に救助・救援に当たる自衛隊・消防署などの人々は素晴らしい。
疑いの余地などない立派な仕事をしている。
彼らも役人(公務員)である。
どこが違うのか。
直接現場に携わるからか。
何事もやはり現場第一ということか。
現場を忘れてはダメだということか。
それはその通りだろう。
・・・・・
現場が大事なのは政治も同じである。
何しろ政治とは現場(人間社会)を仕切るのだから。
でも直接現場にタッチはしない。
あくまでも間接的にである。
なので現場をろくに知らない者もいるだろう。
むしろその方が多いかもしれない。
してみれば、政治家がやり玉に上げられるのは仕方ない。
それも仕事の内ということか。
それにしてもこの問題、
どう結末を付けるのか。



謙虚と素直

2016-09-19 10:05:14 | 日記・エッセイ・コラム
私は謙虚という言葉が好きである。
若い頃より、
「一に謙虚・二に謙虚・三四がなくて五に謙虚」
がモットーであった。
もちろん素直という言葉も好きである。
同じくらいに。
・・・・・
謙虚には相手がある。
相手に対しへりくだり、相手を仰ぎ見る。
そういう姿勢である。
それは人に対すれば人であり、
それは人でなくても構わない。
存在するものすべてが相手なのである。
存在するものすべての在るがままが相手なのである。
それを自然と謂う。
その自然はもとより、
その自然を在らしめる根源的力にこそ、
畏怖・畏敬するのである。
そしてその前で身を糺す。
これが謙虚である。
言うまでもないが、
これは日本人の信仰(祈り)であり、
日本人の心である。
・・・・・
もう20年も前になるだろうか、
海外旅行でエジプトに行ったことがある。
その時のことである。
ガイドに付いてくれたエジプト人女性が何気につぶやいた。
日本人は優しい、皆優しいと。
私は特段のことはしていない。
だからよくは分からなかった。
だが今なら分かる。
日本人が日本人であるからなのだ。
すなわち日本人の心を持っており、自ずと謙虚なのである。
結果、上から目線がないのである。
立場やお金の有無で人を計らない、
存在するものは等しく等価なのだ、
ということを無意識に実践しているのだろう。
そこが欧米人とは違ったのだ。
欧米人にはれっきとした信仰はあるのだが、
どうも独善と偽善の匂がするようだ。
もちろん日本人の中にもそういう輩はいるだろう。
でも彼女はそう言った。
・・・・・
素直は難しい。
かって松下幸之助翁がこれを推奨し研究もしたという。
でも、結局答えは出なかった。
これは言葉というものに根源的に関わっている。
素直と同様に難しいのが普通である。
無意識にやっているときはたぶん普通なのだろう。
だが普通にやってくれと言われたら、途端に普通にできなくなる。
例えばロケのエキストラで通行人役をする。
そこで普通に歩いて下さいと言われる。
言われたらその途端に普通に歩けなくなる。
というようなことである。
素直もこれと同じ。
つまり素の心とは無意識・無我の心である。
言葉はその無意識・無我に意識・我をもたらす。
なら素直とは無意識・無我を意識して行うということだ。
これは矛盾である。
絶対矛盾である。
これが簡単にできるなら、僧侶は座禅や修行などする必要がない。
お釈迦様も修行の必要などなかったのに。
ということになる。
・・・・・
思えば人は素直を実践していた時があった。
楽園(エデン)にいた時だ。
禁忌を守り、楽園にいた時だ。
言葉などという物騒なものを持たず生きていた。
今も人間以外はそうだ。
自然は今も楽園なのだ。
だから私はいつも言う。
自然は先生だ、いつでも・どこでもまったき先生なのだ。
彼の物理学で有名なホーキンス先生は言った。
人類は後100年で絶滅すると。
話半分としても、現実はどうもそのように動いている。
何とかせねばと思えど、如何ともしがたい。
もしそうなるなら、
それは神の意思であり、
神の裁きなのだろう。
救いの道は無いのか。
傲慢を廃し、謙虚を身に纏い、素直を実践する。
取り敢えず、
それしかない。






中華の呪縛

2016-09-12 14:24:52 | 日記・エッセイ・コラム
中華に呪縛されている国がある。
言わずとも分かるだろうが、それは韓国である。
朝鮮はもともと小中華を自称していた。
本家のシナは別格で大中華とし、
自らをそれに次ぐ中華とするのである。
結果、
大中華にはどこまでもこびへつらう、
周りの国には居丈高に振る舞う、
のだ。
それで何んとか国を立てる。
虎の威を借りる狐のように。
そんな歴史を刻んできた。
・・・・・
戦後できた国である韓国は小中華を標榜してはいない。
むしろその呪縛を解こうとした。
その結果の一つが漢字の排除である。
志は良しである。
だが中華の呪縛は解けていない。
昨今の対応をみていると明白だ。
長い歴史の呪縛は一朝一夕には無理なのだろう。
シナと朝鮮は宗教的には相似である。
仏教は形骸化しており見る影もない。
一般的には儒教というべきだろうが、
儒教はどうも宗教とは思えない。
祖先崇拝という面だけは宗教的なのだが。
日本でも江戸時代に幕府は儒教を採用していた。
それはあくまで統治思想としてだ。
まったく宗教的ではないのである。
宗教としては明らかに仏教であった。
神仏習合だから神道でもあるのだが。
ならばシナ・朝鮮はどうか。
どうも宗教は無さそうだ。
私には見つけることができない。
宗教の要素はいろいろあるが、
その核心は信仰(祈り)である。
それが無いのである。
・・・・・
韓国は今、キリスト教徒が増えてるらしい。
人口の三分の一に達するほどだという。
でもそれは信用できない。
本当のキリスト者はほとんどいないと思う。
イエスは言った、
汝の隣人を愛せよ、
右の頬を打たれたら左の頬を出せ、
等々…。
キリスト教は愛の宗教だと謂う。
今の韓国にそんな形跡はない。
汝の隣人をまったく愛せない。
右の頬を打たれてもいないのに相手の頬を叩く。
本当のキリスト者がいれば、こんなことにはならない。
偽キリスト者ばかりなのか。
だとすれば、今のシナと一緒である。
つまり信仰(祈り)が無いのである。
相似形という所以である。
・・・・・
ちなみに気になることがある。
北朝鮮である。
やることなすこと不可解で傍若無人なのだが、
中華思想はあまり感じられない。
はて、どうなってるのか。



政治は祭りだ、てか

2016-09-10 13:44:49 | 日記・エッセイ・コラム
中国・杭州でのG20が終わった。
G7サミットもそうだが、これはまあお祭りである。
祭りにはその核に儀式がある。
大なり小なり儀式がある。
その儀式を取り巻いて更に様々な行事がある。
ということだが、行事も含めて祭り全体が儀式だとも言えるが。
その方がしっくりくる。
さて今回の祭りは?
・・・・・
儀式は何のためにあるのか。
もちろん見せるためである。
そこに参加した人に見せるためである。
メディアが発達した現在は、
参加してない人にも見せることができる。
見せてどうしようというのか。
それは仕切るためである。
人々を仕切るためである。
だから祭りとは政治なのである。
というより政治そのものなのだ。
なら冠婚葬祭なども政治なのか。
もちろん政治である。
それが個人や国であっても。
それなりに、そこにいる人々を仕切っている。
お互い揉めないように仲良くやろう、と。
困った時には助け合えればなお良い、と。
例えば国会(話合いという儀式)だがこれはまさに政治であろう。
例えばオリンピック(スポーツの祭典)だがこれも政治であろう。
争っていてもこの時だけは止めよう、とか。
オリンピックはスポーツだというが、
それはその通りだが、スポーツを通じての政治でもあるのだ。
だからそこに政治を持ち込むな、とは意味不明である。
もちろん直接的な持ち込みは良くないが。
ともあれ政治とは祭りなのだが、本来は宗教こそが祭りである。
ということは宗教も政治も根は同じなのだ。
少なくとも日本語ではこのことがよく分かる。
政治を「まつりごと」と言うのだ。
世界でも実態は同じだろうが、
語源としてはハテどうなのか。
・・・・・
今回は中国が主催である。
うまく治められたのか。
どうもそうではないようだ。
もともとシナは政治が下手である。
だから易姓革命を繰り返すばかりなのだ。
なにしろ中華思想である。
自己中心で自分の都合を押し付けるだけである。
うまく仕切れる筈がない。
それに知っての通り、
それだからこそ、
政治と歴史を一体で扱う。
結果歴史認識という嘘を吹聴するばかり。
さらに宗教が無いのである。
本来「まつりごと」とは宗教である。
同根である筈の一方が無いのである。
これは何も共産主義が宗教を否定してるからではない。
もともとなのだ、
形としての宗教はあっても、
その実が無いのは。
実とはつまり信仰(祈り)である。
それが無いのである。
シナの歴史はつらい、
のだ。